65.紳士協定に違反しない
前回の夜会で起きた騒動は、貴族社会では語り草になっていた。
病弱ということで通っていた公爵令嬢のヴィクトリア・コンスタムが社交界に登場しただけでもセンセーショナルであったのに、その彼女は現れるやいなや、リンレー公爵夫人にこてんぱんやられてしまったのだ。
彼女が犯した失態は致命的であった。
――ただ美しいだけの娘。けれど頭は空っぽだ。貴族社会で生き残れるような取り柄は何もない。彼女はしたたかでもなかったし、慎重でもなかった。教養もなく、行動のどこもかしこもスマートさを欠いていた。まるで根拠のない大胆さで打って出て、当たり前のように無様に負けた。
ヴィクトリア・コンスタムの鮮やかすぎる登場と、その直後に訪れたあっけない幕引き。
リンレー公爵夫人の一派は『あれは傑作だった』と、今でもあの夜のことを思い出す。
ずっと目の上のたんこぶだった、コンスタム公爵家。あの家の女主人であるコンスタム公爵夫人は、高慢ちきでまったくもって目障りな女だった。高飛車なだけならまだ可愛げがあっただろう。――しかしあの女の最悪なところは、すれ違った男の十人中十人が振り返るであろうというような、圧倒的な美しさと華やかさを併せ持っている点だった。
母親だけでも目障りなのに、今度は娘がしゃしゃり出て来て、あまつさえクリストファー殿下といい仲という噂まで出回り始めた。この事態はリンレー公爵夫人からすると不愉快極まりない事態であった。
それが先日の夜会で一気に片がついた。娘のヴィクトリアをあれだけ貶めてやったのだから、彼女の母親だって相当な痛手を負っただろう。いかにやり手なコンスタム公爵夫人であっても、この空気を覆すのは相当難しいに違いない。
――そして次の大きな夜会が開催されることになった。
リンレー公爵夫人は今宵もさぞかしご機嫌麗しく……かと思いきや、どうやらそんなこともないようである。夜会の支度でバタつくリンレー公爵邸で、女主人の怒鳴り声が響き渡っている。
屋敷の召使たちは『これじゃあ、いくら給金を貰っても割に合わないわ』と愚痴をこぼし、真剣に転職を考える者まで出始めた。
さて、それから時は瞬く間にすぎて、その晩。
***
ヴィクトリア・コンスタムが社交界にカムバックした。
王宮に辿り着いたヴィクトリアは、例の高慢ちきな顔つきで堂々と馬車から下り立った。そうして彼女は赤絨毯の上を、背筋を伸ばして颯爽と進んで行く。
その様子を見たある者は呆れ、またある者は驚きで目を見張り、彼女を見送った。
――ところで今回のクリストファー・ヴェンティミリアの采配は素早かった。
ヴィクトリアが会場に着く前に、実直そのものといった護衛騎士が音もなく近寄って来て、彼女に小声で何かを囁き、ルートを外させたのだ。ヴィクトリアはさして慌てることもなく騎士のあとに着いて行った。
やがて人気のない一角に辿り着くと、背の高い扉の前に立たされた。すると息をつく間もなく扉が開き、ヴィクトリアは腕を引かれて中に引っ張り込まれてしまった。
――気づけば扉を背にしている。すぐ目の前には艶やかな黒髪に、何度見ても驚きを覚える麗しい顔があった。
この男に不適切な接近を許すのは、これでもう何度目だろう。
青い瞳の輝きは、悪戯めいた不思議な光を湛えていた。――つまりはヴィクトリアを前にした時に見せる、彼のいつもの感じである。
クリストファーは瞳を細め、彼女の姿をじっくりと間近で検分してから、口の端に笑みを乗せた。
「君にしては退屈だ」
開口一番これか。ヴィクトリアは冷ややかにクリストファーを睨み据える。
先日素直に謝ったかと思えば、すぐにこうなる。彼のじゃれつきは時折――いや、しばしばこちらの心を苛立たせるとヴィクトリアは考えていた。
彼女がたやすく挑発に乗ってこないので、クリストファーは焦れたのだろうか。
彼の瞳が深みを増したような気がした。視線は艶っぽさが増しているのに、下らない軽口をやめようとしないのだから、もう始末におえない。
「――いっそここで全て脱いでしまったらどうだ? そんなものを身に纏っているくらいなら、裸のほうがマシだろう」
クリストファーに腰を抱かれ、彼の鼻先がヴィクトリアの頬に近づいて来た。――唇が触れるか触れないかというところで、クリストファーがピタリと動きを止めた。
それは彼の本意ではなかったはずだが、さすがドSのド変態。彼は相変わらずの可愛げのなさを発揮して、余裕を崩すことはなかった。――どこかこの状況を楽しんでいるような、それでいて少し面白くなさそうな顔で、彼女の瞳を覗き込んで囁きを落とす。
「君は恐れを知らないのか?」
問いかける彼の首元には、小振りの鋭利なナイフが突きつけられている。ヴィクトリアは顔色一つ変えずに、クリストファーの肌にそれを押し当てていた。
彼女は危うい駆け引きを行っていた。これが公になれば非常にマズいことになる。しかしこれは密室の中の出来事で、ヴィクトリアとクリストファー、二人きりのお遊びなのだ。――そう、ここにいるのは、二人きり。彼女の振舞いの奔放さを知っているのは、クリストファーだけなのである。
そしてそのクリストファー自身がこのやり取りを楽しんでいるのだから、もうどうしようもないのだった。
「あなたこそ」
ヴィクトリアは高飛車に切り返した。
「私に触れてもいいと、許可した覚えはない」
「許可が必要か?」
彼の言葉があまりに自信に満ちていたので、ヴィクトリアは小首を傾げてしまった。――もしかして自分はクリストファーに惚れていたのかしら? そんなおかしな錯覚に囚われそうになる。彼女自身ですら気づいていないような本音を、全て見透かしているかのように、彼の言葉は淀みがなく真っ直ぐに届く。
それだけでヴィクトリアはペースを乱されてしまう。
「……当たり前よ。私はあなたのものじゃない」
「確かに君は僕のものじゃない」
「では、触れないで」
「だけど逆らえはしないだろう? もうあらがうのはよせ」
クリストファーの繊細な指が、ヴィクトリアの鎖骨をそっと撫でた。――彼女の肩がビクリと震える。それは不可抗力に近い、ただの身体反応であったのだが、目敏いこの男がそれを見逃すはずもない。
「――君は僕のご機嫌を取る立場だ」
高圧的で。意地悪で。自信たっぷりで。まったくもって憎らしい。
先日垣間見えたはずの、あの可愛げはどこへ消えてしまったのだろう? まさか先日のあれで、全て使い切ってしまったとか? あの時クリストファーが口にした『僕が悪かった』という言葉。あの歴史に残る敗北宣言が、この男の一生分の謙虚さの前払いだったのだとしたら。
――おお、神様! ヴィクトリアは心の中で慄く。たったあれっぽっちで可愛げが尽きるって、人としてバランスが悪すぎではないですか?
先日クリストファーのことを『紳士協定に違反しないS』だと心の中で褒め称えてしまったが、こうなってくると大きな間違いだったなと思う。
つらつらと恨み言を唱えていると、気を飛ばすなとばかりに、クリストファーが瞳を細めた。その小馬鹿にしたような態度に、ヴィクトリアはカチンときてしまう。