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58.犬も食わない


 ところでこの時、取り乱すヴィクトリアを端から見ていたベイジルは、いたたまれない気持ちになっていた。


 つき合いが長いだけに、ヴィクトリアに対しては、妹のような姉のような、いわゆる家族みたいな感覚を抱いていたのだ。そんな近しい者のラブシーンを見せつけられているわけだから、気恥ずかしいというのもあるし、心配にもなってくる。


 誰だって自分の目の前で、妹がポッと出の男に口説かれていたなら、『おいおいおいおい、ちょっと待て』と制止したくなるものだろう。


「――あの、クリストファー殿下。差し出がましいようですが、ヴィクトリアが困っているので、そろそろ放していただけませんか」


「べ、ベイジル~~~」


 ヴィクトリアは生まれて初めて(!)ベイジルのことを『なんていいやつ! 頼もしいやつ!』と心の底から称賛した。――ベイジルの株、ここへ来てまさかの爆上がりである。ヴィクトリアとしては、今ならばベイジルのことを、『お兄ちゃん』と呼んでやってもいいくらいの気持だった。


「――ベイジル」


 今度はクリストファー殿下が彼の名前を呼ぶ。


 最初にヴィクトリアが口にした『ベイジル』と次に殿下が口にした『ベイジル』のあいだには、体感でいうと熱湯と氷くらいの差があった。落差が尋常じゃない。クリストファーから名前を呼ばれただけで、ベイジルは背筋が凍りそうな心地になった。


「はい、殿下」


「差し出がましいにも、ほどがある。お前には自殺願望でもあるのか?」


「いえ、ありません」


「ならば口を閉じていろ」


 クリストファーの指示はこの上なく明確だった。元々逆らい難い空気を醸し出す御方であるから、このように僅かでも不快感を言葉に乗せてこられた日には、受け手が感じる圧力は耐えがたいものがある。


 ――あれ、この人って、こんなキャラだったっけ? なんて考えながら、ベイジルは動揺のあまり口元を押さえる。車中に重苦しい沈黙が落ちた。


 ――ワンワンワンワン――


 なんともいえぬ間の悪さで、街路のほうから犬が吠えたてる声が響いてきた。


 ……犬うるせぇな。ここにいるほぼ全員がそんな感想を抱いたのだが、今は車中が取り込んでいて、野良のヒステリーに構っていられるような状況ではない。


 しかしこの横槍により、幾分冷静さを取り戻すことができたヴィクトリアは、彼の胸に手のひらを突いて、上半身を離しながら告げた。


「――ちょっと、クリストファー。こんなふうに膝に乗せられると困る。私はあなたの膝かけじゃないのよ」


「君を膝かけだと思ったことは一度もないな」


 クリストファーはいかにも真面目ぶって答えるのだが、彼の持ち味であるポーカーフェイスの度がすぎて、端から見ると本心を語っているのか不明瞭であった。


「そう、それはよかった」


 ヴィッキーは物言いたげに片眉を上げた。


「とにかく、よ。抱っこされているこの時間って、ものすごく意味がないと思うわけ」


「見解の相違だな。僕は今が、これまで生きてきた中で一番楽しい」


 言葉のとおり、クリストファーの瞳は優しげで、不思議と満ち足りているように見えた。


「何が楽しいの。理解できない」


「君に酔いそうだ。とてもいい匂いがする」


「ワインの匂いに酔ったの?」


 ヴィクトリアは酒まみれの自身の姿を訝しげに見おろす。――クリストファーって、お酒に弱いのかしら? けれどヴィクトリアはすぐに、安酒場での一幕や、クルーズ船でのディナーを思い出していた。彼はかなりの量のお酒を飲んでも、様子は変わらなかったはず。


 考えを巡らせていると、外の吠え声が一際大きくなった。


 ――ワンワンワンワンワンワン――どうやら犬は馬車のすぐ傍まで近寄って来たらしい。


「もう、うるさいわねぇ!」


 たまらずにヴィクトリアが馬車の扉を開けると、途端に中型犬が飛び込んで来た。顔や背中の大部分が黒で、口元と胸元、腹が白い。ブルドックの亜種だろうか。本家より顔の皴は少ないが、鼻ぺちゃで目が離れている例の特徴は受け継がれていて、なんともユーモラスで憎めない顔つきをしていた。


「ワンワンワンワンワンワン!」


 連ちゃんで吠え続けているせいか、口の開きと鳴き声がちょっとズレて聞こえてくるという、魔訶不思議ぶり。ヴィッキーはげんなりして、耳に人差し指を突っ込んだ。一方、犬好きらしいベイジルは、隙あらば触りたいという様子で見おろしている。


