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55.ベイジル、クリストファー殿下の視線にヒヤリとする


 ベイジルはこの時、『押され気味のヴィクトリア』という、世にも珍しいものを目撃することになった。いつでも押せ押せ、行け行けのヴィクトリアが、大人しく縮み上がっている。


 ――なんて面白い、じゃなくて、奇妙な光景だろう。


 彼女は今や縮み上がりすぎて、足を座席の上に持ち上げてしまっているし、爪先立ちで膝を抱えている。


 その体制のままピタリと固まってしまったので、御者台のほうから眺めていたベイジルは眉根を寄せていた。――これは大丈夫なのだろうか? 鋼の心臓を持つ女が、こうも取り乱すとは。


 そういえばヴィクトリアとクリストファー殿下が二人きりでいる場面を見るのは、これが初めてのことだ。この二人はいつもこんなおかしな空気感を醸し出しているのだろうか。こんなに噛み合っていないのに、これでよく熱愛説が世に出たものである。


 待てど暮らせど一向にヴィクトリアが復旧しないので、ベイジルは隣で手綱を操るマクドネルに問いかけた。


「――何かこいつを落ち着かせるようなものはないのか」


 甘いものか何か。


 マクドネルは馬の様子を気にしながら、訝しげにベイジルのほうを見返す。


「落ち着かせるものってなんです? Nia様を喜ばせるには、流星群くらいド派手なものを持ってこないといけません」


「誰が喜ばせろと言った? ひとまず落ち着かせたいと言っている」


 そもそも『Nia様』って誰なんだよ。そういえばマクドネルがエイダ・ロッソンのことを『フロンス』と呼んでいる件についても、まだ解決していない。とにかく、お前たちの中でまかり通っている、変なあだ名(?)みたいなものを持ち出してくるのはやめろ。ややこしいわ。


 あとな。話の規模が無駄にでかいんだよ。――流星群を持ってくるってなんだ。この星からはみ出しちゃってるじゃねーか。今は手のひらサイズのもので、何か捻り出せないかっちゅー話をしているんだ。


 苛つくベイジルにせっつかれ、マクドネルはきゅっと眉間に皴を寄せて考え込んでしまう。


「落ち着かせるのは、もっと難しいですなぁ。もともと落ち着きのない方ですから」


 マクドネルが珍しくまともなことを言う。しかしベイジルは今、まともな意見など求めちゃいないのである。


 御者台でそんなやり取りをしていると、クリストファーが気まぐれのようにツイと視線を動かし、ベイジルを見つめた。


 目が合った瞬間、ベイジルはなぜか背筋がヒヤリとした。――なんだろう、この感じは。クリストファー殿下の切れ長の瞳に見据えられると、知らず背筋が伸びた。


 濃い青の瞳。それは明け方の空のように澄んでいて、底知れぬ奥行きがあった。


 クリストファー殿下とは、これまで何度か会話を交わしたことがある。けれどこのようなプライベートな場で、ヴィクトリアを挟んでの対面というのは、なんだか勝手が違うものだった。


「――ベイジル・ウェイン」


 名前を呼ばれた。


 ベイジルは怖気づきそうになりながらも、こくりと喉を動かしてから、腹の下に力を入れる。ヴィクトリアとクリストファー殿下の関係について、はっきりさせる良い機会かもしれないと思ったのだ。


 ベイジルが覚悟を持って見返すと、殿下は微かに瞳を細めて考え込んでしまった。そうしてたっぷりと時間を置いてから、こんなことを口にしたのだった。


「お前はヴィクトリアとよく一緒にいるな。どういう関係だ」


 どういう関係。え、どういう関係? ベイジルの脳は激しく混乱した。まさか第一王子にそんなことを訊かれようとは思ってもみなかった。――そもそも、どうしてこの人に、ヴィクトリアと一緒に行動している事実を掴まれているのだろう?


「私と彼女は、友人同士です」


 ……で、いいんだよな? ベイジルは言ったそばから、なんだか不安になってきた。


 ヴィクトリアがいつもこちらをいつも『子分』扱いするのだが、同い年で上下関係があるのって、おかしな話だよなとか改めて考えてしまう。


 だけどヴィクトリアが主張しているほうが、公式見解だっけか? だとすると答えはどうなる? 私は彼女の『子分』です? ――いやいやいや。ないないないない。ありえない。空気に呑まれて頭が変になってきた。


 混乱しきりなベイジルを眺め、クリストファー殿下がさらにおかしなことを言い出す。


「友人にしては、距離が近いようだが」


 ええ? 距離が近いか? 正直それについてはまるで自覚がなかったので、呆気に取られてしまった。


 クリストファー殿下は小首を傾げて返答を待っている。


 しばらくのあいだ、なんともいえないおかしな空気が車中に流れた。ガタゴトガタゴトと車輪が石畳を噛む無粋な音が響き、それがなんとも間が抜けているなとベイジルは考えていた。


 というよりも、どうでもいいことに意識を逃して現実逃避をしたくなるくらいに、彼は焦っていたのかも。後ろめたいことなど何一つないというのに、それでもベイジルの心臓は早鐘を打っている。――なぜだ。なぜ王子がヴィクトリアとの関係を問い詰めてくるのだ。くそう、一体どうなっているんだ!


 ベイジルはこれまで、ヴィクトリアとクリストファー殿下のゴシップについては、ガセネタだと思っていた。――『クリストファー殿下が本気であるはずがない。きっとヴィクトリアが彼に対して反抗的な態度を取ったか何かで、殿下としてはそれが物珍しく感じられて、少し構っているだけなのだろう』と。


 だってヴィクトリアの様子はずいぶんさっぱりとしたものであったし、どうにも恋をしている女の顔には見えなかったからだ。


 ――ところが、である。こうして目の当たりにしてみると、殿下の態度には言葉には言い表せない、衝動めいた何かがあるような気がする。


 ベイジルは太腿の上に置いた手をぎゅっと握り込んだ。それから背筋を伸ばし、思い切って口を開く。


「――クリストファー殿下は、ヴィクトリアと結婚するおつもりですか」


「それがお前に何か関係あるのか」


「関係あります」


「なぜ」


「彼女は私の大切な幼馴染です。誰であろうとも、友人を傷つける者を私は許しません」


 衝動のまま言い切った。――これはあとで問題になるだろうかと、頭の片隅で考えている自分がいる。


 しかし間違ったことは何一つ言っていない。クリストファー殿下はヴィクトリアに対する態度を、はっきりさせるべきだった。


 ベイジルのこの出すぎた発言に、クリストファーの眉がわずかに顰められた。――彼は生意気を言う配下に腹を立てたのだろうか? ベイジルはそう考えて、すぐに違和感に襲われた。いや、これはそういうのとも違う気がする。


 上手く表現できないのだが、作りものめいた『クリストファー殿下』が、少しだけ人間に近づいたような印象を受けた。素の部分がさらけ出されたかのような。


 ……彼はもしかして、嫉妬している? まさか。そんなはずはない。


 ベイジルが気まずさから奥歯を噛みしめた時、不意にヴィクトリア・コンスタムの人間活動が復旧した。


「――私たちが結婚なんかするわけないでしょう。天地が引っくり返っても、そんなことはありえない」


 彼女の駄々っ子のようなこの宣言により、緊張感が一気に霧散した。



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