3.くまとココアと女難の相3
コート・ロティ大学病院は、通常、紹介状があるか、特殊な症例か、もしくは資産があるものしか診察を受けられない。しかし、この救急救命室だけは違っていた。
救急医療を専門に行うこの診療科は、あらゆる症状の患者が、運ばれてくる。この有名な大学病院で受診したいと考える患者は多いため、ここは常に忙しい。
シンカが、ここに勤務し始めたのが、その日の夜になってからだ。宿直なのだ。
担当する研究医は、マクマスという女性医師だった。四十代前半の彼女は、黒い髪をきりりと結い上げ、シンカと同じく初めて勤務するミオに簡単にそこのルールを説明する。
外科を目指すミオは、外科医の担当医に、免疫治療科のシンカは内科医のマクマスにつく。
「いい?ここでは、自分の専攻してきたものとは違う治療をしなくてはいけないことがある。研究生なんだから、なんでも挑戦して欲しいわね。でも、相手は一刻を争う患者なのよ。無理をしないこと。できなくてあたりまえとは言いたくないけど、最近の学生は自信ばかりあって無茶をしすぎる傾向があるの。何事も慎重にお願いね。」
「はい。」
二人の返事がそろう。
「今日は、初日だからそれぞれの担当医に従って。次回からは、自分でできそうなことはどんどん、自主的にやってね。」
「はい。」と、二人。
「じゃあ、ルーは私についてきて。ミオは、三番で治療に当たっている担当医のところへ。」
シンカはミオに小さく手で挨拶して、マクマスについていく。
早足で歩きながら、マクマスが説明する。
「患者は胸部銃創の十六歳よ。アッセームなの。言葉は大丈夫?」
「はい。」
アッセームとは、このセトアイラスの原住民のことだ。彼らは、小柄で深い体毛を有し、共通語はほとんど話さない。この惑星で、もっとも貧しい人々だ。太陽帝国の進んだ文明が入り込んだことで、受けた恩恵と被った被害は、容易には比較できないほど大きな変化を彼らの生活にもたらした。
治安が悪い下町の住人はほとんどがアッセームで、シンカもそこには立ち入らないようにと注意されている。
そこから、この十六歳の少年は運ばれてきていた。
看護師が患者の状態を読み上げる。
シンカは、マクマスの指示で患者の気道を確保する。「大丈夫、呼吸が楽になるようにするからね。」そう、少年に話し掛けると、呼吸用のチューブを喉にはめる。
「いいわね。」
マクマスの視線を受けながら、少し緊張しながら酸素マスクを固定すると、作業を終える。
肺に傷を負ったのか、呼吸が安定しない。
「ドクター・マクマス、胸部外傷のために血胸になっていると思われますが、胸部穿刺しますか。」
「どうして、そう判断するの?」
問われて、シンカは言った。
「呼吸音の乱れ、酸素飽和度の低下。胸部CTに液体の影が見えます。」
マクマスは表情を緩める。
「正解。ご褒美に、君にやらせてあげるわ。やってみなさい。」
「はい。」
肺気圧を下げるために、マクマスの指示で、肺に小さな穴をあける。入り込んだ血液を排出する。
少年の顔色は少しましになった。呼吸が、戻る。
少年は手術のために、外科病棟の手術室に送られていく。
はあ。緊張から解き放たれて、シンカは小さく息をつく。
マスクとキャップを外して、はがした手袋とともにダストボックスに捨てる。
心地よい緊張感と充実感。シンカの瞳は、輝いている。
「ルー、次よ。二番に、裂傷の患者がいるわ。消毒と縫合ね。」
「はい。」
シンカが、新しいエプロンを取り出し、縫合キットを機材棚から取り出したときだった。
きゃー!
悲鳴が上がる。
ミオの声のようだ。
隣の三番処置室で、確か担当医と交通事故の患者を診ていたはずだった。シンカは、縫合セットを持ったまま、三番に向かう。シンカの患者は、二番のベッドから飛び出して、廊下に出ている。患者と医師と看護師が三番の前にたむろする。
「ダンリーさんですね。部屋にもどれとは言いませんから、これ、持っていてください。」
患者に縫合キットを持たせると、シンカは三番の部屋に入る。止めようと、看護師たちがシンカの服を引っ張ったが、気にしない。
処置室は簡単なスクリーンで仕切られている。三番処置室の入り口に設置されたエアカーテンをくぐる。半透明の防護シートには、四人の人影がある。
ベッドにある患者らしい影、白衣のミオと医師。それから、銃を構えて立っているらしい、男の黒い姿。
シンカはかまわず、半透明のスクリーンをくぐった。
「ルー!」
ミオが叫んだ。
目の前の、銃を構えた男が、銃をシンカに向けて放った。それは外れて、壁代わりのスクリーンに穴をあけた。ダンリーさん、廊下に出ていてよかったな。そんなことを考えながら、シンカは銃を持つ中年の男を睨みつけた。
「なんだ、お前、殺すぞ!」
男の表情は思いつめていて、尋常ではない。
「落ち着いてください。あなたが、どうしてその患者を襲うのか分かりませんが、患者としてここに来た人を、目の前で殺されるのを、見過ごすことはできません。」
「うるさい!こいつは、自分の母親を殺したんだ!こいつの暴走のために、一緒に乗ってた母親は、あいつは、・・さっき死んだんだ!医者なら、あいつを助けるべきだったんだ!こんな、馬鹿息子じゃなくて、あいつを。」
男の声は震えている。
