59.イヴォールとカサンドラ
撥ねっ返り娘のカサンドラ・バーリングは、この夜、婚約者であるイヴォール・リンレーと面会していた。殺風景な狭い部屋で、樫の木のテーブルを挟んで腰かける。
ムードもへったくれもないこの部屋のせいなのか、はたまた二人の醸し出すズレた空気のせいなのか、向かい合っていても、恋人同士のような甘い雰囲気が漂うことはなかった。
イヴォールは何か考え込んでいる様子で、ガラス玉のように無機質な瞳をカサンドラに据えている。
カサンドラのほうは感情豊かにイヴォールを睨みつけていたのだが、この男に何を期待しても無駄だと気づいて、はぁと面倒そうにため息を吐いた。
「――用件はなんなの、イヴォール」
「分かっているだろう。君が従順になりさえすれば、ここから出られる」
「それは無理」
「だったら一生ここから出られない」
堂々巡りだ。カサンドラはやるせない気持ちになり、複雑な形に眉を顰めた。
「あたしはあたしであることを変えられない。もう、うんざりなんだよ、あんたたちには。リンレー公爵の身内にはなれない」
カサンドラはひょんなことから令嬢たちを監禁する施設の存在を知ってしまった。――真っ直ぐな彼女はこの事実を公にしようとして、失敗。今にして思えば、狡猾な敵を相手にするには、計画が杜撰過ぎた。猪突猛進に突き進んだ結果、カサンドラはリンレー公爵に囚われてしまったのだ。
「君が都合の悪いことを忘れて、目を瞑ってくれさえすれば、全て上手くいくのに」
イヴォールも珍しくそのおもてに苛立ちを乗せている。そうすると人形のように端正な彼の顔が、感情を伴った人間のものに変わるのだった。
「それは無理な相談ね。こんなの時間の無駄だわ。もう帰って、イヴォール」
カサンドラがツンとして言い放つ。本当に時間の無駄だと思ったので、机の上で頬杖をつきそっぽを向いた。そんな彼女の横顔を、どこか仄暗い顔でイヴォールは見つめる。
「君はどうしてそうなんだ」
「あたしのせいなの?」
「隣国には『ロボトミー』と呼ばれる手術があるらしい。尖った金属で脳を直接いじくって、従順な人格に変えるんだ」
カサンドラは耳を疑った。頬杖からがくりと顔が滑り落ちそうになり、慌ててイヴォールに向き直る。
彼は静かにそこに座していて、従前となんら変わりがなかった。――変わりがないだけに、対面しているカサンドラは薄ら寒い思いをすることになる。
「それ、本気なの? あたしにその手術をするつもり?」
尋ねる声が掠れた。
「だって君は変わろうとしないじゃないか」
「手術で従順になったとして、それはもうあたしじゃないんだよ、イヴォール。あんたはそれでいいの?」
カサンドラが尋ねると、イヴォールは俯いて黙り込んでしまった。――たぶん彼だって分かっているのだ。そんな手術はまるで現実味がないと。
だけどイヴォールは選ばなくてはならないのだとカサンドラは思う。他人を変えるのは無理だということを正しく理解して、自分がどうすべきか選ぶべきだ。
「――こんなふうに檻の中と外で離れて暮らすのは嫌だよ、カサンドラ。君には自由がない」
「そうかしら」カサンドラは懐疑的だった。「それじゃあ、イヴォールは自由だとでもいうの?」
「そりゃあそうさ、だって」
だって、のあとが続かない。言葉少なで、顔色の悪い彼。本当に彼は自由なのだろうか? これで? この上なく不自由そうに見えるのに?
「あんたもあたしも一緒だよ。縛られている。だけどあたしのほうが、だいぶマシだと思う」
「閉じ込められているのに?」
「だけど心は自由だ。あんたとは違うよ」
カサンドラは真っ直ぐにイヴォールを見返した。
「もう話すことは何もない。帰って」
そう言い置き、躊躇いも見せずに席を立つ。
部屋に一人残されたイヴォールは、虚しい気持ちを抱えて、力なく椅子から腰を上げた。
外に出ると空気がひんやりしている。どこからともなく一匹の犬が近寄って来た。どことなくユーモラスな顔でこちらを見上げ、小首を傾げている。
「なんだ、そのトゲトゲの首輪」
イヴォールは口元に淡い笑みを浮かべた。膝を折ってしゃがみ、繊細な指で犬の背中を撫でる。犬は気持ちよさそうに目を細めてから、ゴロリと腹を見せて通りに横たわった。
「……一緒に来るかい?」
抱き上げようとすると、するりと手から逃れて走り去ってしまった。イヴォールは寂しげにそれを見送って、
「……僕はひとりぼっちだ」
と小声で呟いた。その声は宵闇に吸い込まれ、彼の言葉を聞く者は誰も存在しなかった。