7.セイ、ユージン、マリアンヌ 3
ユージンは研究所内を一人で自由に歩き回っていた。
その表情はあどけないような、呆けたような感じだ。教授に伴われたシンカを見ると、嬉しそうに微笑み駆け寄ってきた。
「ユージン」
緊張しながら抱きついてくる女性を見つめる。今は、躁状態なのだろう。
「うれしいです。陛下。」
次に教授を見つめると、ユージンは言った。
「先生、本当に私に子供を授けてくださるんですね。」
にっこりとあどけなく、どこか何かが抜け落ちた表情。
「どういうことだ?」
驚いたシンカは、教授を睨みつけた。いつもどおり、採血の準備をしていたゲーリントンは、薄ら笑いを浮かべて、言った。
「彼女はね、君の精子をもらって、人工授精で子供を欲しいといっているんだよ。」
「!」
シンカは、片手で目を覆った。抱きついたままの秘書官は、シンカの香りをかいでいるのだろう頬を腕に摺り寄せうっとりしている。
「甘い香り」
シンカは大きなため息をつく。
「彼女になに吹き込んでんだよ!」
「さあね。勝手に言い出したんだ。知らんな。協力してくれるのか?」
「冗談はやめろ!俺の子供なんかありえない!」
俺やレクトの、無理やり生み出されたものの苦しみを誰かに与えるなど、考えられなかった。
この辛さは誰も理解できないのかもしれない。
ユージンを貼り付けたまま、シンカは採血用の針を自分で刺した。器用にテープで止めて固定する。
その様子を、じっと見ていたユージンは、うっとりとつぶやいた。
「陛下の血の色、美しいです。香りも甘くて。特別なんですね、なにもかも」
女性の白い手が、腕をなでる。
「!飲んだことがあるのか?」
驚いて声が大きくなると、女性はびっくりして離れた。
「驚かさないでくれるかな。ルー。彼女は臆病になっているんだからな。」
機器を調整しながら、ゲーリントンが言った。
「・・教授、あんた、ユージンに何をした?まさか、俺の血液製剤、飲ませたわけじゃないだろうな。」
「さあてね。」
「俺の血液中のユンイラは、鎮静剤に含まれるファルクノールに過剰反応する。俺もその成分が入った麻酔薬を打たれて暴走したことがある。」
「それは、初めて聞いたなあ。」
のんきにコンピューターの画面を見つめながら、教授は机に頬杖をついている。
「ファルクノールは、不眠症や軽いノイローゼの状態の患者に処方されることがある。もし、ユージンがそれを服用している状態で、俺の血液製剤を使ったら」
脳に損傷を与えるかもしれない!
青年のほうに向き直った教授は、冷ややかに笑った。
「ああ、なるほど、そういう原因だったんだな。」
「!使ったのか?」
「そういう重要なことは、早く言ってもらわないとねえ。」
知らなかったという表情でもなく、のんびりと教授はモニターの血圧表示を見つめている。
「まあ、貴重な症例になった。一時的なものになるのか、改善するのか、これからの治療にかかっているか。」
悔しげに、唇をかんだシンカだったが、一時的な症状かもしれない事実は、嬉しいことだった。
「ユンイラ因子は、体内に一定期間は留まるが、いずれ排出される。もう、ユージンにファルクノールを使わせなければ、治るかもしれない。」
そう言ってシンカは、傍らに立っているユージンの手を握った。
黒い大きな瞳に笑いかけられて、秘書官は嬉しそうにあどけなく笑う。とても年上とは思えなかった。人の心って言うものは、ここまで表情や雰囲気に影響するものなのか。シンカは、今が最も幸せな表情なんだろう、と思う。
その時、研究所の受付から、来訪者の照会があった。
シキだ。
「ミストレイアの地球本部長?シキ?ああ、マリアンヌの父親だね。通してくれていいよ。」
ゲーリントンは驚くこともなく、受付に伝えた。
「ユージンを彼に預けて欲しい。」
