太宰治「恥」についての考察
太宰治に「恥」という作品がある。短い作品なのでこちらを読む前に作品そのものを読んでもらいたい(ネタばれあり)。青空文庫で検索すると読めるはずだ。
簡単に要約すると、小説家(戸田)の女性ファン(和子)が小説の内容が本当のことで、戸田自身がみすぼらしいと思い込み、それを覆面の手紙で指摘した。その後、なぜか戸田が和子の正体を見抜き、和子をモデルに作品を書いたので、和子はもう一度手紙を書き、そのことを批判した。戸田からはその返事をもらったのだが、居ても立っても居られなくなり、直接会いに行った。実際に会ってみたら、戸田は小説の感じと会った感じとまるで違っていた。その上、戸田は和子のことなど知らない、小説には絶対にモデルを使わないと言った。これまでのことは全部和子の勘違いだったのだ。和子はひどい恥をかいてしまったという話だ。
この作品の感想をネットで調べてみると、和子の行動がものすごく恥ずかしい、面白い、太宰治は女性の心理をよくわかっているといった表題の「恥」が和子のことを指しているものだけだった。
この作品は果たしてそれだけの内容なのだろうか?
ポイントはこの戸田のセリフとそれを言ったときの反応だ。
「何だか、僕の作品が、あなたの身の上に似ていたそうですが、僕は小説には絶対にモデルを使いません。全部フィクションです。だいいち、あなたの最初のお手紙なんか。」ふっと口を噤んで、うつむきました。
ふっと口を噤んで、うつむくとはどういった心情を表しているのか?言ってはいけないことを思わず口走ってしまい、しまったというものだ。何を口走ってしまったのか?直前の「だいいち、あなたの最初のお手紙なんか。」である。
この作品は和子の口を通して語られている事もあり、読者は和子の主観でしか事実を認識できない。読者は和子の恥という感情とこの和子のキャラクターが強烈であるため、そこにある真実を見落としてしまっているのではないだろうか?
戸田のこの反応は、和子が最初に考えた通り、戸田が和子のことをよく知っていて、小説のモデルに使っていたことを指している。
もし戸田が和子のことを知らなかったら、二通目が届いたとき、和子の言う通り、「手紙の意味が、まるでわからなかった」はずだ。二通目の手紙を読み、そこから一通目の手紙を推測しても、このふっと口を噤んで、うつむくような反応は不自然だ。戸田が和子のことをよく知っていたからこそ、知らないもしくはほとんど興味がないはずなのについ和子の詳しい情報を言いかけてしまった反応が出てしまったのではないだろうか?
和子は教授の娘でサムエル後書やユーゴー、バルザックを知っているような知性的な女性として書かれている。言っていることはほとんど外れているが、ときどき的を得る。最初の手紙で戸田の小説に「無数の欠点をみとめながらも、底に一すじの哀愁感のあるのを見つけた」と書き、戸田が和子のことを知らないと言ったときに、「私のあの手紙の意味が、まるでわからなかったでしょうに」と鋭いことを言う。和子は戸田が和子を小説のモデルに使っていたことを当てていたのでないだろうか?
この小説は和子のことばかり書かれており、戸田はほとんど登場していない。戸田の内面を推測するのは難しい。和子の思考をなぞってていくと戸田は「人の屑」で「鬼」のような残忍な人間となる。勘違いした相手にもう少しフォローしてもいいだろうに。「優しい慰めの手紙」を書いてもいいだろうに。翻って、戸田が和子のことを知っていたのならば、戸田のこの行動は自然だったのではないだろうか?戸田には和子のことを心配する余裕がなかったと推測できる。
日本橋の真ん中で、裸で大の字になる覚悟がなけりゃ小説は書けないと言った小説家がいた。小説は自分自身の経験や感情、思想などをさらけ出して書かなければ人の心に伝わらない。もし、「人間失格」が完全な作り話だったとしたら、こんなにも多くの人の心に残らないだろう。自分をさらけ出したからこそ名作となりえたのだ。
一方で、太宰治は「津軽」という作品で、たけと話をしているが、実際には会話していなかったことが太宰治を研究している人により調査されている。また、「人間失格」で語られている、妻が犯されているところを目撃したようなことを太宰治自身は経験していない。これらは皆フィクションだ。
太宰治はこのように虚実入り混じった小説を書く。なんなら事実に近い虚構を作り出して、そこに自分の感情を入れ込んでいる。そして、どこまで事実でどこまで虚構なのかわからないように書いている。
和子は最初、小説に書かれていることを全て事実だと考えた。その後、戸田と直接会い、最後には全て嘘だと決めつけた。どちらも間違いだ。戸田のモデルは間違いなく太宰治自身であろう。戸田の小説もまた虚実入り混じっており、書かれている内容がどこまでが事実でどこまでが虚構かわからない。
ただ、自信はないが、和子が「無数の欠点をみとめながらも、底に一すじの哀愁感のあるのを見つけた」と言ったことが事実であり、それが戸田の琴線に触れ、小説のモデルにしたくなったのではないかという気はする。
さて、それではもう少し太宰治の意図を探ってみよう。戸田はなぜ和子に嘘をついたのか?タイトルの「恥」とは一体誰の恥をさしているのか?