ミオの後ろで、まるでミオを盾にしているかのような、若者は、大きく見開いた瞳で、髭の男を見つめている。
「死んだのか・・母さん。」
その、声は苦しそうだ。彼自身も、重傷を負っている。
あふれる涙。ミオも切ない。
担当医は、ただ、二人を見比べている。
「彼を殺したら、あなた一人だけが、残ってしまいますよ。」
シンカは、穏かに言った。その瞳は、やさしげに男を見ている。
「俺も死ぬ。」
「あなたが、死んでもだれも生き返らない。今、生きていたくても、生きていけない患者がいます。まだ小さな子供です。彼女に、あなたの命をあげてください。」
「なに?」
「彼女は、生きていけない。かわりに、あなたが救われて、生きつづけるのだと知ったら、きっと喜んでくれます。」
ミオも、担当医も、廊下で様子をうかがう野次馬もざわつく。
「彼女のために、あなたの残りの人生を生きてください。そして、君は。」
泣いている若者に向かってシンカは微笑んだ。
「君は、お母さんのために。」
男は、銃を持った手で涙を拭いた。
「ばか、俺がなんで見ず知らずの子供のために生きるんだよ。」
「愛する女性の子供、彼のためにでも、いいんですよ。それでも、生きていけるんだから。」
シンカは、そっと、男の銃を取り上げる。
「なんだよ、お前は!」
男がつかみかかる。
シンカは、さらりとかわして、男の手をとり、後ろ手に締め上げた。
「すみません。僕、言い過ぎましたか。でも、あなたの悲しみは、あなた自身で解決しなくては。」
男の表情は、冷静になっていた。
「わかった、いてえよ、はなせ。」
「すみません。」
シンカは、男から離れると、ミオを盾にする若者の手をほどく。若者は、ただ、泣いていた。ミオを助け起す。
「ルー。」
ミオは少し震えていた。シンカは、手をぎゅっとにぎった。
「さ、治療を続けよう。あなた、お父さんなんだから、そばについていてあげてください。」
男の肩を、軽くたたいて、シンカは銃を持ったまま、処置室を出る。
そこに、警備兵が駆けつけた。素早く銃を腰に隠すと、シンカは二人の警備兵を引きとめる。
「何かあったんですか?」
「なにって、銃を持って男が暴れているって。」
「ああ、間違いですよ。彼は銃なんて持っていませんから。」
野次馬たちを見回す。
「そうでしょ、みんな。」
ダンリーさんが、縫合キットを持ったまま笑った。
「そうだな。俺たちは、あの親子があんまり悲しそうだったんで、つい気になっちまって。いやだね、野次馬は。」
「そうだな。」
看護師も、患者も、みな、警備兵から目をそらし、そそくさとそれぞれの場所に戻っていく。
「君は?」
「僕、研究生のデアストルといいます。」
「通報したのは君か?」
「いいえ。いたずらですよ、きっと。」
微笑む彼の表情は、愛らしく、警備兵は見とれる。
「ダンリーさん、さ、傷を見せてください。」
「おうよ。待ちくたびれたぜ。」
二人は二番処置室へ入っていった。
途方にくれて、顔を見合わせている警備兵。
「お前、面白いな。」
ダンリーさんが、腕の傷を縫われながら笑う。
「動くと痛いですよ。」
笑いながら、シンカが答える。
「ねえ、次は私の傷、縫ってくださいな。」
振り向くと、背の高い女性が、傷を負った片足を浮かせて立っている。
すそに長いスリットの入ったスカートから、細くてきれいな足首がのぞく。
「お、いいねえ。ここに座るかい。」
ダンリーさんが、喜ぶ。
「どうぞ、受付は済まされましたか?」
シンカがダンリーの傷に、保護テープを張りながら言った。
「ええ。もちろん。私、レザイア・ヴァローゼ。」
「はい。ダンリーさん、できました。」
「おいおい、俺だけ追い出すのかよ。」
「ふふふ。」
レザイアといった女性は、華やかに笑いながらダンリーにさよならと手を振る。
「ふん。」
「あ、ダンリーさん。一週間後に消毒しますから、来てくださいね。」
声をかけるシンカに、ダンリーは笑って手を上げた。
「君、若いわね。お医者さまなの?」
シンカの正面で傷のある左足を、右ひざに組んでみせる。
その色っぽいしぐさは、少しドキリとさせる。が、毎日ユージンの毒気と戦っている彼には、あまりいい印象は与えない。
「動かさないでください。僕、研究生なんです。」
「あら、そう。」
「もし、研究生がいやなら言ってくださいね。ドクターを呼びますから。」
「君がいいの。」
女性は、腕を組んで首をかしげる。シンカの表情を覗き込むように。
「・・。」シンカは、傷を消毒しながら、女性を見上げた。
長い金髪。派手な顔。大きな薄い青の瞳は、強い印象を受ける。普通の女性ではなさそうだ。
「だめですよ。せっかくのきれいな足を、自分で切りつけるなんて。」
縫いながら、シンカはレザイアに微笑みかける。
「鋭いわね。」
「なかなか、ここまで、できるものじゃないですよ。ためらい傷一つないなんて。」
「ふふ。君に会いたかったから。」
「え?」
「私、地球で雑誌社を経営しているの。『ラ・クース』って、雑誌、知らない?」
聞いたことある。
確か、経済から政治、ファッションまで、あらゆるジャンルの記事を掲載している。ターゲットは若い女性だが、記事の内容はしっかりしていると聞いた。ユージンが読んでいたのを知っている。
「色を変えたくらいで、記者の目はごまかせないでしょ?」
「!」