63.ベイジルとエイダ
段取りでは、『ヴィクトリアとマクドネルが施設に潜入し、ゴロツキたちに一服盛る。そして薬が効いたら、窓から合図として反物を垂らす』と決めていた。――ベイジルは生え抜きの騎士団員で、佇まいに隙がなさすぎて、どうやっても調理人に見えない。それゆえ潜入係から外されたのだ。
ベイジルとしては、ポンコツ二人組を送り出すことに不安しかなく、マクドネルの珍妙な馬車の中で、ソワソワしながら合図が来るのを待っていた。――ところが待てど暮らせど合図が来ない。これは何かあったのだと判断して、単身、玄関口から乗り込んだ。
階下にいた大勢のゴロツキたちはまったく薬が効いておらず、ベイジルは全員を相手にしなければならなかった。端から殴り飛ばしてを繰り返し、しっちゃかめっちゃかな騒ぎに。
意外と肉弾戦もいけるベイジル氏。誰も見ていないのに、無駄に高スペックなところを披露し、ヴィクトリアたちを救助するため、ここまで上がって来た。
――それなのにこれだ。人一倍苦労したのに、一切見せ場を作れず。どこまでも外す男、それがベイジル・ウェインなのである。
「ごめんベイジル。忘れてたわ」
てへ、とヴィクトリアが舌を出すので、ベイジルは緊張と緩和の落差で、感情の整理が追い付かない。普段温和な彼がブチ切れて怒鳴っていた。
「――お前、今度絶対殺すからな!」
「へいへい、文句はあとで聞くから。それよりあんたの剣幕に、婚約者殿がびびっていますよー」
ヴィクトリアがからかうようにそう告げるので、やっと少し客観性を取り戻したベイジルは、彼女が抱え込んでいる一人の少女に目を留めた。目を丸くしてこちらを見つめているのは――……エイダ・ロッソンか? 空色の優しい瞳。
ずいぶん様変わりしているが、元気そうだ。無事な彼女の姿を確認して、膝から崩れ落ちそうになる。
「――エイダ! よかった」
エイダは過去の彼を思い出していた。ベイジルはいつも涼しげな顔をしていて、女の子の憧れの的という感じで、大人びていて素敵だった。
なのに今目の前にいる彼は、こちらを見てくしゃりと眉尻を下げ、感情をあらわにしている。彼は取り乱していたし、なんだか泣きそうにも見えたし、等身大の一人の青年としてそこに立っていた。エイダを案じて、彼女だけを見つめている。
エイダの胸に込み上げてくるものがあった。ヴィクトリアと分かち合った情愛とも違って、胸の奥が甘く疼くような、衝動的な感情が湧き上がってきた。
「ベイジルさん!」
二人は互いに引き合うように近づき、抱擁を交わした。ベイジルの腕は少し震えていて、彼女が腕の中にいることが、まだ信じられないという様子だった。
彼が不安そうなので、エイダはベイジルの背中に腕を回して、優しく撫でた。なんだかおかしなことに、助け出されたエイダのほうが、ベイジルを慰めているのだった。
「……すごく痩せてしまって、可哀想に。早く助けてやれなくて、ごめん」
彼の言葉には心からの詫びが込められていると感じて、エイダは彼の肩に額を摺り寄せる。湿っぽいのが嫌で、わざと冗談めかして言った。
「自分で言うのもなんだけれど、痩せて少しは綺麗になったと思うわ」
「君は前から綺麗だったよ」
「そんなことないわ」
「あるよ。君は君だ。俺は君だから好きなんだ」
エイダは不思議な感じがした。彼がいい人なのは知っていたけれど、こんなふうに強く求めてくれるなんて、これっぽっちも期待していなかった。けれどベイジルが飾りけなく思いを語っているのが分かったから、エイダも素直に自分の気持ちを伝えたくなった。
「――私、ずっとあなたに会いたかった。あなたが好きなの」
恋しい。こんなに彼が好きだったのかと、エイダは自分でも驚いていた。
たぶん世の男性の大半は、今の痩せてすっきりしたエイダの外見を好むだろう。彼女が愛されるとしたら、外見が平均に近づくことが条件で、そうなって初めて幸せを掴めるのだと思い込んでいた。
けれどベイジルは、彼女が痩せていようが太っていようが、本当にどうでもいいみたいだ。そんな人だから、エイダも彼を好きになったのかもしれない。
――抱き合う恋人たちを眺め、ヴィクトリアは机に行儀悪く腰かけた。カサンドラもそれにならい、無遠慮にエイダとベイジルを眺める。
ヴィクトリアは膝の上で頬杖をつきながら、真顔で呟きを漏らした。
「まぁよかったけどさ。……想い合うカップルを見ると、なんで私には素敵な恋人がいないのだろうかと、そんなことを考えてしまうわ」
「なぜでしょう? Nia様ほど美しく賢く気品があり、ご立派な方をあたしはほかに知りません。天上天下この世の生きとし生ける者全てをひっくるめても、Nia様に及ぶ者なしです。――もしかするとNia様は全ての頂点に立っていらっしゃるがゆえに、釣り合う者が誰もいないのかもしれません。王者はいつだって孤独なものなのです」
カサンドラは心底残念そうに瞳を閉じて語った。彼女はNia様に心酔するあまり、あるじを過大評価する傾向があった。
ところでここまで褒めちぎられても、現状ヴィクトリアには素敵な恋人がいないわけだし、本人としては、なんだか負け犬の気分を味わわされる結果となった。以前クリストファーに言われた悪口――『可哀想に、こいつ一生一人だな』が脳裏をよぎり、彼女の心に隙間風を吹かせた。
「なるほど、美しすぎるって、罪なのね。……てことで強い酒を飲みたい気分」
ヴィクトリアが虚脱したようにそう言うと、
「不肖カサンドラ、どこまでもおつき合いいたします!」
カサンドラは神妙に頷いてみせるのだった。
――ところでやはりマクドネルは薬の希釈率を間違えていたらしい。スープのほうは薄すぎたのだが、青いクリームが塗りたくられたサプライズケーキのほうは特別高濃度になっていたらしく、この施設のボスゴリラことポーリン女史は、ケーキの表面に顔面をめり込ませて意識を飛ばしていた。