6.力があるということ 2
その日、シンカは久しぶりに落ち着いた夕食を取ることができた。
ユージンと二人きりというのはいつもどおりだが、先日の件以来、ユージンは落ち着いているように見えた。
交わしたのは口付けだけだったが、それで彼女は満足しているのかもしれない。
食後の紅茶でデザートのクッキーを流し込みながら、シンカはネットワークのニュースを見ている。くつろいだ気分で少し眠くなる。
「陛下、今夜は重要な業務もございませんので、どうか、早めにお休みになってくださいね。お顔の色が優れないように思います。」
「うん。少し、貧血気味なんだと思う。」
「ゲーリントン教授ですか。」
シンカは眠い目をこすってうなずいた。教授はアイリスがなくなったあの日以来、ほぼ毎日、時間を見つけてはシンカの血液を採取していた。
正確な量は分からないが、採血管の太さと機械の動きで、シンカは想像がついた。約400ミリリットルくらい。しかし毎日では貧血になる。わかっているが逆らえないでいる。
「大丈夫、明日はオフだし、まさか、この間のように呼び出したりしないと思うよ。」
「はい。ご無理なさらないでください。」
シンカは気付いた。亜麻色の髪をきれいに結い上げた、美しい彼女は泣いている。
「?ユージン、どうした。」
「いえ、何でもありません。ただ、心配で。」
空のカップをトレーに乗せ、下がろうとするユージンを引き止めた。
「大丈夫なのか?俺は、あなたのほうが心配だよ。顔色悪いし。」
手をつないだ状態が彼女の頬を赤くする。微笑んで手を離すと、シンカは秘書官の肩に手を置いた。
「ちゃんと寝ているのか?俺は留守がちだから、あなたが昼間休んでいるのか心配なんだ。以前から働きすぎなんだ。せっかく、ブールプールを出ているんだから、自由にしていていいんだ。休暇だと思ってくれてもいいよ。俺も病院になれてきたし、今まで以上に自分で業務管理できるから。」
「でも、陛下、陛下のおそばにいることが幸せなんです。」
「じゃあ、俺がいない時間は休暇だ。決めた。仕事するなよ。」
愛嬌のある笑顔で見つめられると、ユージンの胸は躍る。ユージンが頼りにしていたアシラ文政官から話があった。こんなにやさしいのに陛下は、春には秘書官全員を解任するという。切なくて涙がこぼれる。
解任の話が出たあの日以来、秘書官はあまり眠れなかった。どうせならと、仕事をする日もあった。シンカが宿直で帰らない夜は一晩中泣いていたこともある。
眠れないせいか一日中ぼんやりして、若い皇帝のことを考えていることも多い。こんな状態ではいけないと考えれば考えるほど眠れなくなる。
そんな時、陛下が怪我をして帰ってきた。
恐ろしく感じた。陛下をあの冷酷そうな教授の下に送り出す毎日が嫌でたまらなくなっていた。
「泣くなよ。」
「陛下、お願いです。ずっと、秘書官でいさせてください。」
うつむいて涙をこぼす秘書官に、シンカは返す言葉がなかった。
震える肩に手を置いて、そっと抱きしめた。
美しい秘書官がこれほど自分のことを思ってくれているのに、それでも彼女の思いに答えることができない。切ないのはシンカも同じだった。
「陛下、お願いです。」
「ユージン。あなたが俺のこと調べたりするから、だから……」
「それが、いけなかったのですか?私はただ、仕事のために多くを知るべきと考えたのに。先日、知っていてくれてありがとうとおっしゃったではないですか!」
「!それは確かに、嬉しかったよ。」
シンカは苦しげに目を伏せる。
「だけどユージン。俺はあなたがどれくらい、何を知っているのかは分からないけど、情報部も動いているんだ。あなたを逮捕させるような真似はしたくないんだ。」
「陛下。いつか私の望む部署にとおっしゃってくださいました。」