「ワンワンワンワンワンワンワンワンワンワン!!!」


 そして肝心の犬は、御者台にいるマクドネルをロックオンして吠え立てている。なぜ一旦車中に上がってから、外にいる御者台に向かって吠えているのか、行動が謎すぎる。


 敵意(?)を向けられているマクドネルは、目をぎょろつかせながら犬を熱心に見つめ返した。


「あたしは犬好きでしてね。相手にも気持ちが通じるのか、こうしてすぐに友達になっちまうんでさぁ。言ってみりゃあ、アツアツの仲ってやつでね」


 マクドネルは調子よく嘯いているが、相対する犬の鼻の上には皴が寄っていて、グルルルルと唸っているさまは、どうにも友好的には見えない。ベイジルは疑わしい目つきでマクドネルを流し見た。


「なんだかお前を嫌っているようだが」


「そんなことはござんせんよ。だってあたしは犬を見かけりゃあ、トゲトゲのついた首輪をプレゼントして回っているくらいの犬好きですからね。犬業界じゃあ優しいおじさんとして有名なはずですぜ」


 犬業界ってなんだ。そしてマクドネルのしていることは、迷惑な施しでしかない。あのトゲトゲの首輪は誰得なんだ。


「そんなことをしているせいで、犬業界(?)から嫌われてしまったんじゃないか? 今度は肉でもあげればいい」


「当店には『犬も食わない』ってメニューがござんすけどね」


 ……犬も食わないものを人に出すなよ。ベイジルは半目になる。しかしベイジルと違って、細かいことをあまり気にしないヴィッキーは、その話題に食いついた。


「その『犬も食わない』というのは、どんなメニューなの?」


「謎の肉をスパイシーにあげたものです」


「それって犬も食べそうじゃない?」


「ですけど、中身は謎の肉ですからねー。ワンちゃん、そういうの駄目ですから」


 スパイシーな味つけが問題なわけじゃなくて、肉の出所が謎だから駄目なのかよ。ベイジルは根拠のなさに苛立ちを覚えた。――大体だな。謎の肉ったって、せめて作り手は中身を把握しておけよ。


「謎肉でも駄目じゃないだろ。犬ってそんなにグルメじゃないと思うが」


 ベイジルが思わず口を挟むと、ずいぶんな台詞が返ってきた。


「いや、あなた、犬はベイジルさんよりグルメですよ」


「お前、失敬だな。俺には絶対にその『犬も食わない』とやらを出すんじゃないぞ」


「ですけど旦那、そいつは手遅れでさぁ。だってもうベイジルさんは、すでにお召し上がりですからね」


「頼んだことねーよ」


「先日のランチセット、サンドイッチと謎肉あげでしたけど」


 それを聞いたベイジルはげー、と口元を押さえた。すでに胃袋に納まっているとなると、心理的ダメージがでかい。


 ――ワンワンワンワンワンワン――


 しかしそれにしてもうるさい犬だ。なんの話をしていようが、最終的に『ワンワン』で上書きされてしまう。


 いい加減黙らせるために、マクドネルがソーセージを取り出し犬に与えたところ、やっと静かになった。


 ヴィッキーは床に伏せてソーセージにかぶりつく犬を見おろし、こうのたもうた。


「――この子気に入ったわ。ケルベロスと名つけよう」


 ネーミングセンスねーなとベイジルは思ったのだが、当の犬は、


「わうーん」


 と鳴いて満更でもなさそうである。食事中に合いの手を入れたので、口の端から飛び出したピンクの肉片が床にばら撒かれた。


「あらまー、なんて可愛いらしいワンちゃんでしょうね」


 マクドネルが性懲りもなく手を伸ばしてちょっかいを出そうとしたら、ヴィッキーに懐いていたケルベロスがさっと顔色を変えて牙を剥いた。それはあっという間の早業で、マクドネルの太くて短い指を噛み切ろうとしたようなのだが、マクドネルも中々のしたたか者で、それをいち早く察して、間一髪で指を引っ込めたのだった。


 ――ガチン! と犬の歯が噛み合わさる、ゾッとするような音が車中に響く。


「やっぱり嫌われているじゃねーか」


 ベイジルが冷たく言い放つも、マクドネルは断固認めない。


「そんなこたぁございませんよ」


 この頃になるとヴィッキーは、クリストファーの膝の上でくつろぐコツを掴んでいた。こういうことは遠慮したり、気にしたりしたら負けなのだ。当たり前のように受け入れることが大事なのである。つまり『コレは椅子だ』と思って気にしないのが一番なのだ。


 クリストファーはクリストファーで、かつてここまで空気扱いされたことがなく、この状況に新鮮味を感じていた。それに彼はちゃっかりヴィクトリアを抱え込んでいるので、別段退屈はしていないわけだった。


「私、いいこと思いついちゃった」


 ヴィクトリアはグイと御者台のほうに身を乗り出して、マクドネルにおねだりした。


「ねぇ、さっき話に出た、トゲトゲの首輪ない? ケルベロスに着けるわ」


 ――こうしてなんの生産性もなく、夜は更けていったのだった。



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