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70.ドレスなんて脱いでしまえ


 にわかには信じがたい。見守る人々の顔つきは、まさに半信半疑という感じだった。


 先日の夜会で、ヴィクトリア嬢はクリストファー殿下にこっぴどくフラれている。ゴシップ誌でヴィクトリアとの婚約が秒読みと報じられた殿下は、あの晩、醜態を晒したヴィクトリアを切り捨てて、聖女メリンダ・グリーンの手を取った。


 ところがだ。ここでまたヴィクトリアが殿下の彼女ヅラをし始めた。――彼女はまだ破局を受け入れられないのだろうか? そんな憐れみの視線も行き交っていた。


 混沌とする空気の中、会場を横切り、騒動の渦中に近づいて来る人物がいる。――背の高いシルエット。背筋が綺麗に伸びて、動作の一つ一つが美しい。


 礼服を身に纏ったクリストファー・ヴェンティミリアは、今宵もうっとりするほどに華麗だった。女性といわず男性までもが、息をするのも忘れたように彼を眺めている。


 クリストファーはよそ見もせず、真っ直ぐにヴィクトリアの元へと歩み寄った。やがて彼女と対峙した彼は、瞳に熱を込め、ヴィクトリアだけを見つめて囁きを落とした。


「――とても綺麗だ、ヴィクトリア」


「あなたはそうおっしゃってくださるけれど、リンレー公爵夫人には不評でしたわ。特にこのターコイズのイヤリングは」


 ヴィクトリアの拗ねたような台詞を耳にして、クリストファーが笑みを浮かべる。それはいつもの彼の社交的な表情とは打って変わって、とろけるように甘い、中毒性のある何かを孕んでいた。


 遠巻きにこの様子を見守っていた若い女性数人が、耐えきれずに『ひゃあ』と悲鳴を上げたほどだ。


 ヴィクトリアはいつものように自信たっぷりな態度で彼と向かい合っていた。その堂々たる姿勢が、彼女がクリストファーに求められているという事実を周囲に知らしめた。


 クリストファー殿下の寵愛を示すのに、これ以上的確な方法はないだろう。


 ――聖女メリンダ・グリーンを見る目だって、こんなに甘やかではなかった。物見高い人々は興奮を抑えきれなかった。


 クリストファーが口を開く。


「君が身に纏えば、なんだって特別になる」


「ドレスも?」


「ああ、ドレスも」


 クリストファーがさらに距離を縮めようとすれば、ヴィクトリアは気まぐれのように一歩下がる。これには彼も困ったように瞳を細め、可愛い人の瞳を覗き込むのだった。


「御機嫌斜めなのか、ヴィクトリア」


「かもしれないわ。だってあなたが見え透いたお世辞を言うからよ」


「――ドレスなんて」


 クリストファーはくすりと笑う。


「脱いでしまえば、一緒だろう」


 彼は以前のヴィクトリアの台詞をなぞっていた。


 品がないといえばない、きわどい台詞回しであるが、上品な面差しのクリストファーが囁くと、ひどくセクシーで背徳的に響いた。聞き身を立てていた淑女たちは直立姿勢を保っていられずに身をよじって顔を押さえている。この場にいる全女性の羨望の眼差しがヴィクトリアに注がれているといっても過言ではなかった。


 それでもヴィクトリアの腹の虫は治まらない。クリストファーのほうは、先日馬車に乗り込んで謝ったから仲直り済だと考えているのかもしれないが、それは大きな間違いである。――あれでチャラにはならない。


 だから彼女はクリストファーを睨み据えたまま、このドレスに施されたある仕かけを解くことにした。お針子のシルヴィアが持てる技術の全てを注ぎ込んだ、最高の仕事。


 ヴィクトリアは右手を脇腹に添えて、指先をレース飾りに引っかけると、指に力を込めて一気に右下へと引き下げた。


 ――それはまるで奇術のようだったと、この日会場にいた者が語っている。複雑に縫い込まれているように見えた、あの重苦しいドレスが、まるで一枚布のマントのように、ヴィクトリアの身体から剥がされたのだ。


 布地が破けたような無粋な音がすることもなく、微かな衣擦れの音と共に、綺麗にするりと取り払われた。その下から現れたのは、深い青色のドレス。クリストファーの瞳と同じ色だ。


 そのドレスがあまりに特徴的であったので、周囲から驚きの声が上がった。


 ――なんと、肩紐がない! 脇の下より上の部分に、一切の布地がないのだ。


 近年のトレンドでは、肩とデコルテは出せば出すほどセクシーであるとされていた。そして今シーズンに出てきたオフショルダーが、その流れの最先端ということになった。


 オフショルダーはその名前のとおり、肩が丸出しになるデザインであり、胸が零れださないように上身頃を支える役割を果たすのが、両袖部分にあたる。肩は大胆に露出していても、構造上、上身頃と繋がった袖部分により、二の腕の一部はしっかり隠される。


 これはこれでかなりセンセーショナルなデザインであったものの、視覚的に横のラインが強調されるので、カッチリしていて生真面目な印象になりやすかった。つまりセクシーさを極めていったはずが、意外にも、クラシカルな形に仕上がってしまったのだ。


 オフショルダーは失敗ではないが、終着点ではなかった。上半身の露出合戦は、貴婦人たちを熱狂させることとなる。――邪魔な袖部分がいらない。結論としてはこうなるのだが、この部分を削るには困難な点が多いことが分かった。


 袖部分がまるでないビスチェタイプは、縫製の技術的に実現が難しかったのだ。サイズ調整が非常に困難であることに加えて、作り手の高い技術、洗練されたデザインセンスも求められる。ノウハウもまだ確立してしない。誰もこれを完璧な形で作り出せていなかった。


 ――ところがヴィクトリア・コンスタムが身に纏っているこのドレスは、完璧なまでに理想を体現したビスチェタイプで、しかも胸元のカットは柔らかなラウンド型であった。


 彼女は肩の形が美しく、胸も大きすぎないが、ほどよくボリュームがある。つまりはどんなドレスでも似合う骨格美を有していたのだが、この肩紐なしのドレスは、まさに彼女のために作られた、彼女のためのデザインであるといえた。


 このセクシーな襟ぐりならば、下はボリュームのあるベルラインでも素敵だっただろう。しかし元々上に纏っていた、もっさりした旧時代のドレスとの対比を際立たせるために、あえてスレンダーなシルエットに仕上げてあった。


 それにより滑らかな腰のラインが強調され、美術品のように見る者を惹きつける。


 ヴィクトリアはクリストファーが彼女だけを見つめているのを自覚していて、それでいてなお、つれない態度を取っていた。


「――手を取ることすら、許してくれないのか?」


 しまいにはクリストファーがそう彼女に乞うたので、彼女は高慢ちきに片眉を上げてみせた。



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