41.地獄へようこそ
暗いところから浮上するような感覚があった。ぼんやりとした白い光を知覚する。――エイダ・ロッソンは瞼を痙攣させながら、ゆっくりと目を開いた。
初めに白い天井が視界に映った。馴染みのないものだ。次いで消毒液の匂いに意識が移る。
身を起こそうとして、身体をほとんど動かせないことに気づいた。手はなんとか動く。指先が渇いたシーツの上を滑った。
どうやら自分はベッドに寝かされているらしい、エイダはぼんやり考える。頭がズキズキと痛む。それからこの耐えがたいほどの苦しみ。まるで全身の骨がおかしな状態のまま固まってしまったみたいだった。
――ここはどこ? 顔を顰めながら視線を動かすと、左横から見知らぬ若い女性が顔を近づけて来た。それがあまりに遠慮のない距離の詰め方だったので、エイダは驚きのあまり息が止まりそうになった。
その女性は目を爛々と輝かせて、こちらを覗き込んでいる。彼女の面差しは全体的に小造りで、猫のような吊り目が印象的である。痩せ型。つまりエイダとは正反対のタイプであるが、歳の頃は同じくらいかもしれない。
まるで知らない女性なのに、なぜか向こうは妙な親しみを込めてエイダを見つめてくる。抜けるように白い肌や、美しい絹糸のような髪を見るに、上流階級のお嬢さんらしいが、身に着けている衣服はとても粗末なものだ。
「よかった、目が覚めた! 何日も寝続けているから心配したよ」
彼女が堰を切ったように喋り出す。ぱっと見はツンケンしていそうな印象を受けるのだが、口を開くと驚くほど人懐こい。そして令嬢にしてはいささか言葉遣いが乱暴でもある。
「あ……なたは、誰?」
声が情けないほどに掠れている。すると目の前の令嬢が、エイダの枕を高くして顔を横に向かせてくれ、水差しから水をグラスに注いだ。それからグラスをエイダの口元に近づけ、そっと傾けて水を飲ませてくれた。令嬢の行動は親切で思い遣りがあった。
水が喉から食道へゆっくり落ちて行くのが分かる。それに気を取られていると、ふたたび彼女が話しかけてきた。
「あたしのことが分からない? あたしはあんたのこと、一目見てすぐに分かったよ。ねぇ、じゃあ、Nia様のことは? あんたがいるってことは、Nia様も転生しているのかな」
「Nia様……?」
思うとおりにならない身体を持て余す気持ちと、訳が分からない気持ち悪さ。エイダは眉間に皴を寄せて、虚ろに少女を見返す。
Nia様――またNia様だ。なんなのだろう。エイダが知らないことを、この女性は知っている。自分だけが何も知らないというのは、マクドネルの店でも感じたことだ。
そう――そうだ、マクドネル。確かマクドネルの店でベイジルと一緒にスープを飲んだ。それが今思い出せる最後の記憶。
あれからどのくらいの時間が流れたのだろう? あのあと、どうなった? 分からない。頭に靄がかかったみたいに、何も思い出せなかった。
苦しげな表情を浮かべるエイダを、少女が心配そうに見つめる。
「まさか記憶喪失じゃないよね? 自分の名前を言える?」
自分が誰かが分からないわけではないのだ。
「私の名前はエイダ。――エイダ・ロッソン」
「エイダ・ロッソンか! あたし、知っているよ! 人気者のベイジル・ウェイン、彼の婚約者だ」
……どういうことだろう? 違和感が強まる。先程、この令嬢はエイダのことを知っていると言っていた。それなのにエイダ・ロッソンという名前を聞いて、令嬢は『へぇ、あなたがエイダ・ロッソンなの』という反応をした。矛盾していないだろうか。どういうことなのか問おうとしたところで、
「――そこ、何をさぼっているんだい!」
高圧的な怒鳴り声が飛んで来た。
驚いたエイダが声の主を見ようとすると、令嬢がさっと身体を動かして、巧みに彼女の視線を遮ってしまった。そうしておいてから、こちらに覆いかぶさるようにして、早口に囁きを落とす。
「目を閉じて! まだ意識が戻っていないフリをして」
その口調があまりに切羽詰まっていたので、エイダは素直に従うことにした。――瞳を閉じる。
彼女の素性はよく分からないのだが、これまでの言動には悪意らしきものがまるでなかったし、むしろ親身になってくれていると感じた。その彼女がこうして頼んできたのだから、そのとおりにしたほうがよいと思ったのだ。
瞼を閉じて視界が遮られると、それを補うように聴覚が過敏になる。傍らにつき添う令嬢が身じろぎする気配がした。
