8.生きるということ 3
研究所のいつもの処置室に来ると、シンカは教授に尋ねる。
「ユージンについて、知っていることを、教えてください。」
それを無視して、教授は笑った。
「先日、もらい損ねた骨髄液を少しもらっておこうかな。」
シンカは溜息を吐きながら結んだマフラーを解いた。着ていたコートを脱ぐ。コートのしたは白いカシミヤのニットで、襟と袖口に牛皮が使われている。それは、シンカの引き締まった体格をふんわりと見せ、やさしげな表情によくあう。
シンカが何がしかの格闘技などで鍛えていることは、ゲーリントンは想像できた。筋肉のつき方で分かる。
だからこそ常に相手の弱いところをついて自分を優位に持っていく。けして、体力勝負や実力行使にならないように。
若い皇帝は金色の髪をかきあげ、苛立ちが隠せない瞳で教授を睨んだ。
「わかりました。好きにすればいいんだ!教授、ユージンに何かあったら、許しませんから。あなたもただではすみません。覚えていてください。」
くすくす笑う教授に、促されるままに、いつもの診察台に横になる。
「ああ、そうだ、骨髄液の抽出だけどね、君は麻酔使えないからね。多少、痛いと思うよ。我慢してくれたまえ。」
シンカは唇をかみ締めた。
皇帝の警備のために、ミストレイア・コーポレーションから派遣された男たちに、レクトが怒鳴りつけてから、二時間ほどが経過していた。
「ミストレイアに所属するものが、いいかげんな任務をしやがって。行き先も聞かずに、ゲーリントンに預けただと?その辺の銀行の警備員じゃないんだぞ!自覚があるのか、馬鹿ものどもが!人を一人守ることがどれだけ大変なことか!本人がなんと言おうと、あれは太陽帝国の公人なんだ、一人くらいついて行かなくてどうするんだ!」
屈強な男たちが怯えた。何しろ相手は宇宙最強の冷酷な軍務官だ。ミストレイア・コーポレーション、彼らの所属する会社の統合本部長でもある。
「いえ、その。病院に出勤するときはいつも、お一人ですし、ユージンさんがいなくなってからは、ほとんどすべてをご自分でなさっておられたので。」
「病院には運転手が送っていったからだろう?そろいもそろって、この空っぽの公邸を守っているのか。ばか者!」
レクトの冷たい視線で、彼らは降格を覚悟した。
それから、二時間。公邸の広いリビングで、レクトは煙草をふかしながらじっと待っていた。
なんだか、おかしい。
ため息とともに吐き出した紫煙に、目を細める。
カッツェは少なからず、エドアス・ゲーリントンと俺の確執を知っているはずだ。シンカの身近にゲーリントンがいるのなら俺に知らせるか、あるいはシンカに注意を促す。シキも、いつものあいつならユージンがいないと知れば、シンカをこんなところに一人にしておく奴じゃない。なぜだ。
シンカを孤立させるように、誰かが、仕組んだか。
思い当たる人物が、一人だけいる。
メイドが夕食の準備をしているが、一度レクトの様子を見てから二度と顔を出さず、もくもくと料理を作っている。
うわさに聞く、宇宙一恐ろしい軍神とはよく言ったものだ。その鋭い眼光は、今は容赦なく回りに放たれている。
誰が、どうおびえようと歯牙にもかけない。その迫力は端正な容姿とあいまって、ぞっとするほど印象深い。この強い印象が伝説を作るのだろう。
