39.Nia様の右腕
温かいものでも食べようということになり、四ブロック先の店にエイダを連れて行った。
小さな店構えでテイクアウトが主であるが、カウンターのこちら側にはスツールが何脚か置いてあり、その場で食事することも可能だ。
厨房とホールは壁とカウンターで仕切られていて、注文口として、中央に小窓ひとつ分くらいの開口部があった。
カウンターに肘をつき、ベイジルは厨房の奥に声をかけた。
「注文いいかな」
「はいはい、ちょっと待ってくださいよー」
歌でも歌っているような、抑揚のある声が返ってくる。小窓から覗き込むと、店主のマクドネルが、玉ねぎをシャカリキになってみじん切りしているのが見えた。腹の出た小男で、目がぎょろりと大きく、鉤鼻。なんともいえないユーモラスな顔をした男だ。
マクドネルがみじん切りの手を止めて歩み寄って来たので、彼に告げる。
「――温かいスープを二つ」
ここはベイジル所属の団が贔屓にしている店で、味は良いのだが、接客の癖が強い。今日もこちらが何も尋ねていないのに、店主がベラベラと喋り出した。
「スープは今、一種類しか残っていませんけれど、それがまぁ、舌が引っこ抜けるくらいに美味いしいんで、ご勘弁くださいましね。どんなスープかって? 説明いたしますとねぇ、トマトと、根野菜と、ベーコンを、コトコトコトコト、グィネヴィア山のマグマみたいに、熱々グラグラに煮込んでありまして、そりゃあもう絶品ってわけなんです。なんていうスープかって? 知りたい? じゃあ教えちゃう。注文の時はこう言って? ――『移り気な恋人に捧げるスープ』ってね!」
「やかましいわ!」
温和なベイジルがブチ切れた。よりによってこのタイミングで、癪にさわるスープの名前を出しやがって。つい先程『移り気な婚約者』にぎゃふんと言わされたとこだよ!
ていうか料理名ふざけすぎだろう、いつもいつもいつも。こいつ狙ってやっているんじゃないだろうな。
ジロリと睨むと、店主のマクドネルは『あらやだ怖い凍えちゃう』とか言いながら、わざとらしくお口にチャックのジェスチャーをする。
そうして瞳をギョロリと動かしてエイダを一瞥したあとで、鶏みたいに派手に首を動かしながら、ベイジルに目配せしてきた。
「あら、こちらー、お兄さんのコレですかい?」
コソコソ囁きながら小指を立ててくるので、その手を叩き落としてやった。
「下品なことはやめろ」
「それで、もしかしてコレで?」
懲りずに、お腹の前で丸くふわりと手を動かす。それを見てエイダがかぁっと頬を赤らめた。
「あ、あの、私のこの体型は太っているだけで、妊娠しているわけではありません」
「あら、そうなんで? でもお姉さん、安産型の良いお尻ね」
カウンターの向こうから下を覗き込もうとするので、ベイジルは強めのチョップをやつの額に落としてやった。ベイジルは愛想がないようでいて、意外とフェミニストなところがあったので、女性の外観をとやかく言う男が嫌いだった。悪気がないから許されるという問題ではない。
マクドネルはデリカシーゼロだし、面倒くさいし、うるさいしで、最低最悪、これはもう何重苦なんだと苛立ちが治まらない。いつもはここまでひどくもないのだが、ベイジルが珍しく女性を連れて来たので、おかしなスイッチが入ってしまったのかもしれなかった。
とにかくこの店は早急に接客係を雇ったほうがよいとベイジルは思った。店主は料理以外に一切の取り柄がない。
「マクドネル、いい加減にしないと性的嫌がらせで告訴するぞ。牢屋にぶち込まれたくなければ、そのうるさい口を閉じて、とっととスープを用意しろ」
こちらの本気の怒りを汲み取ったのか、マクドネルは首を竦めて踵を返そうとしたのだが、不意にピタリと動きを止めて、『あれれ?』みたいな顔をして、ふたたびエイダのほうに向き直った。まじまじと彼女の薄青の瞳を覗き込み、ぱぁと顔を輝かせる。
「おやおやおやおや、まさかこんなところでお会いできるとは! すぐには気づきませんでしたよー。お久しぶりでござんすね」
喜色満面のマクドネルに、困惑するエイダ。そしてさらに不可解な顔つきになるベイジル。
「君たちは知り合いなのか?」
「あの、いいえ。初対面だと思います」
エイダは眉尻を下げてオロオロし出した。とぼけているふうでもない。本当に思い出せないので慌てているようである。
「初対面って、水くさいじゃありませんか、あたしとあんたの仲なのに! もしかしてまだ思い出していないんで?」
「あの、以前お会いしていますか?」
「以前っていうかねぇ。――そうそう、Nia様には会われましたか?」
「ニ、ア……?」
「あっしもまだお会いできていないんで。でもいざという時には、一番に馳せ参じようと思っているんですがね。だけどそりゃあ、あなた様も同じ気持ちでしょうなぁ。なんせあなたはNia様の腹心の部下でしたからなぁ」
うんうん頷くマクドネルは『まぁだけど、思い出していないなら仕方ない』と一人で勝手に納得して、スープをよそってよこした。
「はい毎度。うちは現金取引よ。馴染みの客でも、ツケはきかないですからね」
ベイジルは二人分の料金を支払い、カウンターにエイダと並んで腰を下ろした。
トマト味のスープは当たり前の具しか入っていないのに、皿の中に奇跡を体現したかのようだった。相変わらず料理の腕はピカイチだなと思う。素材の良さを引き出しながら、余計な味つけはしていない。懐かしい感じがするのに、家庭では決してこうはならないという、気の利いた料理に仕上がっているのがなんとも不思議である。
ベイジルは貴族なので高級店に出入りすることもあったが、ここまで料理の上手いシェフがいる店には、これまで入ったことがなかった。
――スープのおかげで身体は温まったものの、肝心の彼女との会話は盛り上がらず。エイダは何事か深く考え込んでしまっているし、ベイジルはベイジルで色々複雑な心境である。
店を出て辻馬車を拾い、屋敷まで送ると申し出たのだが、エイダにこれを固辞されてしまった。ベイジルがこの近くの宿舎住まいなので、送ってもらうのも悪いと思ったのだろう。実に彼女らしい。
しかしベイジルのほうは女性一人をこのまま帰すのは心配だったから、退かずに粘ってはみた。しかしエイダから『一人で考えたいことがあるから』と強く言われてしまうと、そうしつこくもできない。
呼び止めた馬車を改めて確認すれば、御者はこの辺りを流している顔見知りで、身元もしっかりしている。ベイジルはエイダに押し切られる形で、彼女を一人で馬車に乗せた。
これが大きな間違いだったと、あとになってベイジルは深く後悔することとなる。――というのもこの夜を境に、エイダ・ロッソンは姿を消してしまったからだ。