71.今夜あなたをこっぴどく振ってやる
「――三度よ、クリストファー」
「ヴィクトリア?」
「あなたが私に失礼な態度を取った回数」
本当はもっと沢山あるのだけれど、ヴィクトリアとしては出血大サービスで、三回とカウントしてあげた。クリストファー本人に自覚がないようなので、思い出せてやろう。
「一度目は王宮で再会した時。あなたは私の心臓に突きつけた」
銃を、とは直接口にせず、戯れのように人差し指でそれを模し、彼の胸を指す。しかめツラで彼の瞳を見据えると、信じられないことにクリストファーは口の端を上げている。
――信じられないとヴィクトリアは思った。もっと申し訳なさそうな顔をしろっての。
「二度目はクルーズ船。あなたは私を騙した」
「愛情表現の一環だとは捉えられない?」
「あのね。やられたほうが不快だったら、それはもうハラスメントですから。私はなかなか水に流さないわよ。執念深いの」
「段々楽しくなってきた。じゃあ三つめは」
何が楽しいんだ。Sの度がすぎて、性癖が歪みすぎだろう。ヴィクトリアは眉を顰めて、最後のわだかまりを告げた。
「三つめは前回の夜会。あなたは私をないがしろにした」
「それについては謝っただろう」
「全然足りない。全然」
「どうしたら許してくれる?」
今目の前にいるクリストファーは呆れるくらいに従順だった。先ほどヴィクトリアを部屋に引っ張り込んで、狼藉を働こうとしたのと同一人物だとは思えない。ヴィクトリアのご機嫌を取ろうとしているし、ずっと彼女だけを見つめている。
あいにく今回は聖女が不参加であるので、ヴィクトリアとしてはまだ100%彼を信用することはできなかった。ヴィクトリアは腰に手を当てて、彼をじっと見つめる。
「私も三回あなたを傷つける権利があると思う」
「……うーん。理屈的にはそうなるのか?」
「そうなると思うわ」
「じゃあ今夜は僕と踊ってくれないわけだ」
クリストファーのこの子供じみた言い草には、怒っていたはずのヴィクトリアも思わず笑い出してしまった。一度可愛く笑ってしまってから、慌てて表情を引き締めているところがたまらないと、クリストファーの視線が語っていたが、彼女がそれに気づいたかどうか。
ヴィクトリアはつんけんした態度を取るよう心かけた。
「今夜私はあなたをこっぴどく振ってやるわ。――これで一回。あと二回ばかり、あなたをこらしめたら、対等に向き合ってあげてもいい」
「なるほど、合理的な提案だ」
クリストファーが『ではさよならのキスを』と言って腰を引き寄せようとしたので、この強引さに呆れたヴィクトリアは、彼の胸を強く押して拒絶の意を示した。
「調子がよすぎるわよ、クリストファー!」
やっぱり腹が立ってきて、ヴィクトリアは彼の元を去ることにした。顔を顰めながら踵を返す。
「――ヴィクトリア」
少し歩いたところで名前を呼ばれて振り返る。目が合うと彼は、謎めいた笑みを浮かべて右手を上げてみせた。それはなんだか公の場でするには砕けた仕草で、王子らしからぬ態度に思えた。
「良い夢を」
ヴィクトリアは微かに瞳を細めてクリストファーに視線を残しながら、ふたたび背を向ける。
そうして真っ直ぐに出口のほうを向いた瞬間――脳内で何かが弾けた。
幾つもの過去の場面が高速で脳裏に展開される。取り留めのなかった場面は、やがてある夜の出来事に集約されていく。それは彼と初めて旅行に出かけた、あのクルーズ船での一幕だ。
たゆたう海のような彼の瞳の色が、ヴィクトリアの感情を強く揺さぶった。――青――青――ああ、なんてこと!
「……ターコイズ」
形の良いヴィクトリアの唇から、絞り出すような呟きが漏れた。無意識に右手を持ち上げて、イヤリングに触れる。
彼がクルーズ船でこれを贈ってくれた時、一体なんと言ったのだった? 『イフリートの卵を想起させるものを』――そうだ、彼はそう言ったのだ。
ゴシップ誌に載っていた卵の絵は、三百年前に鉛筆で描かれたデッサンで、白黒。色は塗られていなかった。卵については謎の部分が多く、あのデッサン画くらいしか記録は残っていないと聞いている。卵は木箱に納められていて、容易には開封できないようになっていた。中を見た者はほとんど存在しない。実際に卵を見た者がいるとするなら、強奪した武器商人のデンチ一派のみだろう。
騎士団の面々が極秘で卵確保に動いたが、それが安置されていた教会から運び出す途上で全滅し、デンチに奪われてしまった。クリストファーは卵を直に見ていないし、騎士団の面々は全滅してしまったから、彼らから報告を受けるのは不可能だったはず。
――ならばなぜ、クリストファーはイフリートの卵が『水色』であることを知ったのだろう? 炎の精霊とは真逆のイメージの色なのに。
ヴィクトリアがそれを知ったのは、エイダ・ロッソン経由である。彼女は前世の記憶こそまだ戻っていないが、それでも卵の色だけは覚えていたから、偶然ヴィクトリアはそれを知ることができた。
ではクリストファーは? 彼も前世の記憶でそれを知った? ――いや、違う。それはありえない。
イフリートが卵化したのは、魔王と勇者が激突して、両者が滅びたそのあとだったはず。たとえその伝承が誤りだったとしても、勇者が魔王と激突する『前』に卵化したイフリートを確認しているのならば、卵が現存している事実と矛盾する。なぜなら元勇者は荒んだ目をしていたから、イフリートの卵を見つけたらすぐに壊していたに違いないからだ。
エイダは魔王が消えたあとも生存していたので、前世で卵を目視している。だからエイダが卵の色を知っているのは、なんら不思議はない。
けれどクリストファーは違う。彼は知るはずのない情報を把握していた。それはつまり。
「――クリストファーが黒幕だ」
ヴィクトリアの唇から苦い呟きが漏れ出た。