勝手に飲み始めたウイスキーがボトル半分ほど空いたときだ。来訪者を告げる甲高い音が響いた。
スクリーンには青白い顔のシンカ。そして、肩に手を置く三十代くらいの男。
きちんとした身なりの彼は、薄い唇に神経質な笑みを浮かべて、シンカに何か話している。
シンカはあまり相手にしていないようだ。
レクトはスクリーンに向かって声をかけた。
「挨拶も無しなのか?さんざん待たせておいて。」
「!レクト。」
軍務官の声にシンカは顔を上げた。その表情は、嬉しそうでもある。
「これは軍務官。お久しぶりです。」
にやりと笑うゲーリントンだが、次の瞬間、きびすを返していた。
「ゲーリントン。貴様、シンカに何をした。」
スクリーン越しにも感じる迫力は、ゲーリントンを帰途に向かわせるに十分だった。ゲーリントンはシンカになにやら耳打ちしてから、レクトのほうを振り返りながら、手を上げる。さっさと自分の車に戻っていく。
シンカが呆然と車が去っていくのを見つめていると、背後でエントランスが開きレクトが飛び出してきた。
「遅いぞ、シンカ!携帯の電源も落としてあるし、お前は一体……」
「レクト、教授が、今、ユージンは迦葉が連れ去ったって!」
真剣な表情で若い皇帝は頭一つ高い位置にある、レクトの端正な顔を見つめる。
視線を上向けると同時にくらりとめまいを感じて、慌ててぎゅっと目をつぶった。
「それはいい!もう、その情報はつかんでいる。なぜ、俺たちに任せないんだ。」
腕を捕まれ、引っ張られるに任せてよろよろと歩いていたシンカだが、リビングに入ろうというときに足がもつれた。
「!?おい。」
めまいに似た症状が全身にあって、けだるくて立っていられなかった。
「…なんで、教授が。」
そう言った、声はかすれて、レクトには聞き取れなかった。
そのままずるずると引きずられるように、シンカはソファーに寝かされた。
気が付くと、ベッドに横たわっていた。覗き込む、ガンスの心配そうな顔があった。
「陛下。」
「気付いたのか?」
ガンスの横に、レクトの厳しい顔。
怒っている、のか。ガンス、わざわざ、基地からここまできてくれたんだな。
「ごめん。」
シンカが最初に言うのは、いつもそういう言葉だった。
「謝るな、バカヤロウ。」
額の金髪をくしゃくしゃなでて、レクトは悔しそうに睨んだ。
「お前、あいつに何されたんだ」
あのヤロウ、とレクトはゲーリントンを知っている様子だ。
どうりで教授がレクトを見たとたん逃げるように帰っていった。
「採血。あと、骨髄液をいくらか取られた。」
「陛下、今朝の通信で、陛下の隣にゲーリントンの姿を見まして、軍務官にお知らせしたのです。ゲーリントンは油断ならない人物です。一体いつから、その採血を続けてらっしゃるのですか?骨髄液はどのくらいを採取されたのですか。」
中年の女性は恰幅のいい体を揺らして、点滴の準備をしている。
「採血は多分400ミリを、もう二週間になる。骨髄液は今日初めてだ。量は分からない。とにかく、痛くてさ。」
思い出すだけでざわと背中に冷や汗を感じる。悟られまいとシンカは小さく舌を出して、微笑んでみせる。しかし、二人は険しい表情のままだ。
「軍務官。」
ガンスが奥の執務室にレクトを引っ張っていく。
なんだろ?
