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42/89

42.誰も見ていない


 ――時は少し巻き戻る。マクドネルの店を出て、エイダ・ロッソンがベイジルと別れたあとのこと。


 エイダを乗せた辻馬車はしばらくのあいだ順調に進んでいた。ところがある通りに差しかかった際に、車体が大きく揺れて、車輪が溝に嵌ってしまったのだ。


 エイダが窓の外を覗くと、通りを塞ぐように、荷馬車が停まっているのが見えた。御者はどうやらあれを避けようとして、徐行しながら通りの端ギリギリに寄ったところ、運悪く凹みに嵌り、脱輪してしまったようだ。


 御者はしばらくのあいだ車輪を溝から出そうと四苦八苦していた。エイダはこのまま待っていても、どうにも埒が明かないように思えたので、馬車から下りて彼に声をかけた。


「私、ここからは歩いて帰ろうと思います」


 すると地面に膝をついて車輪の様子を確認していた御者が、ぎょっとした様子で立ち上がった。


「しかし、物騒ですよ、お嬢さん! すぐに代わりの馬車を手配しますんで」


 ずいぶんと責任感の強い御者だと思った。――しかし考えてみると、彼はベイジルからエイダのことを直接頼まれている。彼女を一人で帰すのを心配したベイジルのあの念押しが、御者の頭にこびりついていたのかもしれない。


 エイダは周囲を見回してみた。辺りは薄暗く、通りには人っ子一人見当たらない。夕方の通り雨がしっとりと石畳を濡らし、黒い艶を放っていた。


 確かに安全安心という雰囲気でもないが、そこらに柄の悪い男がたむろっているような治安の悪いエリアではないので、強盗のたぐいに出くわす危険は少ないのではないか。


「問題ないわ」


 強めに御者に告げる。もちろん『問題ない』わけがない。ところがこの時のエイダは色々なことで頭が混乱していて、正常な判断力を失っていた。


「それじゃあ、私もおつき合い致します。お嬢さん一人で歩いて帰らせるわけにはいきません」


 御者も退かない。この申し出を聞き、エイダは感謝するよりも、面倒だと思ってしまった。元々人見知りの気があり、親しくない人間と一対一で長時間過ごすことに苦痛を感じてしまう。


 身分差があるので、エイダの立場ならば、彼と道中一言も口をきかなくても問題はないだろう。とはいえ気遣って送ってくれるという相手と、意固地になって一切会話をしないというのも、それはそれでどうなのだろうという気はする。――普段の彼女ならもっと柔軟に対応できたかもしれないが、今夜の彼女は投げやりな気持ちになっていた。


「いいえ、駄目よ。――あなたはこの馬車を一刻も早くなんとかすべきだと思うわ。通りを塞いでいたら、ほかの人が困ってしまうもの。とにかく私は一刻も早く帰りたいし、ここからは屋敷もそう遠くないから、まったく問題ないの」


 早口にそう言い切って、さっさと歩き始める。背後の御者がついて行こうか迷っている気配を感じたが、エイダは振り返らなかった。


 ――角を二つばかり曲がってしまえば、面倒なあれこれからすっかり開放された気持ちになる。この辺りは高級店が並ぶ一角で、全体的に店仕舞いが早い。灯りの消えたショウウィンドウは、なんだか不気味に感じられた。


 あまりよそ見をしないようにして足早に進んでいると、背後から馬車が走って来るかしましい音が響いてきた。車輪が石畳を噛む音や、馬の蹄の音が、せっかちに鳴っている。どうやらずいぶん飛ばしているようだ。


 エイダが歩いているのは通りの右端のほうだし、道幅は十分に広いので、特に問題はないと思っていた。――ところが。


 考えごとをしていたエイダは、すぐ後ろに迫った車輪の音にハッと意識を引き戻された。音がいやに近い。


 慌てて振り返った時には大きな馬がすぐそこまで迫っていた。一瞬御者と目が合ったような気もするが、それよりも突然の出来事に頭が真っ白になり、恐怖で身が竦む。


 エイダの顔に馬の影が差した。悲鳴を上げる暇もなかった。


 彼女は暴走する馬車に撥ね飛ばされ、次の瞬間には風で飛ばされた小枝のように、通りの隅に転がっていた。額からは派手に血が流れ、仰向けに倒れたままピクリとも動かない。


 彼女を撥ねた馬車は惰性で少し先まで進み、停まった。やがて御者席から泡を食った様子で下りて来たのは、なんとこの国の第二王子であらせられるグレアム・ヴェンティミリア殿下であった。


