51.現れた顔
「あなた今、『イヤリング』とおっしゃった? 皆さん、お聞きになられて?」
夫人がおかしそうに吹き出す。
見物人は皆、状況が分かっていないようで、きょとんとした顔をしている。リンレー夫人が仕かけた罠は、かなりトリッキーなものであるようだ。
ヴィクトリアが軽く眉を顰めると、夫人はますます笑みを深めるのだった。
「わたくし、言葉選びを間違えましたわ。――Tétineって『おしゃぶり』の意味よ、お嬢さん。あなた、おしゃぶりを耳から下げていらっしゃるの?」
種明かしがされたことで、嘲り笑いがさざ波のように会場に広がっていく。
――やられた。ヴィッキーが視線を巡らせると、パメラ・フレンドが額を押さえているのが見えた。すす、と後退してパメラのほうに近寄り、ヴィッキーは小声で話しかけた。
「……どうしよう?」
「話しかけないで。私、あなたと友達だと思われたくない」
「冷たいじゃない! 見捨てるのはまだ早いわ」
「ここから逆転のチャンスがあるとでも?」
そうは思えないという顔でパメラが尋ねてくるので、ヴィクトリアとしては希望的観測を口にするしかない。
「だ、大丈夫よ。クリストファーは私を愛してはいないけれど、今回のコレは契約に基づいたものだから。なんとかしてくれる」
そもそも組もうと言ってきたのはクリストファーのほうだ。大丈夫と訴えるヴィッキーに対し、パメラのほうは懐疑的だった。
「果たしてそうかしら? 見ていないようで、クリストファー殿下はちゃんと見ているわよ。このグダグダな状況の中、彼のほうにあなたを助け出すメリットがあるかしら」
今クリストファーは近くにいない。奥まった上座のエリアで、重鎮方と話し込んでいるようだ。彼がこちらを気にしている素振りはないが、目聡いクリストファーがこの騒ぎに気づいていないわけがなかった。――そう、彼は気づいているのに放置している。
パメラがはっとした様子で微かに顎を上げ、視線を左に向けた。
「――来たわよ、彼女が」
促されてそちらを見ると、聖女が登場したようである。場内がどよめき、皆がメリンダ・グリーンに釘づけになる。
彼女が身に纏っているのは、濃いピンクのドレス。メリンダ・グリーンは自分というものをよく分かっていた。一歩間違うと下品になりかねない色でも、少女めいた風貌の彼女にはとてもよく似合っている。胸のすぐ下に切り返しの入ったエンパイアラインを選んだことで、体のボリュームのなさも上手くカバーできていた。
「あれは最先端のドレスよ。……あなたの負けね」
パメラが硬い声で告げる。
クリストファーは一切こちらを見ることなく、優雅な足取りで聖女の元へと向かった。――『このところ聖女の影響力が強まりすぎている。ここで牽制しておきたい』って、クリストファーが言っていたのに。
ヴィクトリアはばつが悪そうな顔でパメラを流し見た。
「……私、取り返しのつかないミスを犯した?」
「ええ、そうよ、気づいてくれてありがとう! ちなみに取り返しがつかなくなったのは、だいぶ前のことだから」
はっきり言ってくれてありがとう。ええ、そうね、確かにあなたは初めから警告してくれていた。聞く耳を持たなかったのは、ヴィクトリアのほう。――けれどどのみち、グリーンのドレスで会場入りした時点で、詰んでいたわけだけれど。
先日クリストファーから『ドレスを贈る』と言われた時に、素直に受け取っておけばよかった。これこそ『後悔先に立たず』というやつだ。
「深い穴を掘って、そこに隠れたいわ」
ヴィッキーが弱音を吐くと、パメラは慰めるどころか、容赦なく追い打ちをかけてきた。
「まだよ。山場はこれから」
リンレー公爵夫人が視線を巡らせ、目当てのものを見つけたようだ。近くにいた見物人の一人から中身の入ったワイングラスを奪い取る。
グラスを取られたのは、背の高い神経質そうな面差しの女性だった。その女性が履いている鮮やかな青い靴を見て、そんなことを気にしている場合でもないのだが、ヴィクトリアは小首を傾げてしまった。
――ものすごく足の大きな女性ね。遠近感が狂っていて、そう見えるのかしら? 平均的な女性の足のサイズよりも、四から五サイズは大きいような気がするのだけれど。
靴のサイズを目測していたら、正面から景気よくワインをぶっかけられた。デコルテから胸にかけて、盛大に赤い雫が散る。
リンレー公爵夫人が空になったグラスを振り、満足気に微笑みかけてきた。
「あらやだ。あなた、お酒を零してしまったの? もうお帰りになったほうがよろしいみたいね」
パメラは少し前にヴィクトリアから離れ、今は適切な距離を取っている。ヴィクトリア・コンスタムの味方は会場に誰もいない。
――向こう側のキラキラした世界。聖女はクリストファーにしなだれかかり、上機嫌に笑っている。ふとメリンダ・グリーンがこちらを流し見た。彼女の顔は勝ち誇っていた。
