57.泣かせたくなる
イヴォールを乗せた馬車は南へ向かっていた。
ヴィッキーとクリストファーが痴話喧嘩を繰り広げているあいだに、旧市街のさびれた一角で馬車が停まる。
御者席のマクドネルが手綱を捌き、相手から気取られない位置に上手く馬車を着けた。
「ここはウーランドのシマでさぁ」
「ウーランド」
その名前を繰り返し、ベイジルが眉根を寄せる。
「それはデンチの下請けをしている悪党だな」
王宮に捕らえられたゴロツキ――ヴィクトリアが尋問しようとした例の下っ端が、ウーランドの配下だった。
ウーランドはさして大物でもないのだが、それでもこの南旧市街では確固たる地盤を築いている。地元密着型というのだろうか。密着しているといっても、地元民にはこれっぽっちも愛されていない。ケチでセコいだけの、搾取型の悪党だ。
南旧市街は治安が悪く、中央でも問題視されているのだが、リンレー公爵が一枚噛んでいる土地なので、政治的なしがらみから騎士団も中々手が出せずにいた。
今いるのはメインストリートで、南旧市街の中では比較的安全な場所になる。 沿道に建つアパートメントも造りはしっかりしていて、かつての栄華の名残があった。
停車したリンレー公爵家の馬車を遠目に窺っていると、リンレー坊ちゃまが街路に下り立ち、頑丈そうな石造りの建物の入口へ向かうのが見えた。扉の叩き方で合図を決めているらしく、入口で何やらやり取りしている。
イヴォールの姿が建物の中に消えるまでを、ヴィッキーはつぶさに観察していた。
「エイダちゃんがここに閉じ込められているのは、どうやら間違いがなさそうね」
「分かるんですかい?」
マクドネルが半身振り返り、こちらを笑わせにかかっているのかと疑いたくなるような、面白い顔で尋ねてくる。本人は面白い顔を作っているつもりもないのかもしれないが、とにかくマクドネルは何かというと目をぎょろつかせて眉尻を吊り上げる癖があるので、どうしても珍妙に見えてしまうのだった。
「――見て、窓に鉄格子が嵌っている。あれは中にいる者を絶対に出さないためでしょう」
建物の窓を指差してそう告げると、ベイジルが覚悟を決めた様子で口を開いた。
「現場に乗り込んで彼女を確保する。ヴィクトリアは戻って、応援を呼んでくれ」
「ちょっと待ちなさいよ。あんたが単身乗り込んで、どうにかできる問題だとは思えないわ。中にはウーランドの配下が大勢いるでしょうし」
「なんとかする」
ヴィッキーの知るベイジル・ウェインという男は、若さゆえの無鉄砲さとは無縁の、物事をよくわきまえた理性的な男だった。無茶をするのはいつだってヴィクトリアのほうで、ベイジルはそれを冷静にいさめる役割だったはず。
けれど目の前にいるベイジルときたらどうだろう。恋人を心配するあまり、後先考えられなくなっている。衝動とは無縁だった、あのベイジル・ウェインが!
人間、変われば変わるものなのね。ヴィッキーは妙に感慨深い気持ちになっていた。
「――じゃあ、私も行くわ」
よっこいしょと腰を上げかけると、ベイジルが唖然とした様子で声を荒げる。
「駄目だ、ヴィクトリア!」
「最近喧嘩していないから、身体がなまっているのよ。つき合うわ」
聖女との決闘から、もうずいぶん日がたつ。暴れるにはいい頃合いだろう、なんて考えながら、ヴィッキーが能天気に申し出ると、
「お前は定期的に喧嘩をしていないと駄目な体質なのか」
ほぼ条件反射で突っ込みを入れてしまうベイジル。
「だって任せておけないんだもの。あんたって放っておくと、犬死にしそうだしさぁ」
「根拠はなんだ」
「とにかく『持っていない』っていうかさぁ」
「持っていないって、何をだ」
「何をって、何もかも?」
疑問形なのが逆に腹立つな。ベイジルは目を据わらせる。この女は人を苛立たせる天才だと思う。
「おい、お前、いい加減告訴するからな」
「すれば? 裁判官も『言ってること、すごい分かるー』って私の意見に全面的に同意すると思うわ。……まぁ、冗談はさて置き、私も連れて行きなさいよね」
そう言ってヴィッキーが馬車から下りようとしたところで、邪魔が入った。不意に後ろから伸びてきた腕が、グイとウエストに絡んできたのだ。こんなことをするのは、クリストファー以外にない。
そのまま後ろに引っ張られ、抱え込まれるように膝抱っこされてしまったので、ヴィッキーは目を見開いて彼のほうを振り返った。
――傍らに迫る青い瞳。ものすごく距離が近い。どう考えてもこれは、友達以上の距離感である。いや、元々友達ですらなかったはずなのだが?
え? なんなのこれ? 頭の中に沢山のクエスチョンマークが浮かんだヴィッキーは、混乱しすぎて絶句してしまう。
「あまりお転婆をするな、ヴィクトリア」
至近距離からクリストファーがこちらを覗き込み、囁く。彼の黒く艶やかな前髪がヴィクトリアの額にかかっていた。
深い青の虹彩。切れ長の瞳は涼しげであるのに、なんともいえず情緒的で、対面しているだけでクラリとさせられるような色気を孕んでいた。
――この男はこんなふうに、感情豊かに誰かを見つめる人間だっただろうか? 視線だけで、がんじがらめに縛るみたいに。
クリストファーが力強い腕で彼女を抱え込みながら続ける。
「――それから僕の前で、ベイジル・ウェインと親しくするな」
「え、なんで」
半分抜けかけていた魂がやっと戻って来たヴィクトリアは、唖然として呟きを漏らす。脳味噌をほとんど使わずに、条件反射で出た問いかけだった。
本調子ではないヴィクトリアに対し、クリストファーは手加減なしだった。瞳を細め、艶っぽい声で囁きを落としてくる。
「なるべく優しくしてやりたいと思っているが、ほかの男と親しくしているのを見ると、泣かせたくなるからだ」
「……そ、うなの?」
ヴィクトリアの返しは途切れて突っかかり、素朴なものとなった。目がぐるぐる回って来た。
――な、泣かせたくなるって何! この状況はヴィクトリアの理解を超えていた。とてもじゃないが手に負えない。
そもそもヴィクトリアは男に対する免疫がなかったので、自分主導で進めていられるうちは、得意の高慢ちきぶりを発揮して優位に立てるのだが、攻めから受けへと転じた瞬間、途端に残念な感じに成り下がってしまうのである。
――攻撃力はあるけれど、防御力はゼロ。それがヴィクトリア・コンスタムの真実の姿なのだ。