56.クリストファーが負けを認める
ヴィクトリア・コンスタムはどこまでも残念な女だった。彼女が色気ゼロな悪態を吐いたので、クリストファーも当然のように、相応の態度でもって返礼した。
「君が下手を打ったせいで、僕は聖女とくっつけられそうになっている。どう責任を取るつもりだ」
「どうして私が責任を取らなければならないのよ」
「君は引き受けたはずだ。夜会で聖女をこてんぱんに負かすと。その約束を守ってもらっていない」
ヴィッキーは納得がいかなかった。あの契約は、クリストファーがヴィクトリアを見捨てたことで反故になったはずだ。
――ワインを浴びせられたことで、頭が冷えた感じがしたのだ。絶対に認めたくないけれど、ヴィクトリアはもしかすると傷ついたのかもしれなかった。
たぶん心のどこかで、クリストファーは自分を特別扱いしていると考えていたのだろう。その実態のない思い込みが、会場で孤立した瞬間に、泡のように弾け飛んだ。
彼はヴィクトリアには目もくれず、美しく着飾ったメリンダ・グリーンの元へ歩み寄った。あれで明暗がはっきりと分かれた。ヴィクトリアは負け組に追いやられ、強制的に舞台から弾き出されてしまった。
それなのに、こんなふうにクリストファーが現れるものだから、驚いてしまったのだ。――もう嫌だと思った。これ以上この男に振り回されるのは御免だ。
二人のあいだには確かに因縁がある。だからもしかすると、クリストファーにはヴィクトリアを殺す権利があるのかもしれない。それについては覚悟もしている。
しかしだからといって、彼がヴィクトリアを軽んじてよいわけではない。――殺してもいいけれど、軽んじては駄目だというのは、筋が通らない考えかもしれない。けれど理屈ではないのだ。
こちらを切り捨てたのはあなたでしょうと、ヴィクトリアはただただ腹が立って仕方がない。
「――それよりほかに、私に言うことはないの」
ヴィクトリアは真顔でクリストファーを見つめた。
クリストファーはヴィクトリアがこんなふうに正攻法でくるとは思ってもみなかったのだろう。彼も真顔になり、彼女を見返す。
そのまま長い時間が流れたような気がした。実際に二人が見つめ合っていた時間はさほど長くはなかったのだけれど、それでもクリストファーの胸に何がしか響くものはあったのかもしれない。
「……僕がこうして追いかけて来た理由を、君は知っているはずだ」
それじゃあ答えになっていない。けれどクリストファーのほうも誤魔化すつもりはないのかもしれなかった。言葉を発したあとで、彼が珍しく困ったような顔をしたから。
彼自身も、自分の気持ちがよく分かっていないのかも。ヴィクトリアはそんなふうに思った。
「はっきり言って。でないとあなたとの関係は終わりよ」
考えてみれば、クリストファーとヴィクトリアの関わりは、とても奇妙なものだった。――友人でもなく。恋人でもなく。
憎み合っていてしかるべきなのに、明確に敵対するでもなく。時折交わっては、戯れのように反発するだけの関係。
互いにもう会わないと決めてしまえば、それきりになりそうなのに、現状そうはなっていない。それはクリストファーがヴィクトリアを追うからだ。
なぜ追うのだろう? ヴィクトリアが元魔王だから? つまりこれは過去の因縁のせい?
――本当に? 本当にただそれだけなのか。ヴィクトリアは知りたかった。
「君と会う時、会いに行くのは、いつも僕からだ。君から来たことは一度もない」
うん。……うん? ヴィクトリアは続きを待って、クリストファーの顔を眺めるのだが、彼は微かに瞳を細めてこちらを見返すばかりである。
なんだこれ? ヴィクトリアの眉が顰められる。
「私から会いに行かないからって、なんなの? それってあなたが聖女を優先させた理由になる?」
「会場で君は助けを求めなかった」
「あなたはこちらを見もしなかったじゃない!」
「君が助けを求めないからだ」
これじゃあ堂々巡りだ。あの時みっともなく取り乱して縋ったら、助けてくれたとでも?
クリストファーが何を考えているのか分からなかったが、彼は率直に語っているように見える。だからヴィクトリアは苛立ち、意地を張ってしまう。
「絶対に私は悪くない」
「君はこちらに一目置いているようで、実際のところまるで無視しているだろう」
「違うわ。無視しているのはあなたよ」
不覚にも感情が乱れた。ヴィクトリアはこれまで生きてきて、こんなふうになったことがなかった。怒っている時でも、もっとずっとシンプルだったと思う。こんなふうに、胃の中に手を突っ込まれてぐちゃぐちゃに掻き回されているような、訳の分からない気持ちになったことはなかった。
――クリストファーがこんなふうにした。それなのにこの男は、この期に及んでまだヴィクトリアが悪いというのだ。
「ドレスを贈ると言っても、君は拒んだ」
「私が悪いっていうの?」
「そうだ」
そう言い切って、クリストファーは射抜くようにこちらを見つめた。だからヴィクトリアも負けじと睨み返した。
二人は鋭い視線で見つめ合っているのに、本気の喧嘩というにはどこか緊張感に欠けていた。聡いクリストファーは、この芝居めいた馬鹿馬鹿しさにすぐに気づいたのだろう。不意に力を抜き、混乱したように呟きを漏らす。
「……いや。僕が悪かった」
「非を認めるのね」
「ああ、認める。今夜の振舞いは全面的に僕が悪かった。だから仲直りしよう」
クリストファーの可愛げがあるような、ないような申し出を受けて、ヴィクトリアは考え込んでしまった。
……仲直り? はて。直すような仲が、元々我々にあっただろうか。
「言っておくけれど、今度私よりも聖女を優先させたら、それで終わりだから」
するとクリストファーがくすりと笑みを漏らした。
「君に殺されるなら本望だよ」
「心にもないことを。――今夜はあなたのために着飾ったのよ。だけどあなたは私の手を取りもしなかった」
「惜しいことをしたな。言い忘れていたけれど、とても綺麗だ。ヴィクトリア」
ドレスはワイン塗れ。髪だって夜風に吹かれて少し乱れている。それなのに『綺麗だ』と彼は言う。そして称賛は言葉だけに留まらなかった。
クリストファーはまったく気障な男で、流れるような自然な動作でヴィクトリアの手を取ると、恭しくキスを落とした。ヴィクトリアは高慢な態度で、これを当然のように受け止める。
そして御者台のベイジルとマクドネルは、ここに居てはいけないのではないかという妙に罪深い気持ちになり、ガチガチに背中を強張らせながら懸命に前だけを見つめて、この試練の時をやり過ごすのだった。