何かを思いついたように、年上の美しい秘書官は、シンカを見つめた。
「私を、情報部に配属してください。そして、陛下のおそばに秘書官として、置いてください。私が情報部の方と同じ軍部の規律を守ることができれば私が何を知っていてもよいのですよね?」
すがるユージンの視線に、シンカは哀しそうに見つめ返す。
「それでも、ユージン。俺は、あなたの気持ちには応えられないし、だから、そばにいてはいけないと思う。」
音もなくシンカの頬に痛みが走る。
シンカは手を添えることも、秘書官をにらむこともしない。
それが、さらにユージンの怒りを掻き立てる。逸らされたままの青年の顔に、さらに手を上げようとする。
シンカの大きな瞳が潤んでいるのに気付き、ユージンは上げた手を下ろした。
こちらを見たシンカの表情は、哀しく美しく、ユージンの胸をえぐった。
ユージンはもう、何もいえなくなった。
「ユージン!」
部屋を飛び出し、自室にこもってしまった秘書官に、シンカは大きくため息をついた。
その閉じられた扉の前で座り込む。
「……どうしたらいいのか、わかんねえ」
つぶやきは、足元のやわらかなじゅうたんに吸い込まれていった。
翌朝、シンカが目を覚ましたとき、ユージンの姿はなかった。
出かけたのだろうか。
警護のものに確認するが彼らは知らないという。
「あんまり、女を泣かすもんじゃないですぜ。」
一人に言われた。
「そういう関係じゃない。」
「ロートシルトさんは、素晴らしく気のつく女性だ。俺は、あんないい女見たことないね。おっと、失礼しました。」
睨むシンカに、ミストレイアから派遣された警備員は人の悪い薄ら笑いを浮かべた。
ほとんどここにいないシンカは、何日かおきに交替で来る彼らの顔を覚えていなかった。その間ユージンがいろいろと配慮したのだろう。
俺のことも、少しはうわさしたのかもしれない。
俺が悪者でもそれはそれで仕方ない。
シンカは珍しく苛立ちながら、一人でリビングに戻った。
ソファーに仰向けに横たわり、天井を睨んでいる。
メイドが恐る恐る声をかけてきた。
「あの、ご朝食は、こちらでお召し上がりになりますか?」
まだ、若いそのメイドは少しおどおどしている。いつもは間に入ってくれるユージンがいないためだ。
起き上がったシンカは、小さくため息をついて、微笑んだ。
「すまない。あまり、食欲がないんだ。飲み物だけ、執務室に頼むよ。」
青年の微笑みにほっとしたのかメイドは少し照れながら、はいと、透き通った返事をした。
昨日用意されたらしい、ユージンのメモを確認し午前中の執務を終えると、シンカはユージンの携帯電話に電話してみる。
今、どこにいるのだろう。
しかし返事はない。
ためらわれたが、彼女の部屋に入ってみた。
そこはきれいに片付けられていて、人がいた気配がないほどだ。
クローゼットに服の一枚もない。小さなテーブルに、あの、シンカから取り上げた携帯電話がおかれていた。
シンカは途方にくれた。
今夜シキの誕生パーティーをここで開く予定だ。その手はずを彼女が整えていた。なのに、肝心の彼女がいないと、どうしていいのか皆目見当もつかない。
朝から何度かけたか分からない電話に再びかけてみる。
やはり返事はなかった。
メッセージを残そうとするのだが、なんといっていいのか、分からなかった。
帰ってきて欲しい、というのは容易いが、仕事があるからとでも言うのか?昨日休暇をとれといったばかりだ。それではずいぶん勝手じゃないか。シンカは、ユージンの寒寒とした部屋のソファーに腰掛ける。
横になってみる。
休暇、か。そう思っていればいいのか。
メッセージを、残してみようか。
「ユージン。ルーだ。今、どこにいるんだ?連絡して欲しい。一人でゆっくり考えたいなら自由にしてくれていいけれど、黙って出て行かれると心配なんだ。声を聞かせて欲しいよ。」