***
ヴィクトリアは聖女の向こうに、眼鏡をかけた青年の姿を認めた。――あれはもしかして。
青年が無機質な瞳をこちらに向けている。彼のすぐ隣には、リンレー公爵が佇んでいた。
「――見つけた」
イヴォール・リンレー。リンレー公爵の息子。ヴィクトリアはイヴォールをもう一度見据えてから、踵を返した。
***
ヴィッキーが道化師のように会場の一角を沸かせていた頃、ヴァイオリンケースを持った紳士が、警備の人間に声をかけていた。
「――お前は何をやっているんだ」
恰幅のいいその紳士は、先ほど人混みの中でヴィッキーとぶつかった人物である。
声をかけられた警備の男が不服そうに口を尖らせる。
「女が突っかかってきたんですよ」
「理由は?」
「靴が汚い、と。みっともないから、履き替えてこいと言われました」
紳士は軽く眉を顰めて、男の足元を確認した。――確かに泥で汚れている。
「ふぅん、目敏い娘だな。しかし警備係の靴が汚れていたって、その女にはなんの関係もないと思うが。大きなお世話だ」
「そうなんです。そんなこと注意してくるなんて、変な女ですよ」
「とはいえ、適当にあしらえただろう。いちいち構うな。目立つなと指示をしておいたはずだが」
「ちょっと好みの女だったんで」
その返答を聞いて、紳士はうんざりした様子で眼鏡のつるを指で押し上げた。
「お前のせいで、楽器を落としてしまった」
接触の瞬間、前方不注意だったのは、ヴィクトリアだけではない。彼も同じ場面――警備員と女の喧嘩を気にしていて、注意散漫になっていたのである。
警備係の男、ドーナットが白い歯を見せて笑う。
「それでボス、楽器を弾いたんですか?」
ドーナットは会場の裏手を歩き回っていたので、ボスの晴れ姿を見ることができなかった。
「少し」
「上手く演奏できました?」
「腕はなまっていなかった。でも人を撃つほうが得意だな」
「確かにそうですな。それで下見はもうよろしいのですか?」
「退屈なほどに、計画は順調だ。――さて。卵を一番高く買ってくれそうな相手に売りつけるとしようか。全員の顔を確認できたし、誰にしようかな?」
「しかし、あの方を裏切ると、あとが怖いのでは?」
「馬鹿言え。今卵を持っているのは、私だぞ。全てを自由に決める権利がある」
二人は歩きながら会話を続ける。もうこの退屈な場所に用はない。
途中で背の高い女が加わった。鮮やかな青い靴を履いた足の大きな女で、彼女の名前はシャーリー、ボスの情婦である。彼女はボスの腕に、自身の細い腕を絡めた。
国の重鎮が集まる王宮の会場に、不審者が堂々と紛れ込んでいる。これは恐ろしい事態であった。
それは彼――武器商人のデンチが、並外れた犯罪者であることの証明にほかならない。彼は中枢部に強力なコネを持っていて、こうして潜入することができたのだ。
会場の外に出て、人の気配が遠ざかると、デンチは軽く笑ってから、口髭と顎髭を剥がした。――肩と背中、胴回りに詰めものをしているが、さすがにここでは取り外せない。彼はかぶっていたかつらを器用に外し、部下のドーナットに手渡した。
かつらの下から現れた彼の地毛は、金と茶の混ざった色合いで、若々しく張りがある。余分なものを取り払ってしまうと、彼は表情を一変させた。生真面目な紳士のそれから、放埓な犯罪者の顔へ。
彼は変装の名人で、十代の若者から七十代の老人まで、自由自在に化けることができる。時には女に化けることもある。中性的な雰囲気の彼なら、性別を偽ることさえ可能だ。体型だって偽れる。元は華奢なほうであるが、今は骨格そのものが頑丈そうで、恰幅がいいように見えた。
ドーナットが興味深げに尋ねる。
「――聖女には気づかれませんでした?」
「目の前を通ったが、まったく」
デンチは皮肉気に笑ったあとで、ふとある場面を思い出し、真顔に戻った。あの娘――ヴィクトリア・コンスタムと邂逅した一場面である。
あれは危なかった。色眼鏡をかけていて助かった。瞳が絡んだ瞬間、彼女が『あれ?』というように、何かを思い出そうとしているのが伝わってきた。彼女は明らかにこちらに気づきかけていたが、おそらくデンチがかけていた飴色の色眼鏡に惑わされ、無意識下で別人であると判別したに違いない。瞳の色は強烈な予備知識となって人の意識を縛る。
接触が一瞬でよかった。あれ以上関わっていたら、たぶん気づかれていた。
デンチは色眼鏡を外して、胸ポケットに頓着なく引っかけた。そうすると彼本来の瞳の色――曇り空のような瞳があらわになる。
余計なものを取り払ってみれば、なんのことはない。聖女が親しみを込めて『ロートン』と呼んでいた男の顔がそこにある。
「しかしなんだって聖女は、ボスのことを『新勇者』だと勘違いしたんで?」
「それは二人の秘密だ」
口元を綻ばせてデンチが笑う。彼にとっては何もかもが遊びの一環なのだ。
世界を手玉に取っての遊び――これは死ぬまでの、ただの暇つぶしなのである。