太宰治は恥の多重構造を作り出し、それを巧妙に隠している。タイトルの「恥」とは複数の人間の恥をさしているのだ。
その多重構造とは……。
1. 和子
読んだとおりである。
2. 戸田
戸田がなぜ和子に嘘をついたのかというと、それが戸田の恥だったからだ。
戸田にとって小説の内容が事実だと思われることが恥となる。もしくは和子をモデルに小説を書いてしまったことを恥じ、知られたくなかったのかもしれない。
3. 太宰治
戸田が太宰治のモデルだとすれば、太宰治自身もまた、戸田と同じものを恥だと感じている。「恥」という作品が恥の多重構造であるということを暴かれるということは太宰治にとって恥となる。
4. 読者
太宰治がここまで考えているのかわからない。しかし、現在までこれだけ多くの太宰治ファンがいるのにも関わらず、この作品が恥の多重構造になっていることを誰も認識していない。読者の見当違いな感想は恥となる。
さらに、太宰治は明るい人間だった、ユーモアがあったという主張を耳にしたことがある。そういう表面的なところだけをみて太宰治という人間を評価することはナンセンスだ。くしくも、この「恥」という作品は作家のファンが勝手に作家の人物像を作り上げたという話だ。太宰ファンは和子と同じ過ちを犯してないだろうか?
一度整理してみよう。
戸田は和子のことを知っていた。理由は
・「だいいち、あなたの最初のお手紙なんか。」ふっと口を噤んで、うつむきましたという表現に違和感がある。
・戸田に焦点を当てて行動を追ってみると、その行動はやはり不自然だ。
・和子がところどころでヒントを出している。
戸田はなぜ嘘をついたのか?
・戸田にとって恥だったから。
戸田にとって恥だということは
・「恥」という作品が恥の多重構造になっている。
恥の多重構造とは誰?
・和子
・戸田
・太宰治
・読者(?)
文学は数学ではないので明確な答えを出せない。この考察自体、決定的な証拠がない。この小説が和子の恥だけ書かれた作品かもしれない。作者が亡くなっているので真実はわからない上に、どちらでもとれるような書き方をしているので、生きていたとしても答えを出さないかもしれない。
しかし、単純に女性ファンが恥かいたという以上の作品だと私は信じている。自分の内面を暴露したともいえるこの解釈の方が「道化の華」や「桜桃」を書いた太宰治の作品らしさがあるからだ。それに、太宰治は「道化の華」では作者が語り手として何度も登場するというメタ構造をとっている。挑戦的な構成を考案するような作家だ。そんな偉大な作家だからこそ、これほど巧妙に練られた作品を生み出したのだと思わせられるのだ。
最後に「道化の華」よりこの一節を。これは「道化の華」について書かれたものであるが、「恥」についても当てはまると思う。これをもって太宰治がこのような作品を作った意図としよう。
なにもかもさらけ出す。ほんたうは、僕はこの小説の一齣一齣の描寫の間に、僕といふ男の顏を出させて、言はでものことをひとくさり述べさせたのにも、ずるい考へがあつてのことなのだ。僕は、それを讀者に氣づかせずに、あの僕でもつて、こつそり特異なニユアンスを作品にもりたかつたのである。それは日本にまだないハイカラな作風であると自惚れてゐた。しかし、敗北した。いや、僕はこの敗北の告白をも、この小説のプランのなかにかぞへてゐた筈である。できれば僕は、もすこしあとでそれを言ひたかつた。いや、この言葉をさへ、僕ははじめから用意してゐたやうな氣がする。ああ、もう僕を信ずるな。僕の言ふことをひとことも信ずるな。