そういったシンカに教授は口元を面白そうにゆがめた。「では今日は、骨髄液ももらっておこうかな」
「!」
「採血でもなんでも、といったね?君のために治療中の女性を渡そうというんだ、そのくらい承諾してもらうよ」
小さくため息をついて、シンカはうなずいた。
コール音とともに部屋に入ってきたシキは、ミストレイアの制服だ。いつもの彼と違う気がするのは、前髪が一応分けられているからか。昨夜、喧嘩したからか。
シンカが見つめても視線は合わない。
「やあ、シキさん。」
「先日は、どうも。」
「マリアンヌの様子はどうですか?」
「ええ。熱は下がりました。ありがとうございます。」
「それは、よかった。」
シキより七歳年下の教授は、穏かな表向きの表情で微笑んだ。そうしていると、普通以上に好青年に見える。
ユージンはシキのことなど目に入らないようで、仕切りとシンカの首にまとわりついている。まるで、シンカの放つユンイラの甘い香りに酔っているかのようだ。
「彼女、友人でしてね。地球にある病院に入院させることになったので、連れにきました。」
「ああ、そうか。いや、先日、ふらりと電話を受けてね。こんな状態だったから、返すのも危険かと思ったんだ。すまなかったね。心配させて。」
猫なで声とはこのことか、と苛立ちつつ、シンカは黙って成り行きを見守っていた。
「ユージン。お友達が迎えにきてくれたぞ。」
教授がユージンのそばに立つ。シキに背を向けた彼の表情は、穏かに笑っているようで、しかしその漆黒の瞳は笑っていなかった。その手に銀色の細長いものが光った。注射器だ。
「!教授、まさか!」
シンカは、とっさにユージンを抱き寄せ、教授の手から庇った。
「さっき……」その薬は、だめだと!
言いかけるシンカに、ゲーリントンは注射器を突きつけた。
「そう、さっき言っただろう、君は少し疲れているからね、休んでいくといい。今日は、このあと、まだ宿直勤務があるんだろう?」
「や…」めろ!
シンカは、腕に刺した採血の針がはじけ飛ぶのもかまわずに立ち上がった。つもりだった。
が、遅かった。
視界がゆがむ。身動きもできず、急速に力を奪う薬に、息が荒くなる。耳鳴り、乱れる視界。
すでに立っていられない。
「先生、なにを?」
シキがシンカに駆け寄った。
「いえ、あまり眠れないというので、宿直までの間休ませようと思いましてね。彼は、ユージンを心配しているんですよ。」
「……」
シキは床に座り込んだシンカを支えていた。すでに目を閉じて眠っているように見える。
「ゲーリントン教授、信頼していいんですね?」
シキは教授を睨んだ。
「ええ。ユージンを送っていくのは一人では大変ですよ。私も一緒に行きましょう。興奮させてもいけないので、症状がわかっていないと危険ですから。」
にこやかに微笑む、若い教授は医者としては完璧な態度だ。
「私は、医学には何の知識もない。けれど、教授、もしあなたが彼に危害を加えたら、容赦しません。娘の主治医であっても、関係ありませんので。」
シキは大きな口でにやりと笑う。凄みのあるその笑みは、たくさんの戦場を渡り歩いてきた、そしてそこでこそ生きがいを感じる彼のような人間しか作れない笑みだった。
「ええ。信じてください。私が彼に危害を加えてなんになるというのですか。少しだけ、研究に協力してもらっているだけです。彼は、休ませておいて、さあ、行きましょう。」
シキがシンカをそっと横たえると、ユージンが不安そうに、見つめる。
「ユージン。地球に帰ろう。」
シキが肩に手を置くと、秘書官は震えた。
「いやです。陛下のおそばにいたいのです!離れません。」
「ユージン。」
教授は、笑みを浮かべ、手元に注射器を用意した。その薬品のアンプルには、ファルクノールの含有量が示されている。
