72.リンレー夫人の末路
まるで透明人間になったようだとリンレー公爵夫人は考えていた。
今はまだ栄華を極めた夜会会場にいる。その事実は同じなのに、従前とは明確に立ち位置が変わっている。誰一人として、ここに存在する彼女を見ようとしない。
今までこびへつらっていた取り巻きたちは、我先にと会場から逃げ出して行った。きっと今頃彼女たちは身の振り方を必死に考えているのだろう。たぶんもう手遅れだろうが、せいぜい足掻くといい。
……自分はこれからどうしようか。彼女は夫の姿を探そうとして、すぐに諦めた。このところ夫はずっと不機嫌で、様子がおかしかった。今夜も王宮には来ているはずだが、夜会に出席しているかどうかも彼女には分からない。
はっきりしているのは、自分がしくじったということだけ。クリストファー殿下がヴィクトリアを見る時の、あの視線。あれを目の当たりにした瞬間、自分がとんでもない間違いを犯したことに気づいた。
あの方の最愛を貶めようなどと、なんて愚かなことをしてしまったのだろう。
先ほど殿下が見せたあれらの振舞いが、全て裏表なく真実であるとは、夫人も考えていない。彼はあの程度の駆け引きならば、たやすくやってのける人だ。
彼にはこだわりめいたものが何もないように見受けられた。こだわりがないからこそ、あそこまでクリアでいられる。何を贔屓することもない。何を憎むこともない。彼はどこまでもフラットで、ゆえにいつも正しかった。
しかしクリストファー殿下が正しければ正しいほど、彼は愛を知らないのだとリンレー夫人は考えるようになった。
リンレー夫人は女性特有の鋭さで、クリストファー殿下の本質を的確に見抜いていた。それはもしかするとクリストファー殿下に性的な魅力を感じていたために、観察に熱が入り、それで得られた成果なのかもしれなかった。
夫はクリストファー殿下を排除する方向で動いていたようだが、彼女自身はそれを愚かな選択であると考えていた。それでも夫を諫めなかったのは、殿下自身が、未来にこれっぽっちも希望を持っていないように見えたからだ。
彼は誰が歯向かってこようが、明日我が身がどうなろうが、たとえ国が滅びようが、何も気にしないのではないか。なぜかそう思えた。
――けれど違ったのかも。彼にも特別なものはあったのだ。
クリストファー殿下がヴィクトリア・コンスタムを見つめる、あの瞳。――焔のような揺らぎ、熱。そこには『感情』が確かに滲んでいた。あの娘は間違いなく殿下にとっての唯一無二、かけがえのない存在なのだ。
誰に対してもフラットでこだわりがなかった彼が、自分から近づき、飾りけのない言葉をかけていた。聖女に対する時の、口当たりがいいだけの、よそよそしい態度とは一線を画すものだった。
――あんなふうに女の子をからかったりするのかと、驚いてしまった。ましてやあの誇り高い彼が、女相手に許しを乞うなど。
ぼんやりと考えごとをしていると、ふと顔の上に影が差した。億劫に思いながら瞳をあげれば、目の前に立っていたのはノーマン・フィルトン氏だった。
彼は相変わらず精悍な面差しをしていた。ノーマンの色素の薄い瞳が、なんの感情も伴わずにリンレー夫人へと向けられている。
「――リンレー公爵夫人、少々おつき合いいただけますか」
武骨ではあるが礼節をわきまえたその口調に、思わず苦笑が漏れる。てっきりこれから断罪されるのだろうと身構えていたのに、次に彼が口にした台詞は意外なものだった。
「ご主人のことで、内密にお話が」
「夫が、何か」
ノーマンが屈み込むようにして、夫人の耳元に囁きを落とす。彼女の顔からみるみる血の気が引いて行った。
先程まで人生のどん底だと思っていたのに、その状態からさらに打ちのめされることがあるなんて、人生とは不思議なものだ。
ノーマンは同情の色を見せなかった。彼は憐れみもしないし、軽蔑もしない。夫人にとっては、ただそれだけが救いだった。