52.路地裏の魔法使い
ある日の出来事。――目を覚ましたデンチは、自分が道端に転がっているのに気づいた。なぜそんなことになったのかは、覚えていない。
頭が鈍く痛んでいて、まだ酔いが残っているようだ。口の中は鉄臭い。もしかすると昨晩安酒場かどこかで、つまらない喧嘩でも買ったのかもしれない。
――面倒臭いなぁ。デンチは心の底からそう思った。起きるのが面倒というよりも、何もかもが面倒臭い。
彼は時折このような空虚な精神状態に陥るのだが、これは落ち込みが起因しているわけではなかった。彼に自殺願望はない。彼の内面世界はもっとライトでドライだ。
そしてこの状態が長続きしないことも、彼はよく理解していた。きっと小半日もすれば寝ていることにも飽きてきて、もっと刺激的なことをしたくなるだろう。
そんなふうに先のことを考えたら、余計にだるくなってきた。ゆっくりと瞬きをする。
……眠い……意識が断続的に途切れた。
そうこうするうちに、ふわりとあたたかさを知覚した。温めたミルクが胃に入った時のような、あの感じ。
目を開くと、一人の女がこちらを見おろしている。彼女の背後は曇り空で、雲の切れ目から射した光が、彼女の髪に反射してキラキラと輝いていた。
これはとうとうお迎えが来たかとデンチは考える。彼女が綺麗な娘だったのも、そんな錯覚を起こした原因かもしれない。
「――君は?」
目を開けたままでいるのはつらい。眩しげに見上げると、一点の曇りもない笑顔が返される。
……すごいな。この子は夜を知らないのだろうか。
「私の名前はメリンダ。メリンダ・グリーンよ」
彼女は素直に名乗った。――メリンダ。ああ、なるほど。噂の聖女か。
デンチは口元に淡い笑みを浮かべた。彼の笑みは、親しげでもなく、かといって皮肉げでもなく。乾いてもいなく、湿ってもいなかった。空虚でもなく、満たされてもいない。
彼が浮かべた笑みは、メリンダだけに向けられたものだった。
――それから少し記憶が飛び、ふと気づけば彼は上半身を起こしていて、石壁に背中を預けていた。聖女は恐るべき忍耐強さを発揮して、デンチの面倒を見てくれたらしい。
彼女は隣に並んで座り、膝を抱えながらこう言った。
「――私は世界を救うより、目の前の人を助けたいの」
デンチは微かに目を細め、小首を傾げてメリンダを眺める。
「奇遇だね。実は僕も、人助けをしている」
彼の台詞は平坦で、どこか軽い響きがあったので、ふざけていると受け取られても仕方なかった。しかしメリンダは笑わなかった。笑わないどころか、それを信じた。
「お仕事は何を?」
尋ねられて、デンチは考え込む。――仕事ね。それは一言では説明できそうにない。
視線を彷徨わせると、酒の空き瓶が近くに転がっているのが見えた。彼は億劫そうに手を伸ばしてそれを掴むと、口元に笑みを浮かべてこう言った。
「人をびっくりさせている」
「それが仕事なの?」
「なんだってそうだが、考え方次第じゃないか?」
デンチはコインをポケットから取り出し、瓶の頭に持っていく。口は狭く、それより直径の大きなコインは、何をどうやっても通りそうにない。
彼は丁寧な手つきで、その事実を示した。金属が瓶を叩く、高い音が響く。
「このコインを瓶の中に入れてみせよう」
それを聞いたメリンダが無邪気に笑った。
「それは無理よ」
「どうして?」
「口のほうが小さいもの。絶対に通らないわ」
彼女は綺麗な白い指を伸ばし、デンチの握っているコインに触れる。そうして彼女自身が瓶口にそれを誘導して、軽く叩き、やはり通らないことを一緒に確認した。
彼女がコインから指を離すと、デンチは穏やかな目つきで彼女を見返した。
「世の中に絶対なんてないんだ。――ほら、よく見ていて」
デンチの長く繊細な手が瓶の上で動く。コインが瓶の口を叩いた。――二度、三度。
絶対に無理だわ、とメリンダは考えていた。彼は怪我をしたせいで、頭が混乱しているに違いない。
カシャンという音がした。――見れば、透明な瓶の中でコインが撥ねている。
え、入ったの?
