40.奥の手
聖女との決闘から数日がたち、ヴィクトリア・コンスタムは体調が回復したので、やっとベッドから離れることができた。
もちろん打撲傷は治ってはいなかったのだが、これに関しては寝ていれば楽というわけでもないから、飽き性なヴィッキーは気晴らしに出かけることにしたのだった。
ところがたった数日間引きこもっていただけで、そのあいだに一体何が起きたんだというくらい、ベイジル・ウェインの様子がおかしくなっていた。
やつはもともとヘタレな気はあったのだけれど、以前はまだ騎士らしい、一本筋の通ったところがあったように思う。――ところがどうだ。久しぶりに会ったベイジルはすっかり才気を欠き、ナメクジみたいにじっとりジメジメしていた。
どうしたのか尋ねてみたら、婚約者が行方不明になっているという。端正な顔に疲れの色を浮かべて、すっかり精彩を欠いたベイジルは、長年連れ添った妻に逃げられた夫みたいにしょぼくれていた。
「事件の可能性は?」
公園のベンチに並んで腰を下ろし、ヴィッキーは足を組んでベイジルのうなだれた背中を眺めながら尋ねる。
「分からない」
眉間に皴を寄せたベイジルが暗い声で答える。ヴィッキーは思わず顔を顰めてしまった。
「分からないって、何?」
「エイダが消えた夜、彼女はなんだか様子がおかしかった」
「自分の意志で姿を消したってこと?」
「分からない」
分からないばかりだな。ヴィッキーは公園の景色を眺め、緑の香りを深く吸い込んだ。
――やはり外はいい。寝てばかりいると気が滅入るものだ。
「エイダ・ロッソンちゃんのことは、私はよく知らないけれど、ちゃんとした子なんじゃないの?」
「そうだ。ちゃんとした子だ。礼儀正しいし、他人のことを気遣える」
上の空のベイジルがすぐさま婚約者を褒めたので、ヴィッキーはなんとなく目元を和らげる。
「ちゃんとした子なら、家族に心配かけてまで、失踪なんてしないでしょう。何かの事件に巻き込まれたんじゃないの?」
おそらくベイジルは、その結論に自力で辿り着いていたはず。
しかし失踪前のエイダ・ロッソンの様子がおかしかったのと、事件に巻き込まれたのではなく、マリッジブルーで自ら姿を消したとするならば、安全面でいえばまだそちらのほうがマシだと考えた結果、冷静な判断ができなくなってしまったのだろう。
しかしエイダ・ロッソンに対してなんの思い入れもないヴィッキーからすると、ベイジルはまず現実を見る必要があるように思われた。
ヴィッキーの意図を汲み取ったのだろう。ベイジルは億劫そうに身体を起こすと、やがてしっかりと瞳に力を込めてヴィクトリアを見返してきた。
「――確かにそうだ。彼女は家族を心配させてまで、突然姿を消したりしない。自発的な家出なら、手紙くらいは書いて消えたはずだ」
「OK。これで一つ前進ね。エイダ・ロッソンの失踪は、家出ではない」
ヴィッキーは一つずつクリアにしていく。論理的思考は必要だ。そして相反するようだが、希望を捨てないこともまた大事だろう。
ヴィクトリアは友人を労わるように見つめ、言葉を続ける。
「それからここではっきり決めておきたいのは、前提事項よ。――エイダ・ロッソンはまだ生存しているという前提で、私たちは動く。それでいいわね?」
ベイジルははっとした様子だった。普段は感情豊かなほうではない彼が、瞳にぐっと力を込めた。それにより虹彩の色合いに深みが増す。
「ありがとう、ヴィクトリア。恩に着る」
「お礼は彼女が見つかってから、たんまりもらうからいいわ」
「できることは全てしてきたつもりだ。けれど彼女の行方は杳として知れない」
ベイジルは優秀な男なので、本人がこうまで言っているのだから、できることはすべてやり尽くしたのだろう。それで手がかりがないから、こうも憔悴している。
しかしヴィクトリアには裏技とでもいうべき、とっておきのコネがあった。
「正攻法で駄目なら、奥の手よ。私に妙案があるの。ついていらっしゃい」
ヴィクトリア・コンスタムにかかれば、この手の案件など瞬時に解決できるのだ。
感謝するがいい、下僕よ――と意気揚々と歩き出したヴィクトリアは、果たして手がかりをつかむことができるのか?
