50.Tétineって何だ
「夫人にからかわれたら、気の利いた返しをして」
そう早口に囁いたあと、パメラは一歩下がって扇を広げ、いかにも『私は他人です』とでも言いたげな様子で、そっぽを向いてしまった。
これほど適当な助言は初めて聞くと、ヴィッキーは思った。もうちょっと芯を食ったアドバイスが欲しかった。
「あなたがかの有名な、コンスタム公爵のご令嬢かしら? お噂はかねがねうかがっていましてよ」
オホホ、とお上品に笑うリンレー夫人。どうやら戦いのゴングが打ち鳴らされたようである。
ところでこのご夫人――眉・目・唇といった各パーツは、いかにも柔和で女性らしいラインをしているのだが、それでも蛇のように油断ならない感じがするのは、目の奥がちっとも笑っていないせいなのかもしれない。
「あなたのそのドレス、ずいぶんユニークね? おばあ様にでも見繕ってもらったのかしら?」
――『タブーもわきまえずに、そんなものを身に纏ってくるなんて、相当ズレているわね』と言いたいらしい。ヴィクトリアは瞳を細め、高慢ちきな顔で(つまり平素どおりに)微笑んでみせた。
「あら、こちら、隣国では最先端のデザインでしてよ? それにドレスなんて、個室に入ったらすぐに脱いでしまうのだから、殿方にとってはなんでもよろしいのではなくて?」
隣国で流行っているというのは、もちろん嘘だ。その点はどうでもいい。主題は後半である。
この振り切った反撃は広範囲に衝撃を与えた。さすがに周囲がざわつき出す。
クソばばぁかと思っていたが、リンレー公爵夫人は案外ウブであるのか、ヴィクトリアのあまりにあけすけな発言に、目を丸くして固まっている。
それから扇を広げて顔を隠し、おつきの者とコソコソ作戦会議に入ってしまった。
――うーん。思ったよりグダグダした口喧嘩だなぁ。これじゃ、なんとも間が悪い。向こうがブレーンを使うなら、こちらもそうさせてもらおう。
ヴィッキーは夫人に倣って顔の前で扇を広げると、一歩下がって、パメラ・フレンドに小声で話しかけた。
「今のどう?」
「あなたはクリストファー殿下の寵愛を盾に、喧嘩を売った。これは危険な賭けだわ。この一連の失態を見て、殿下の心が離れなければいいけれど」
おかしなことを言うと思った。パメラは根本的に間違っている。
「それは大丈夫。だって私たち、初めから心は近づいていないから」
近づいていないのだから、今以上に離れることはない。元々互いの心は星半周分くらい離れている。
ああ、そうなの? やっぱりね、という返事が来るかと思いきや、その場に嫌な沈黙が広がった。――うん? どうしたパメラよ。
「え。嘘でしょう?」
そう尋ね返すパメラの声は震えていた。彼女が握り締めている扇が、ピシピシと嫌な音を立てて軋んでいるのが、ちょっと怖い。
「嘘を言ってどうするの」
「やだ、もう! あんたって子は!」
なぜかパメラが裏切られたような顔をしてこちらを見てくる。――いやいやいや。訳が分からないんだけど。
「――逆に訊くけれど、パメラは私とクリストファーが、ゴシップ誌で報じられたとおりの、ホットな恋人同士だと思っていたわけ?」
「ねぇ、違うの? 本当に違うの?」
「当たり前でしょう。私と彼の前世を忘れた? 互いに好きになる要素がどこにあるっていうのよ」
「だからこそよ! 因縁があるのに、結婚話が出た。あの抜け目ないクリストファー殿下が、あのゴシップが出回るのを許したのよ。それってあなたに惚れている証拠だと思うじゃないの!」
「やだ、嘘、ばっかじゃない? あなたおとぎ話の読みすぎよ。もうおしめは取れているわよね?」
からかうつもりはなかったのだが、つい真顔でパメラの尻を覗き込んだら、指で額を弾かれた。――地味に痛い!
ヴィッキーとパメラがなんとも緊張感のないやり取りをしているあいだに、あちらサイドはすっかり態勢を整えたらしい。
「ねぇ、ミス・コンスタム――あなた、隣国のファッションにお詳しいのね? それでドレスに合わせて、隣国発祥のTétineをお選びになったということ? 色を合わせて」
何を言っているのか、こざっぱりだった。Tétineってなんだ。初めて聞く。
しかし落ち着いて考えれば、答えはおのずと導き出せるだろう。――まずヴィッキーが身に着けているのは、ドレス、靴、イヤリング、ブレスレットだ。『ドレスに合わせて』と言っていることから、ドレスそのものは省かれる。靴はイエローゴールドで、グリーンとは同色ではない。もちろん色はバランスを見て選んでいるが、保守的なこの年齢層の女性が、同系色以外に『色合わせ』という表現は使わないはず。
そうなると二択。イヤリングかブレスレット。さぁどちらだろう。イヤリングは特徴的なデザインで、緑に黒のラインが入っている。そして雫型。パメラが先程言っていたタブーの一要素である『雫型』なのである。だからおそらくコレだろう。
ブレスレットは黒を基調とした古典的な一品で、一周して先鋭的というか、若者向けでもある。ほんの一部に差し色で緑が使われているのだが、リンレー公爵夫人がこのようなアイテムに興味を持つとは思えなかった。
以上のことから、ヴィッキーはイヤリングに賭けることにした。Tétine=イヤリングに違いない。
「ええ。とても気に入っているんです」
ヴィクトリアがゆったりと答えれば、リンレー公爵夫人の顔に嘲りの色が浮かんだ。
「だけど隣国で、そんなの流行っていたかしらぁ? ――なんていうか、その丸い形はちょっと幼い感じがするわね」
「確かにこれは、公爵夫人くらいの年代の方には、『幼く』映りますかしら。半世紀ほど」
年齢を揶揄する返しは、本来ヴィクトリアの好むところではなかったが、相手がこちらをお子ちゃま扱いするのなら、それも致し方あるまい。
リンレー夫人の細い眉がぴくりと強張った。彼女が心の声をそのまま漏らしていたならば、『小娘、お前、私を一体いくつだと思っとるんじゃあ!』と絶叫していたことだろう。夫人の声が微かに震えた。
「――り、隣国ではもっと、自然な素材が好まれるのではなくて? 下町のほうの流行りは、わたくし存じ上げないですけれどもね」
まだやるのか。やり口が呆れるほどにワンパターンね。ベイジルに『口から生まれてきたのか』と言われ続けてきたヴィクトリア・コンスタムをなめてもらっては困る。
ヴィクトリアは瞳を細めながら、扇を優雅に動かした。
「あら、ですけれど、このイヤリングって猫の口元みたいでしょう? 可愛くないですか?」
どこが猫の口元なのかヴィクトリア自身もよく分からなかったが、確か隣国は猫好きが多いと聞いたことがあるので、それに絡めておけば、これ以上は突っ込まれないだろうと思ったのだ。
そんな算段をしながら口にした先の台詞が、取り返しのつかない失言となってしまった。