4.
「レオ兄様」
アイビーが上げたはしゃいだ声に、渦を巻くように広がっていた囁きがぴたりと止んだ。
サンデリアーノ公爵令嬢のアイビーに正面切って無作法を説く者は少ないし、シャハール皇太子レオナルドに彼女の悪口を聞かせたいと思うものはさらにいないだろう。
アイビーは幼いころは母に連れられて、母が亡くなってからは、早くに母を亡くした姉妹を案じた王妃と皇太后に招かれて、毎日のように王宮に遊びに行った。
母の親友だった王妃は、アイビー達姉妹を我が子のように可愛がり、(王妃の口癖は私も娘が欲しかった)アイビーも王妃を慕っていた。
皇太子レオナルドがアイビー達姉妹を可愛がっていることも周知の事実だ。
それが純粋な好意だけではないことを知っているのは、アイビーだけだと思う。
「兄様、兄様、来てくれたのね」
熱烈な恋人への抱擁のように抱きつくと、レオナルドはアイビーを抱き上げて、子供のようにくるくる回した。白々しいほどの沈黙の中、アイビーの笑い声が響く。
「誕生日おめでとう、アイビー」
「ありがとうございます、殿下」
とん、と降ろされると同時に、片足を引いて淑女の挨拶を返す。
「いただいたお誕生日のプレゼントは、私の宝物にいたします」
「きっとアイビーは気に入ると思ったよ」
ふたりで秘密めいた微笑みを交わす。
「兄上は、何を贈ったんです?」
のんびりと割って入った声に、アイビーの微笑みが凍りついた。たった今、気づきましたという風を装い、凍ったままの笑顔でテオを見上げる。
「我らがお姫様は、僕の贈り物はどうやら気に入らなかったようで、朝から辛辣なお礼の言葉を賜りましたよ」
「おまえは何を贈ったんだ?」
「ブレスレットを」
それか?と問うように、レオナルドがアイビーの手首に視線を送る。
アイビーが笑ってブレスレットを揺らした。
「これはニコロスからのプレゼントなの、素敵でしょう?」
「アイビーも十七歳になったんですから、もっと大人になってくれと願いを込めたつもりだったんですが。そいつは良くて、僕はダメなのか?」
「心の問題よ、テオ。どんなプレゼントだって、心がこもってなくてはただの物にすぎないわ」
「ただの物を見て、心があるかなどなぜわかる。色でも付けて、心があると書けばよかったのか?」
「跪いて、心を捧げるので受け取ってくださいと言えばよかったのかもしれないわね」
一瞬、テオの金茶色の瞳がぎらりと光った。
不機嫌にアイビーを睨むテオを見ると、なぜか気分がすっとする。
「あら、やっぱりだめだわ」
ぱちんと掌を合わせて微笑む。
「戯れの恋ばかりを繰り返す軽薄な心では、捧げられてもちっともありがたみがないもの」
「アイビー!」
悲鳴にも似た窘めの声が上がり、エレノアが真っ赤になってアイビーの袖を引いた。晴れた冬の空の色の瞳が困惑に揺れている。
凛とした白百合の花にも例えられるエレノアは、プラチナブロンドの髪と透けるように白い肌の美女だ。アイビーより三つ年上なのだが、アイビーが嫁すまでは結婚など考えられないと求婚者達を遠ざけている。
そんなエレノアのドレスは、まるで豪華な修道服のようだと思う。
「だって、姉様、テオが・・・・・」
言いかけたアイビーは、そこから何を言おうとしていたにしても、怖い顔をしたエレノアに睨まれて口を閉じた。
「殿下よ、アイビー。あなたも十七歳になったのよ。いつまでも子供のように反抗ばかりするのはおやめなさい」
そんなに怒らなくてもいいと思う。
いつのころからか、エレノアはアイビーを見ると小言ばかりを言うようになった。亡くなった母の代わりに、忙しい父の代わりに、そんな気負いの声ばかり聞こえるような気がする。
そして、今は・・・・・。
でもね、姉様。
私だって、姉様が大好きなのよ?
「そんなに怒っていては、レオ兄様に嫌われてしまってよ? テオは、私が何を言ったって気にしないわ。シャハールの海より広い心を持っているそうですもの」
「僕がいつそんなことを言ったんだ?」
「この前、私がお芝居を観に行くのを邪魔したときよ」
巷で流行っているお芝居を観ようと、こっそり邸を抜け出したのに、なぜかテオに見つかり、そんなところへは行かせられないとお説教された。
その上、馬車の中で・・・・・。
淫らな記憶が蘇ってきて、身体の奥がぶるりと震える。
「あれは、君の我がままに付き合る僕は、きっとシャハールの海より広い心を持っているに違いないと言ったんだ」
「そうかしら?」
意味深に微笑むと、テオが言葉に詰まって頬を染めた。
さすがに、罪悪感くらいは感じるのね。
意地の悪い心が広がって、仄暗い微笑みが浮かぶ。
「もう止めなさい、アイビー」
再びエレノアに窘められて、唇を噛んだ。
アイビーにだって、子供っぽい反抗にしか見えないのはわかっている。
けれど、この気持ちはエレノアにはわからない。アイビーにだってわからないのだから。
全部、テオのせいよ。
何もかも滅茶苦茶にして。
「仲直りの印にダンスに誘って、テオ」
「いつもそうやって素直なら、可愛いのにな」
ふっと微笑むテオは、絶対に気づいていないと思う。
だから私は、レオ兄様を見て頬を膨らせた。
「仕方がないから、レオ兄様には姉様を貸してあげるわ。私が兄様と踊るまで、他の人と踊っちゃいやよ?」