「やだ、嘘!」
ずっと見ていたのに。一瞬前まで外にあったコインが、瓶の中に入り込んでいる。今それは瓶の底で静かに横たわっていた。
「ほかに穴があるんじゃない?」
彼が瓶の口をメリンダのほうに向けたので、彼女はしがみつくようにして瓶の表面を撫でた。ところがどこにも穴はないし、亀裂すら入っていない。
デンチはひょいと瓶を手元に引き戻し、横向けにして、強くそれを振った。次の瞬間には瓶は空になっていて、コインは彼の手の中に戻っていた。
彼がコインと瓶を渡してきたので、メリンダは夢中になってそれらを調べた。――やはりどこにでもあるコインと酒瓶だ。どんなに確認しても、口はやはり狭いし、コインは入口を通過できそうにない。
道具がどこにでもあるものならば、『特別』なのは『彼』ということになる。
「――あなた、魔法が使えるのね?」
聖女が瞳を輝かせて尋ねてきた。デンチは『とんだ甘ちゃんだな』と思いながら、謎めいた視線を彼女に据えた。そうして気まぐれのように彼女に尋ね返す。
「君こそ、魔法が使えるんじゃないか? 僕の怪我はもっとひどかったはずだ。君が僕の胸に手を当ててから、痛みが和らいだ気がする」
「……それは魔法なんて大層なものじゃないのよ。人はこれを奇跡の力と呼ぶけれど、私には、本人が持つ治癒力を少しだけ高めることしかできない」
メリンダの台詞には、本人も気づいていないようなコンプレックスが潜んでいる気がして、デンチはそれを意外に感じた。彼女はもっと自信に満ち溢れているのかと思っていたのだ。
「君は自分を恥じているのか?」
彼の台詞にメリンダは面食らったようだ。呆れたように返す。
「どうして私が自分を恥じなければならないの? だってそうでしょう? 私がしていることは、誰にでもできることではないわ。――だけど、ええと、だけどそうね、魔法が使えるようになれば、私はもっとやれるのにって思うの。こんなものじゃないのに、って」
「この世界には魔法がない」
「ないわけではないの。今は使えないだけ」
「そのうちに使えるようになる?」
まるでおとぎ話だとデンチは思う。彼は商売上ありとあらゆるものを扱ってきたが、こと『魔法』に関する取引については、これまで食指が動かされず避けてきた。
――いや。上手くやれば、金持ち連中をカモにできるかも? 彼が薄汚れた算段をしていると、聖女が真っ直ぐに彼を見つめて告げる。
「魔法はいずれ使えるようになるわ。時期が来ればね。その時はあなたも使えるはずよ」
「なぜ?」
「なぜって、あなたには才能があるからよ!」
メリンダが馬鹿ねというように笑う。
「だってね、あなたは今この段階で、少し魔法が使えているんだもの」
コインを瓶に入れただけで、魔法を使えると思われている?
これは細工したコインと本物のコインを入れ替える簡単なマジックなのだが、デンチは彼女の勘違いを訂正しなかった。訂正するのも面倒だったからだ。いずれ聖女も自身の間違いに気づくことだろう。――気づかないとしたら、それは本人の責任だ。
話が一段落したところで、遠くに控えていた聖女のつき人がこちらに歩み寄って来た。するとメリンダ・グリーンがその者に向かって、興奮したように告げたのだ。
「私、とうとう見つけたわ! 彼こそが新時代の勇者、『新勇者』よ」
魔王が存在した昔、『勇者』が存在したという。その混沌とした旧時代と区別すべく、『新勇者』と呼ぶようだ。
「ああ、聖女様。なんということでしょう」
つき人がこちらを見る。驚いてはいるが、その瞳に否定的な色はなかった。きっと聖女のことを盲目的に信じ切っているのだろう。
――危険な兆候だ、とデンチは皮肉めいた考えを抱いた。それにしても、新勇者ね。なんだか面白いことになってきたぞ。
目の前に小さな筏が現れたような気分だった。――これに乗ってみようか。そんな考えが頭をよぎる。だってすぐに沈みそうなところが、愉快じゃないか?
デンチはなんとか真顔を保ちながら、彼女に尋ねた。
「どうして今まで新勇者を見つけられなかったの?」
「私には夢見の力があるから、新勇者がどこかにいることだけは、感覚で分かっていたの。だけど詳しいことは、どうしても探れなかった」
「なぜ?」
「歴史上重要な出来事は、それが起きている瞬間は、俯瞰することができない。渦の中心は雲の層が厚いから」
笑える。デンチは思わず口元を手で覆い隠した。肝心なところが盲目とはね。
笑いの発作が治まると、彼は得意の真面目ぶった態度を取り戻した。
「新勇者かぁ。そんな大層なものじゃないと思うな。だって僕はこのとおりだもの」
手を広げてみせると、『あなたって面白い人ね』と聖女が吹き出す。
――ああ、彼女は美しい。太陽みたいな人だ。
僕はね、とデンチは心の中で呟きを漏らす。
君みたいな娘が嫌いじゃないよ。――美しくて。素直で。それからとびきり愚かだ。
これまでに会ったほかの誰よりも、とびきり愚かしい人間だ。