***
「ごめん無理」
下町の占い師パメラ・フレンドの仮住まいを訪ねたヴィクトリアは、ここで早速躓いてしまった。
パメラは鼻の頭を真っ赤にして、トロリと瞳を潤ませている。速攻でギブアップ発言をかました彼女は、ヴィクトリアの傍らに佇むベイジル・ウェインをちらりと見ると、少しだけソワついた素振りをみせた。
「あら、いい男――と思ったら、ベイジル・ウェイン氏かぁ。婚約者がいる男には手を出さない主義なのよねぇ。でも目の保養だわぁ」
若い女性にジロジロ視姦されたベイジルは、微かに顔を引き攣らせている。
――遊び人のお姉さんにからかわれる、年下の男。普段なら面白いからしばらく放っておくのだが、生憎今日のヴィッキーは暇じゃない。
「無理ってどういうこと?」
強引に話を戻す。
「私、今、風邪をひいて鼻がつまっているのよ」
「占いと鼻づまりに何か関係があるの?」
「あるのよ、私の場合。鼻がつまっていると何も見えないの。治ったら連絡するから、帰って」
言いたいことだけ一方的に告げて、こちらの返事も待たずに、バタンと扉を閉じてしまう。
これにはさすがのヴィクトリアも言葉がなかった。彼女が相手の礼儀作法に閉口するだなんて、生まれて初めてのことだった。
――ていうか具合が悪いなら、本来の屋敷に戻りなさいよ。意地張って、こんなボロ屋に引き籠っているんじゃないわよ。閉じた扉を睨みながら心の中で毒づいていると、なんの前触れもなく突然ひょいと扉が開いた。
何? と問うように見つめると、扉の隙間からパメラが顔を覗かせて、早口で告げてくる。
「そういえば、ここ最近、貴族令嬢が行方不明になる事件がいくつか起こっているみたい。調べようかと思っていたところで、体調を崩しちゃったから、何も力になれないけれど」
「行方不明になっているのは誰?」
パメラはこの問いを想定していたのか、名前を書いたメモを渡してくれた。リストの最後の部分を、綺麗な爪で指しながら鼻声でつけ加える。
「一番きな臭いのは、この子――リンレー家に嫁入りする予定だった、カサンドラ・バーリング嬢の失踪ね。カサンドラが結婚する予定だったのは、リンレー公爵の長男」
「リンレー公爵」
ここでその名前を聞くことになろうとは。――先日、豪華客船でヴィクトリアに喧嘩を売ってきた、あの冴えないおじさん貴族。見た目も中身も三流の男だったが、あれで一応宰相をしているんだったな。リンレー公爵は第二王子派で、聖女とも繋がりがある。
ヴィクトリアが考え込むように眉を顰めていると、パメラ・フレンドがにやりと笑ってからかうように見つめてきた。
「――ヴィクトリア、あなた他人の心配をしている余裕があるの?」
「何が?」
「ちまたでは、あなたの熱愛の話題でもちきりじゃない。――嫌よ嫌よも好きのうちっていうけれど、まさかあそこを狙うとはねぇ。いやはや、恐れ入ったわ」
「なんのことよ」
「まさか知らないの? じゃあこれあげる」
ポイとゴシップ誌を投げきたので、反射的にそれをキャッチする。パメラはこちらのリアクションも待たずに、パタリと扉を閉めてしまった。
ヴィクトリアは紙面を開こうとして、その必要がないことに気づいた。なぜならヴィクトリア・コンスタムに関するトピックは、華々しく一面を飾っていたからだ。
『クリストファー殿下、美貌の公爵令嬢ヴィクトリア・コンスタムとの熱愛が発覚! 結婚秒読み? 秘密のクルーズ旅行を、独占スクープ!』
な、な、な……!
「何よこれー!!!!!!」
ゴシップ誌が引きちぎられる音と、ヴィクトリアの叫び声が、古びたアパートメントの廊下に響き渡ったのだった。