「さぼっていませんよ! 怪我人の身体を拭いていました」
怪我人とはエイダのことだろう。令嬢の申し開きに対して、すぐさま野太くて意地悪な声が返される。
「そんな死に損ないに構っているんじゃないよ。やるべき仕事はたんまりあるんだ」
潰れたヒキガエルみたいな声だと思った。声帯の問題というよりも、底意地の悪さがそこに滲み出ている感じだ。気の弱い人間なら、この暴力的な声音だけで震え上がってしまいそうであるが、目の前にいる令嬢は気丈だった。
「だけどこの子は、リンレーさんが連れてきた特別なお客さんでしょう? 死ぬまではちゃんと面倒を見る義務がありますよ」
「まったく生意気なガキだね! あとで鞭打ってやろうか」
汚い舌打ちの音が響く。気の小さいエイダは心臓がドキドキしてきた。――そっと薄目を開けて窺うと、部屋の入口に、中年女が一人仁王立ちになっているのが見えた。
樽のように膨れた身体つきは迫力満点で、髪はカールした状態で炎のように立ち上がっている。一体どうセットしたらああなるのか見当もつかない。女の瞳はぎょろぎょろと丸く大きくて、『あたしの目の黒いうちは、一切の悪だくみを見逃さないからね!』と高らかに宣言しているかのようだった。四角い顎はいかにも頑固そうで、化粧っ気もなく、見ようによっては男にも見える。
女は悪鬼のごとき目つきで、口答えの多い令嬢を睨んでいた。そのあまりに恐ろしい形相を目の当たりにしたエイダは慌てて目を閉じた。
少したつと令嬢いじめにも飽きたのか、女が立ち去る気配がした。乱暴な足音が遠ざかって行き、部屋に静けさが戻る。
「――もう大丈夫、あいつは行ったよ」
ポンポンと軽く肩を叩かれて、恐る恐る目を開ける。
「あれは誰?」
「ポーリン。この施設を仕切っている、どうしようもないイカレ女だ。ちなみにあいつの『鞭打ってやろうか』は『おはよう』とか『おやすみ』と同じようなもんで、ただの挨拶代わりだから、気にしなくていいよ」
そんな物騒な挨拶、されるほうはたまったものではない。しかしエイダはそんなことよりも、別のことに引っかかっていた。
「――施設って何? ここはどこなの?」
エイダは不安で仕方なかった。ほかの演者は自分の役割を把握しているのに、エイダだけが何も知らされずに舞台に引きずり出されてしまったような、居心地の悪さを感じる。
安心したかった。――『目が覚めたのだから、あなたはすぐに家に帰れるわ』と言って欲しかった。けれどそうはならなかった。
「ここは訳有りの貴族令嬢を閉じ込めておく矯正施設だよ。この建物の玄関口はね、一歩通行だと言われているんだ」
「どういうこと?」
「一度入ったが最後、二度と出られない」
ゾッとした。どうしてこんなことになってしまったのだろう? ――父は? 母は? こんなことを両親が許すはずがない。こんな勝手がまかり通るわけがない。こんなところに閉じ込められて、もう帰れないだなんて! そんな馬鹿げた話!
「そんなの困るわ! 私、帰りたい!」
エイダはシーツをぎゅっと握り締め、声を荒げた。普段大人しい彼女がここまで取り乱すのは珍しいことである。もしかするとエイダ自身も『入ったら最後、二度と出られない』というのがよく分かっていたのかもしれない。――だってこの部屋の窓には、鉄格子が嵌っているのだから!
「あんたの元気のいい声が聞けて、嬉しいよ」
令嬢が唇の端を持ち上げて、皮肉めいた、それでいてどこかユーモラスな笑みを浮かべてみせた。彼女の表情はこんな環境にあっても妙に生き生きとしていて、なんとも魅力的に映った。
「ようこそ、地獄の施設へ。だけどエイダは運が良いよ」
「運が良いですって? これのどこが?」
身体のどこもかしこも痛む。どうしてここに入られたのかも分からない。先が見えない。泣きそうになりながら、縋るように令嬢を見上げる。
すると彼女は困ったように眉尻を下げ、労わるようにエイダに告げた。
「だって、あたしがいるだろう? 約束するよ、あんたのことはあたしが守ってやる」
「あなたは誰? 私の味方なの?」
「ああ、まだ名乗っていなかったっけ。あたしの名前はカサンドラ・バーリング。こう見えて貴族令嬢やってます。――不本意だけどまだ、リンレー公爵の長男と婚約している身なんだ」
カサンドラの皮肉気な笑みが深くなる。彼女のアンバーの瞳が、狼みたいにキラリと光った。