もう少し、待ってみよう。
その時テーブルの電話が鳴った。
どきりとしながらスイッチに触れると、ホログラムが投影される。シンカの執務室のものと違ってユージンの部屋のスクリーンは小さい。
期待する秘書官ではなかった。
「シキ」
「おう、なんだ、珍しいな。お前が電話に出るなんてさ」
シキはあの豪快な笑いかたで笑った。
「お前、お預け食らった野良犬みたいな顔してるぞ。」
そう言えば朝から慌てていて、服装も髪型も何も気にしていなかった。
「そんなに笑うなよ。俺、落ち込んでんだから。」
シキには、思ったとおりに話せる気がする。
「おう、今日のパーティー、ルアーノホテルに六時だったよな。ユージンが急にそこでできなくなったって言っていたけど、どうしたんだ?なんか、あったのか?」
「!ユージンから、連絡あったのか?」
驚いてスクリーンに近づく青年に、シキのほうが驚く。
「今朝早くな。なんだ、お前、聞いていないのか?」
「ユージン、なんか言ってた?」
シンカの表情をどう取ったのか、シキはそこで厳しい表情になった。
「お前、もう少し彼女のこと考えてやれよ。全部、任せっきりだっただろう。負担大きいぞ、きっと。」
「そうかも、ね。だから出て行っちゃったのかな。」
青年はため息とともに目を伏せた。理由はわかってる。
「そうか。」
「……今朝早く出たまま、帰らないんだ。連絡取れないし。」
「まあ、今夜は来るだろう。きっと、彼女のことだ、きっちり手配はされているはずだ。気にするな。」
「ああ。分かってる。ごめん。シキ。せっかくの誕生日だって言うのに、心配かけて。」
シキはユージンが出て行ったって聞いても、驚かないんだな。
違和感がある。
「まあ、人間、たまには一人で考えたいときもあるさ。それより、シンカ、あのワイン忘れずもってこいよ。」
シキは何か知っているのだろうか。ユージンの居場所も知っているのかもしれない。
その黒い瞳を見つめる。
「……なんだよ?」
怪訝そうに睨み返すシキ。
子供が生まれて地球の勤務に代わってから、すっかり落ち着いた感じになった。自称色男は切れ長の瞳、彫りの深い顔立ちで相変わらずかっこいい。豪快に笑う大きな口、ワイルドな感じの黒髪。浅黒い肌がシンカには憧れだ。
シンカがまだ、惑星リュードで、ごく普通の少年として生きていた頃から、助けてくれた。彼がいなかったらきっと、今の俺はいない。人間らしくない俺のこと、いつも、信じてくれてた。
「おい、シンカ?なんとかいえよ。」
「ああ、ごめん。六時だったね。ワイン、必ず持っていくからさ。また一つ、シキがおっさんに近づく日だ。盛大に祝ってやるよ。」
にっこり笑う皇帝に、シキは笑って怒る。
「可愛くないな、お前は!」
笑いながらシンカは、アイリスの言葉を思い出していた。
くまのルーみたいに、ルー兄さんがアイリスのこと治してくれるといいのに、そう言った彼女に俺は何もしてやれなかった。
あまりに力が足りない。
シキとの通話を終えてスクリーンが真っ暗になっても、シンカは顔に笑顔を貼り付けていた。シキが何かを知っているかもしれなかった。なのに、問いただせなかった。
マリアンヌの検査のことも、シキが黙っているのは俺を気遣ってだ。だから、シキなら、必要だと思えば話してくれる。
黙っているなら、理由があるんだ。
そう言い聞かせながらも、かすかに苛立つのを抑えられない。
本当は、シキに「研究に協力して欲しい」と頼まれるのが恐いのかもしれない。
ユージンの心配をしているくせに、俺は自分を護るために真実に近づこうとしていない。教授の件を帝国政府やレクトに報告しないでいるのも、そのためだ。
研究材料、人と違う生き物。
認めたくなくてふたをしようとしている。
俺には力が、足りない。