38.お門違いな嫉妬心
――豪華クルーズの旅から、数日がたち。とあるゴシップ誌が、大物同士の熱愛スキャンダルを報じていた。
下町ではそれが飛ぶように売れている。売り子から、客へ。そして別の客へと。
そのうちの一紙が、さびれた床屋へと届けられた。床屋の常連客が感心した様子でその記事を眺めおろす。やがてその客はバサリとゴシップ誌を放り出し、白くなった髭を撫でながら、店主に笑いかけた。
「いやぁ、若いってのは、いいもんだねぇ」
でっぷり太った初老の店主は、石鹸を泡立てながら、にやりと笑って答えた。
「そうさな。――まったく殿下も、隅に置けないじゃないか」
下品さと紙一重の、からかうような笑い声が店内に響く。鏡台の前に放り出された紙面には、次のような見出しが躍っていた。
『クリストファー殿下、美貌の公爵令嬢ヴィクトリア・コンスタムとの熱愛が発覚! 結婚秒読み? 秘密のクルーズ旅行を、独占スクープ!』
***
――さて。聖女との対決だのなんだのと、ヴィッキーが散々な目に遭っていた、ちょうどその頃。別の場所で、一人の少女がとんでもない不幸に見舞われようとしていた。
それはこんな具合に始まった。ヴィッキーが子分扱いしているベイジル・ウェインが、彼の婚約者に声をかけたところから。
その日の仕事を終えたベイジルは、王宮の片隅で、エイダ・ロッソン嬢を見かけた。街灯がかろうじて届いている薄暗いベンチに、エイダはぽつねんと腰を下ろしていた。ベイジルは足早に彼女に近寄って行った。
「――ミス・ロッソン?」
声をかけると、エイダがはっとした様子で顔を上げる。
彼女の柔和な顔立ちには、とびきりの笑顔が似合うと思うのだが、今夜は何かにひどく気を取られている様子で、頬が強張っていた。
「大丈夫? 具合が悪いの?」
心配になりベンチの隣に腰を下ろすと、彼女は混乱した様子で深く息を吐いた。眉根を寄せ、瞳を覚束なく周囲に彷徨わせている。
「考えごとをしていました」
「悩みごとでも?」
「悩みごとというか、あの、私、ウェインさんが親しげにしていた女性のことが気になっているのです」
エイダは思い悩んだ末に、そんなふうに切り出した。
ベイジルはこの意外な成り行きに虚を衝かれた。彼の切れ長の瞳が微かに見開かれる。
「まるで心当たりがないのですが。――親しげにしていた女性とは、一体誰のことでしょう?」
ベイジルは驚きすぎてかしこまり、結局、敬語で返してしまった。誤魔化しているわけではなく、本当にまるきり心当たりがない。
男性が婚約者にこのようなことを言われたのなら、やましい出来事がいくつか脳裏をよぎって、慌てふためくものかもしれない。しかしベイジルは呆れるほどに清廉潔白な朴念仁であったので、こういった内容で後ろ暗い気持ちになろうはずもないのだった。
そうして辛抱強くエイダの説明を聞いてみれば、なんのことはない。親しげにしていた女性とは、幼馴染のヴィクトリア・コンスタムのことを指しているようである。
メイド姿で王宮へ乗り込んで来て『コードレッド』と大騒ぎをかました、例のあの場面を目撃されていたらしい。
それにしても、あれを『親しげ』だと解釈されたとは。今世紀最大の謎だな。ベイジルは思わず遠い目になった。
「――彼女の名前はヴィクトリア・コンスタム。幼馴染だが、恋愛感情は互いにこれっぽっちもない」
今後に影響しても嫌なので、きっぱり否定する。ところがエイダの顔色はそれでも晴れない。
「ヴィクトリア・コンスタム様。――ヴィクトリア、様」
エイダが呟きを漏らし、ふたたびぼんやりと考え込んでしまう。ベイジルはためらいがちに尋ねた。
「……こんなことを言うのは気が引けるのだけれど、もしかして俺は嫉妬されているのだろうか?」
しかしこれに対するエイダの答えは、予想外のものだった。
「いえ、そうではないのです。――私、あの女性を見た瞬間、とても懐かしい感じがしまして。上手く言えないのですが、心に込み上げてきたのは、故郷に帰ったような、あのかけがえのない感じでした」
――うん? どういうことだ? ベイジルはピタリと動きを止める。
ヴィクトリアは引きこもりというか、ほとんど世捨て人のような暮らしをしていたものだから、貴族社会に知り合いはほとんどいなかったはずである。皆無とは言わないが、知人は極端に少ない。
こういってはなんだが、エイダ・ロッソン嬢もそう社交的なほうには見えないので、二人が顔見知りの関係であったとは思えない。それに過去、なんらかの場面で顔を合わせたことがあったとしても、『故郷に帰ったような』と表現されるほど、感傷めいた何かを抱くものだろうか?
ますます迷路にはまったような気分になるベイジル。エイダもまた混乱しているようだった。彼女がもどかしげに続ける。
「嫉妬――という意味で言いますと、私はむしろ、ベイジルさんに嫉妬しているのかもしれません」
ベイジルは頭をガツンと殴られたような気分だった。頭痛をこらえるように、眉間を押さえながら尋ねる。絞り出された声は、地を這うように低いものとなった。
「確認なのだが、君はヴィクトリアと話している俺を見て、俺に嫉妬したと?」
「はい、たぶん」
「君は、ヴィクトリアが好きなのか?」
「好き? ええと好き。というか、なんというか」
エイダの答えは煮え切らない。
――なんだこれは? ベイジルとしては、エイダと出会ってからまだ日が浅いこともあり、彼女に対して異性として惹かれているとか、そういうことはないと思い込んでいた。しかし今無性にヴィクトリアに対して苛立ちを覚えている。
真面目に生きてきた自分が、どうして婚約者をヴィクトリアに盗られそうになっているんだ? ――いや、待て。ここは大人の対応をする必要がある。ふっと息を吐き、感情を立て直そうとするものの、結局強い苛立ちがぶり返してきた。
――誤魔化しようもなく、腹が立つな。なんだこれ。口を開くと悪態が飛び出しそうなので、ベイジルは表情を殺して、感情のほうも抑え込んだ。
それがあまりに上手くいきすぎたため、エイダは彼がひどく狼狽している事実に気づかなかった。
彼女は自身の心を整理するように、ぽつりぽつりと語る。
「私、最近、情緒不安定なのかもしれません。同じ夢を何度も見るのです。私の瞳の色に似ている、不思議な玉の夢を」
「玉?」
平坦な声で応じるベイジル。彼はどうやって心のバランスを取っていいやら、分からなくなっていた。頭がこんがらがっているので、情報がこれっぽっちも入ってこない。
――ふと頭の中に、ヴィクトリアの小生意気な顔が浮かんだ。彼女はエイダ・ロッソンの肩を抱き、それを見せつけるようにして、ベイジルを嘲笑ってくる。
「残念だな、子分よ! お前がヘタレだから、お前の婚約者は、私がもらい受けることにした」
なぜかエイダ嬢は頬を染め、あの太陽みたいなキラキラ輝く笑顔で、ヴィクトリアをうっとりと見つめている。
――ふざけるなよ、ヴィクトリア・コンスタム!
元々女感がゼロな幼馴染なので、こういう展開になってくると、男に婚約者を寝取られたような屈辱すら覚える。ベイジルはこの状況全てが恨めしく、思わず舌打ちしそうになった。