 少し前までアルコールその他の要因でご機嫌だったはずの彼は、人を轢いたと気づいた途端に血の気を引かせた。慌てて倒れた女のそばまで歩み寄る。


 彼の歩き方は膝が不格好に外側を向いていて、なんとも品がない。体重移動する際もひょこひょこと頭が上下左右に動くので、コソ泥といった風情であった。


「おい! おい、大丈夫か?」


 轢いた相手の顔を覗き込んで、思わず眉を寄せる。――この顔、どこかで見たことがある。


 女の身体つきに視線を走らせたグレアムは、そこではたと動きを止めた。――この女は、エイダ・ロッソンだ! 少し前に縁談相手として名前が挙がったために、いかに鳥頭で有名なグレアムであっても彼女の顔は覚えていた。


 ――ところでどうしてグレアムとエイダの縁談が流れたかというと、彼が彼女の外見を気に入らず、『体重が半分にならない限り、この話はありえない』と言ったことがその一因となっていた。縁組がまとまらなかった理由はほかにもいくつか政治的な理由が存在するのだが、グレアム自身は、自分が彼女を気に入らなかったから話が潰れたと信じ込んでいるのだった。


 余談であるが、グレアムは垂れ目がちの甘ったれた顔立ちをしており、鼻筋はそこそこ通っていたので、彼が好むような相手――つまり遊び慣れているようなイケイケな女子には、肩書を抜きにしてもそこそこモテていた。だから彼は自らの魅力を過大評価したまま、それが矯正されることなく、こんな勘違い男になってしまったようである。


 グレアムが恐る恐る倒れたエイダ嬢の首筋に手を触れてみると、弱いが脈を打っていることが分かった。――畜生! 厄介なことに、生きている。舌打ちが出かかった。


 この女は撥ねられる直前に振り返り、御者席をはっきりと目視している。あの一瞬でしっかりと互いの視線が絡んだ。つまり被害者のエイダは、自分を轢いた相手――グレアム・ヴェンティミリアの顔を目撃しているわけだ。


 そもそも馬車の制御に関しては自信があったグレアムが、なぜこんなヘマを犯したのか? ――実は彼、あの直前にウィスキーの瓶を手にしていて、上の空だったのだ。おまけに蓋を開けるのに手間取り、馬車が蛇行していることに気づいた頃には、かなり速度が上がっていた。手綱を制御しようとした時には、通行人の女が馬車の前に立っていた。


 なんでこんな暗がりを女がフラフラ歩いているんだと、グレアムは恨みがましく考えてしまう。この女にだって事故の責任はあるはずだ。


 しかしその言い分が貴族社会で通用するはずもない。グレアムは明らかに前方不注意であったし、実際のところ今かなり酔っている。――はぁ、と手のひらに息を吹きかけてみると、アルコールに混ざって葉っぱの独特な匂いもした。


 気の小さい小悪党であるグレアムは、自らがしでかしたことに頭を抱えたくなった。地べたに転がっているこの小太りな女は貴族令嬢であり、彼女の発言には周囲も一目置くことだろう。いっそ死んでくれていたなら、このまま放置して逃げるところだが、このあと意識を取り戻して余計なことを話されても困る。下層階級の小娘一人を撥ねたのとは訳が違うのだ。


 父は自分に甘いところがあるが、それでもこの失態をかばってくれるかどうかは分からなかった。もしかするとこれをきっかけに、全てを失う危険性もあった。グレアムのいる世界は、ちょっとしたつまらない出来事で目まぐるしく力関係が変わっていく。


 ――ああ、くそう、この女が死んでくれていたなら! 天を仰いだグレアムであったが、小心者であるがゆえ、彼女の頭に石を叩きつけてとどめを刺すというような物騒な手を打つこともできない。


 しばらくその場をうろうろと行ったり来たりしていたグレアムは、やがて覚悟を決めてその場に膝をついた。昏倒しているエイダの上半身を起こすと、彼女の脇の下に後ろから両腕を突っ込む。そのまま羽交い絞めするようにして馬車まで運び、四苦八苦しながら座席に押し込んだ。


「くそ、重てぇ! 少しは痩せろってんだ、このブタ女!」


 悪態が口を突いて出た。こうしてエイダ・ロッソンを荷物のように積み終えた頃には、グレアム・ヴェンティミリアは全身汗だくになっていた。自堕落な彼は身体を鍛えていなかったので、階段の上り下りでさえ息を切らすくらいなのだ。だからこの隠蔽行為は、ここ最近彼が行ったことの中では、もっとも重労働に分類されるものだった。


 鞭を取り、馬の尻を打つ。馬車が走り始めた。彼が向かう先は決まっていた。


 グレアム・ヴェンティミリアは困ったことがあるといつだって、リンレー公爵に助けを求める。公爵がグレアムの期待を裏切ったことは、これまでただの一度もない。


 きっとこの先彼は、大きな利子をつけてこの借りを返すことになるはずだが、享楽主義者のグレアムは、先のことなどこれっぽっちも考えないのである。



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