「教授、私に子供を下さるといいました。」
「子ども?」シキが、眉をひそめる。
「だから、それはね。ユージン。」
小さい子どもに言い聞かせる態度の教授は慣れた手つきでユージンの肩に注射器を押し当てる。
「あ…」
ユージンのグリーンの瞳が大きく見開かれる。
彼女の中で、何かが壊れた。
それは、知性だったか、記憶だったか。すべてが、白く薄れる中で、ただ愛しい青年のことだけが心を占める。
「おい、それ、何だよ。」
シキが今度はユージンを支える。
「鎮静剤です。ごく、普通のね。」
シキは秘書官を抱き上げ、教授を伴って、待たせてある車に向かった。
一度だけ振り向いた。シンカはぐっすりと眠っているようだった。
シンカが次に目覚めたとき、目の前にミオの顔があった。
「あれ?」
起き上がろうとする彼を、可愛らしい研究生が抑える。
「だめよ、貧血で倒れたって。教授が、ここまで連れてきてくださったんだから。」
「救急救命室、なんだ?」
「そうよ。私、ちょうど宿直だったの。」
「!そうだ、俺も免疫治療科の……」
起き上がると、くらくらした。
「ルー、無理しちゃ駄目よ。教授が代わりに勤務してくださるっておっしゃってたわ、大丈夫よ」
「……」
けだるさにシンカはまた、横たわる。
「ね、ルー。どこか悪いの?こんなひどい貧血、普通は起さないよ。もう少しでショック症状を起すとこだったんだから」
「って、輸血したのか?」
「ええ、教授があなたの血液型知っているって言って。私、はじめてみる血液型だった。そういえばルーはリュード人だものね。私たちとは違うのよね。」
くるりとした金色の髪を揺らし、ミオは首を傾げてみせる。
その時小さなコール音がミオの胸元から響く。
「あ、ごめんね、呼び出しだわ。今日は、週末だから患者さん多くて。」
「大変だな。手伝えることあったら言えよ。」
「ルーも、今は患者さんなんだよ。」
小さくウインクして、小柄な研究生は出て行った。
シンカは天井を見つめる。
あの時、麻酔薬を打たれて気を失ったんだ。
ユージンは無事、保護されただろうか。
「そうだ!」
ガンスにユージンの症状の原因を、ユンイラとファルクノールの過剰反応であることを伝えなくては。
ふらつく足元も気にせず、立ち上がると、傍らにあった自分の荷物から、携帯電話を取り出した。
「・・夜遅く、ごめん。」
電話の向こうの、五十代の女医は、いつもの豪快な笑いかたで笑った。
「いいえ。医師には夜も昼もありませんよ陛下。ユージン、今は眠っています。」
「ガンス、ゲーリントンが彼女にファルクノールと俺の血液製剤を服用させたらしいんだ。」
「!」
「彼女の、症状の悪化もそれが原因かもしれないんだ。だから、ファルクノールの使用を止めて欲しいんだ」
「ええ。分かりました。ゲーリントンは、知っているのですか?」
「多分、知っていて、試したんじゃないかな。」
「彼のやりそうなことです。陛下もお気をつけください。ゲーリントンは、表向きはとてもよい医師ですが、内心何を考えているか分からない男です。人を人とも思わない、冷酷な一面を持っていますので。」
シンカは微笑んで見せた。
「分かってる。ユージンをよろしくね」
「はい。」
通信を切る。
「ここでの、携帯電話は、だめよ。」
「!」
振り向くと、マクマスが、立っていた。
「ルー、あなた、何者なの?」
驚きの隠せない表情で、担当の研究医は訪ねる。
「今の女性、皇帝の専属医師ドクター・ガンスね」
ごまかしきれない、か。
「……学長と大公しか、知らないんだ」
シンカは覚悟を決めた。
「研修期間が終わればきっと、公表されるだろうから。ドクター、あなたには言っておくよ」
「ルー?」
シンカはゆっくり、瞳のカラーレンズを外した。