66.オイタはいけません
「私があなたのご機嫌を取る立場ですって? 笑わせないで」
「いつまで強気でいられるかな。どうやって切り抜けるつもりだ?」
その問いは、今彼に囲い込まれているこの状況を指すのか、それとも陰謀渦巻く夜会での振舞い方を指すのか、ヴィクトリアにはよく分からなかった。あるいは両方を指しているのだろうか。
――ところで全ての返答を、憎まれ口に変換するのは、彼女の得意技である。
「とりあえず三百とおりくらいあるけれど、どれがあなたにとって一番痛手であるか、今考えているところ」
「のんびり考えごとをしている時間はないぞ」
さらに強く腰を抱かれ、ヴィクトリアが本格的に焦りを覚えたその時。
「――殿下。それ以上のオイタは駄目ですよ」
大人の男性の声が割って入った。ヴィクトリアは扉を背にしているので、当然そこから誰かが出入りすることは不可能だ。――よって声をかけてきた人物は、必然的に部屋の奥から現れたことになる。
ヴィクトリアがクリストファーの肩越しに奥を覗くと、呆れたような顔つきで佇むノーマン・フィルトンの姿があった。クリストファーの従者、兼、護衛役の彼は、長い髪を後ろで一つに束ね、相変わらず武骨な雰囲気である。
先程までは部屋に誰もいなかったので、ノーマンは続き部屋経由で室内に入り込んだものと思われた。当然施錠はしてあったのだろうが、彼は立場的に合い鍵を持っている。
――助かった!
これ幸いとばかりに、ヴィッキーはクリストファーの腕から逃げ出すことにした。
もしかするとクリストファーのほうは、こうやって邪魔が入ることも想定済だったのだろうか。やつからすると、これらのじゃれ合いも、ただの暇つぶしというだけなのだから。
クリストファーは、
「残念」
と言って、にっこり笑ってみせた。これは完全におちょくられている。
ヴィクトリアは扉から廊下に滑り出ながら、ジロリと彼を睨みつけてやった。
――くそう、このセクハラ野郎。魔王の力が戻ったら、爆発粉砕してやるからな。そんなふうに色気のない悪態を心の中で吐きながら、膨れっツラになる。
ところでヴィクトリアがこんなふうに怒った顔をしている時は、彼女が平素纏わせている高慢ちきな空気が消えてなくなり、なんともいえぬキュートな雰囲気が強まる。しかし当の本人は、まるでその事実に気づいていないのだった。
***
ヴィクトリア・コンスタムが会場に現れると、示し合わせたかのように、方々から笑いが起こった。――嘲笑。蔑み。ありとあらゆる悪意が、コンスタム家の娘に集中する。
というのも彼女が纏っているドレスは、カビが生えたような古臭いものであったからだ。数百年ばかり時を遡ったのかと思うような、厚苦しい生地に、もっさりしたデザイン。
特に袖の部分は特徴的で、どこぞの奇術師が彼女の袖部分に鳩でも隠しているのかというくらいに、大きく膨れ上がっている。全体的にレース過多で重い仕上がりのそのドレスは、華奢なヴィクトリアが着ていても、膨張して太って見える。
――祖母の部屋に飾ってある年代物のビスク・ドールが、確かこんなドレスを着ていたわ。ヴィクトリアの格好を眺めながら、リンレー公爵夫人の取り巻きの一人が、小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
ヴィクトリアの母であるコンスタム公爵夫人は、このところ社交界から遠ざかっており、以前の影響力を失っている。社交界のパワーゲームはまるでシーソーのごとしだ。あちらが沈んだので、今はリンレー公爵夫人が持ち上がっている。
おかげでコンスタム家の令嬢は、どの仕立て屋に行っても、新しいドレスを手に入れることができなかったはずである。社交の場に出慣れている令嬢ならば、新しいドレスを仕立てられなくても、持ち前の衣装でなんとかやりくりすることも可能であっただろう。しかしヴィクトリアは長く引きこもっていたために、ドレスのストックがない。
先日のあの惨事は、妹のクロゼットから勝手に衣装を拝借したことが原因であったので、彼女の妹は巻き添えで恥をかかされたと大層おかんむりらしい――そんな噂が流れていた。
妹にそっぽを向かれたヴィクトリアは孤立無援であり、ドレスの供給を断たれてどうしようもなくなったのだろう。しかし相応しい衣装がないのなら、華やかな夜会にのこのこやって来るべきではなかった。
コンスタム家の娘だから、派手好きな母親の血を引いて、負けず嫌いで出しゃばりな性格をしているに違いない。とにかく目立てば勝ちという心積もりであるのか、奇をてらって、大昔のドレスを身に纏って登場した。彼女は一番やってはならない禁じ手を選んでしまったのだ。
これはいただけないと、この場にいる誰もが思っていた。きっと分かっていないのは本人くらいのものだろう。ヴィクトリアの振舞いはあまりに幼稚であり、優美さの欠片もなかった。
コンスタム公爵家もこれでおしまいね。リンレー派閥のご婦人方は、扇を顔の前で広げ、これ以上ないというくらいの侮蔑を乗せて、恥知らずな小娘を眺める。
とにかくヴィクトリア・コンスタム公爵令嬢は、前回に続き今回も、会場で浮きまくっていた。皆が遠巻きにこの恥知らずな娘を眺める中、リンレー公爵夫人が軽やかな足取りで近寄って行く。
「――また懲りもせず、古いドレスをお召しですのね。ヴィクトリア・コンスタムさん」
夫人の赤く引いた紅が歪み、瞳が糸のように細まる。
ヴィクトリアは微笑みを浮かべ、ただ黙してその場に佇んでいた。何を考えているのか分からない、貴族的な笑みである。
小娘が余裕をかましているので、リンレー公爵夫人は少しご機嫌を損ねたようだ。――もっとみっともなく、おろおろして見せれば可愛げのあるものを。夫人は目の前の小娘を、再起不能なまでに痛めつけてやることにした。