9.
シャルティでの毎日は楽しかった。
アイビーとテオは毎日海に遊びに行って、その後ろをパラソルを持った侍女たちが追いかけていた。そして、もう馬車には乗っていないのにエレノアはやっぱり泣いていて、レオナルドが慰めていた。
「ねぇ、テオ」
小舟の縁に頬杖をついて、アイビーは水の中を見つめた。青い小さな魚が泳いでいて、アイビーが手を入れるとぱっと散っていく。
遠くに見えるヤシの木陰では、パラソルを差したエレノアとレオナルドが一緒にいた。白いパラソルが光を弾いて輝いていて、なんだか涙が零れそうだった。
従者から舟の漕ぎ方を教わっていたテオが顔を上げる。どうにも上手く漕げなくて、小舟はふらふら波に漂っていた。
「なんだよ」
テオは、できないことがあると不機嫌になる。アイビーがそれを指摘するともっと不機嫌になるので、そんなときはアイビーが大人になって、気づかないふりをしてあげるのだ。
「どうして、姉様はずっと泣いているのかしら?」
「そんな気分なんだろう?」
漕ぐのを諦めたのか、やっと櫂から手を放して、アイビーの隣に座る。ぐらりと小舟が揺れて、舟の中に水が入った。青い魚が一緒に入らなかったか探したけど、見つからなかった。
「レオ兄様を独り占めしてるわ」
「僕がいるだろ」
「テオはテオだもの」
「なんだよ、それ」
「私、大きくなったらレオ兄様のお妃さまになるのかしら?」
「・・・・誰かに言われたの?」
「レオ兄様は一番かっこいいと思うの。黒い髪も金色の目もすてき。シャハールの王様になる人ですもの」
アイビーと同じ年頃のオトモダチは皆、レオナルドがすてきだと言い、レオナルドの特別なアイビーを羨ましいと言った。きっと、レオナルドの妃になるのはアイビーなのだと。
シャハールの初代国王も黒髪に金の瞳を持っていたと伝わっていて、それがシャハールの王たる証だと言われていた。
「アイビーは王妃になりたいの?」
「そんなの、よくわからないわ」
テオは、金の瞳だけど、紅茶色の髪をしている。・・・・・お父様と同じ。
ぱちゃんと撥ねた海水に惹かれるようにまた手を伸ばすと、テオがその手を掴んだ。
「アイビー、目を閉じろ」
そのまま小舟から落ちるように水に飛び込む。びっくりしてもがいていると、テオがアイビーを抱き留めたまま海面に顔を出す。喘ぐように息を吸って、うるうるした目でテオ見ながらぎゅぅっとしがみついた。
時々、テオは意地悪になる。
池の水をかけたり、アイビーが欲しがった花園の花をちぎったり・・・・。
「殿下!」
舟をこいでいた従者が慌てるのも構わずに、テオはアイビーを抱き留めたまま水の中に潜った。
水の中は・・・・、目が痛かった。目を閉じたり開いたりしていると、青い小さな魚が寄ってくる。そっと手を伸ばすと、ぱっと散っていく。
楽しくなってきてきゃぁきゃぁ遊んでいると、ようやく機嫌の治ったらしいテオも魚を捕まえようと追いかけていた。
海の中はきれいだった。
上を見上げると、太陽の輝きが薄いヴェールの上から降りてくるようだった。隣にはテオがいて、アイビーの手を握って笑っていた。
アイビーは泳げなかったけれど、テオがいたから怖いとは思わなかった。
砂浜に戻ったら、エレノアとレオナルドにとても怒られたけれど。
シャルティでの思い出は、海の中から見上げた空だった。レオナルドに連れて行ってもらった引き潮の時だけ行ける幻の島ではなく、エレノアと見た海に続く夕暮れの帯でもなく、海の中から見えた淡く揺らめく光。
◇
王都に帰ることが決まったのは、突然だった、
ある朝起きると、侍女たちが帰る支度を終えていて、そのまま馬車に乗せられた。
なぜかぴりぴりした空気が漂っていて、その理由を知ったのは、王都に入る少し前だった。ずっと泣いていたエレノアが、やっぱり泣きながらアイビーを抱きしめて、「お母さまが亡くなったの」と呟いた。
その時になって、母が流感に罹り、隔離の為にシャルティに滞在していたことを知った。