シンカは首だけ回して、二人を見送る。
腰髄穿刺は自分も実習でやったことがあったが、麻酔なしではこんなに痛いものなんだな。通常は局部麻酔するが、俺にはそれはできない。
ため息が出た。「行くよ?」と合図されても、腰椎から脳幹にまで響く痛みには自然と体が震えた。押さえつける助手たちの手も汗ばむほどだ。シンカが痛みに耐え握り締めた両手は、己の爪で血が滲んだ。自分が見ることの出来ない場所というのが余計に堪えた。神経が磨り減るとは、こういう事なのだろうか。
そして、採取後の、気持ち悪さといったら、ゲーリントンに腹を立てる気力もなくなるくらい、体力を奪っていた。
今も、まだ回復していない。採血や腰椎穿刺の傷跡はないのだが、減ってしまった血液や骨髄液を元に戻すには時間がかかるようだ。
少し熱が、ある。きっと、からだが足りなくなった血液と、骨髄を一生懸命再生しようとしているんだ。
結局ユージンについては、先ほどの迦葉の話しか聞けなかった。
俺、こんなに力が足りないと思ったの、はじめてだ。
以前にも、一度そう思った。
アイリスを、亡くしたときだ。
再び目を閉じると、ユージンのあどけない幸せな笑顔が浮かんだ。それは、アイリスの笑顔にも似て見える。青白い顔で、大きなくりんとした瞳。
くまのルーは、一緒に逝ったのだろうか。
「そうだ。大至急だ。ああ。ニーヒスケルスに連絡を。」
レクトが誰かと話していた。ニーヒスケルス、それはシンカ専用の小型高速艦だ。今は、この惑星上の宇宙ステーションで待機している。
「レクト?」
目を開ける。
「シンカ。お前を、地球に連れて帰る。」
黒い瞳が目の前で睨んでいる。
「なんだよ、それ。」
「これ以上お前をここには置いて置けない。研修だかなんだか知らんがそんなもの、お前に必要ない。ゲーリントンに協力する義務もない。何も考えずに、お前は地球に帰るんだ。」
シンカの頬にレクトの大きな手があたる。熱のあるシンカには、気持ちいい。
「よく分からない。俺、研修、まだあるし。ユージン、見つかってないだろ。それに、マリアンヌのことも」
「そのどれ一つとして、お前が必要とすることじゃない。唯一、そうだな、お前がここですべきことで、やり終えてないことは、カストロワ大公を懐柔できなかったことくらいか。」
カストロワ大公?…レクトはそのために俺の研修旅行を認めたのか?
「帰らない。」
蒼い瞳が、じっとレクトを見つめた。
「なあ、お前は欲張りすぎだ。もう、これ以上は駄目だ。お前の体がもたん。」
「なんで、レクト。ユージンのこと、放っておいたんだよ。俺はもっと早く、彼女を解任したかった。」シンカの瞳が、少し潤んだように見えた。
ここにユージンとともに来なければ少しは状況は違っていた。
黒髪の軍務艦はベッドに腰掛けて、傍らの皇帝を見下ろした。その瞳にはやさしげな光が浮かんでいる。
「シンカ、お前が抱いてやればすむことだろう?」
「それはできないよ。それじゃ、何の解決にもならない。ユージンはきっと、エスカレートするばかりだ。」
「エスカレートしておかしな行動をとれば、逮捕することだってできるだろうが。」
レクトの笑みはやさしい。それが余計にシンカには苦しい。シンカの言いたいことが通じない。
「それは、レクト。彼女をだますことと同じじゃないか。」
「よく聞けよ、シンカ。ユージンは既に知ってはいけない情報を得て、お前を脅しているんだぞ。彼女のことを思いやる必要があるのか?お前が優先すべきは、公務と、お前が選べる一握りの人間を守ることだけだ。周りの人間すべてを大切にできるなんて思うな。傲慢甚だしい。」
「レクト。」
「それとも、お前、子供じゃあるまいし、ミンク以外の女を抱けないなんて、いわないよな。」
「馬鹿にするな。」
目をそらす。言われなくたって、これまで何度となく、それでユージンの気が済むなら、と考えた。
軍務官は、煙草に火をつけながら、アンティークのスツールをベッドサイドに持ってきた。紫煙が揺れる。
「シンカ、今回、ユージンを放っておいたのも、お前を一人でレイス・カストロワに会わせたのも、お前に成長してもらうためだ。」
「?なんだよそれ。」
「お前が、ユージンを傷つけようと、殺そうと、俺はかまわない。いや、むしろそうすべきだと思っている。レイスにも、上手く立ち回って奴を操るくらいできなくてどうする。優しいだけじゃ皇帝として勤まらないぞ。」
価値観が違う。
そう思わずにはいられない。
「……大公のことは、任せてくれるって言っただろ。」
「……俺は、今のお前の歳にカストロワ大公のコレクションになった。」
「レクトが?」
初めて聞いた。コレクションは、大公の息がかかっていて、扱いづらいと、いつかレクト自身がもらしていた。