1.散歩2
一日の仕事の始まりに、シンカは主任秘書官と文政官アシラとの報告を受ける。
その後ユージンの示したスケジュールで行動するのだ。
朝の姿とは全然違う服装で、ユージンはいつもと変わらないきりっとした笑顔だ。皇帝陛下に朝の挨拶をする。
早朝振り絞った勇気は意味を成していない。胸を張って誇り高い秘書官を見せ付ける彼女の維持のようなものを感じ取る。辞めさせたりしない、そんな態度にシンカは淋しくなる。
伝えたいことの一つも、彼女に伝えられていない。
一通りの報告を済ませてから、文政官アシラが皇帝に話し掛けた。
「陛下、明後日からのセトアイラスの研修旅行の件ですが。」
「なんだ?」
「同行する予定の惑星環境省の補佐官が、惑星探査機関との重要な会議があると言うことで、行けなくなりまして。代わりにユージン女史がお供いたします。」
「あ、ああ。」
シンカは、ユージンを見つめた。にこやかに、完璧な笑みを浮かべている。アシラと、ユージンは仲がよいことは聞いていたが。まさか、人事にまで影響力はないだろうと思いつつも、穏かならぬ想いがよぎる。
皇帝には最終的な人事権はない。参考程度の意見を述べるだけだ。アシラのような大臣十二人と、帝国に所属する惑星政府元首とに、それぞれの部下の人事を任せてある。秘書官の人事は文政官アシラが握っている。
それは、シンカが即位するときに自分で決めた。人事権をシンカが握ってしまえば、保身のためにシンカに取り入ろうとしたり出世に利用したりするものが出る。そんなことに時間と能力を費やして欲しくないのだ。だから、大臣たちは一定の身分保障がなされている。彼らには、本来の彼らがすべきことをしてもらう。代わりに、シンカの政治に意見する権限は大きい。極論で言えば、政治を企画し実行するのは、誰でもいい。結果的に何ができたかなのだ。シンカは、そこに重点を置いている。
結果が伴わないのであれば、大臣を、いや、皇帝自身を代えてでも行うべきことはある。
「陛下、ご旅行中、どうぞおそばに置いてくださいね。」
そう言うユージンの笑顔は、シンカの背筋を寒くさせた。
皇帝が研修旅行などは通常ありえない。故に猛反対する親衛隊たちを「正式な公務ではないから」という理由で追い払い、シンカはごく少数の側近とともに惑星セトアイラスへと向かうのだ。先秋取得した、帝国医師免許を有効なものにするために必要な研修がある。それを惑星セトアイラスの大学病院で受けなければならないのだ。
通常の学生は、免許取得と同時に研修に入り、卒業までの二年間を研修医として勤務しつつ勉強を続けるのだ。シンカにはそれが不可能なため、社会人など、一般向けの短気研修に参加する予定だ。それでも一ヶ月ある。実際に病院に勤務しながら研修、定期的な試験と単位取得が科せられている。皇帝としての業務を行いつつの研修はかなり厳しいものになりそうだった。
その間、密かにセトアイラス政府が提供してくれた公邸で暮らすことになる。そこで執務もする。秘書官のほかには、ミストレイアから派遣される警備員が数人。彼らはミストレイアのセトアイラス基地からの派遣となる。
つまり、一ヶ月、ユージンと二人きりで暮らす状態になる。
初めての研修に心躍らせていたシンカは小さくため息をついた。友人のシキが家族でセトアイラスに滞在する予定があると言っていた。半分くらいそちらに行こうか……。
普段は怖いものナシの性格(時に無鉄砲)だといわれるシンカだが、どうにもユージンの様な年上の女性、しかもこちらに特別な感情があることが分かっている女性と同行するのはどうにも気が重くなる。
翌日の朝はこの時期にしては珍しく、朝もやがブールプールを覆った。
息が少し白くなるほど冷えている。
シンカはベージュの羊皮のコートと黒いアルパカのマフラー、パンツは黒い牛皮で暖かい。実はあまり寒いのは得意でないので、つい、着すぎてしまう。歩いているうちに頬が火照ってくる。少し後悔する。
「おはようございます。」
並木のわき道から姿を現した女性に、シンカは立ち止まりニキはわうと小さく鳴いた。ユージン・ロートシルトだ。今日は来ないと思っていたのに。
「……おはよう。」
それでもにこやかな彼女に、シンカも笑顔で挨拶を返す。
今日は長い亜麻色の髪を一つに結って、その髪が肩にゆれている。
「今日は、来ないかと思ったよ。」
シンカはそう言ってみた。
「いいえ。せっかく陛下と二人で過ごせる時間ですので。」
隣というほど近くもなく、一歩分斜め後ろを歩くユージンの視線を感じながらシンカは視線を前方に向けた。いつものにこやかな笑顔だ。
「ユージン、今回の研修、一ヶ月も時間をとってくれて助かったよ。」
「いいえ、陛下がせっかく取得なさった医師免許ですもの、必要な時間をご用意するのは当然です。陛下のお役に立てること嬉しく思います。」
「ミンクが、期間中に一週間ほど来たいといっているんだ。忙しいと思うけど、せめて三日くらい、ミンクに合わせられる時間が取れるかな。」
秘書官は美しく弧を描く眉をひそませ、小さくため息をついた。
「考えてはみますが。」
予想通りの反応。シンカは立ち止まって振り向く。にっこりと、笑顔でけん制。
「あのさ、今回のスケジュールのなかで、俺のプライベートな時間は、どのくらいあるのかな?その時間を充てるよ。」
主任秘書官は常に手元に端末を持っている。いつでもスケジュールの確認ができる。ユージンの白い手のひらに小さなホログラムが開くのが見える。
「はい。今回のセトアイラスでの一ヶ月間では、百時間はご用意しております。」
「百時間、か。セトアイラスで、最も美しいと呼ばれる山岳地帯の景色を見せてやりたいんだ。俺は、以前視察で見たことがあるから。」
その山々は白く輝き、セトアイラスの薄いグリーンの空に映える。ニキを連れて、広い草原で寝転んだりしたい。
「ラングランド山地ですね。申し訳ありませんが、そこへ行くのには一日以上かかります。陛下、それだけのまとまったお時間はありません。」
シンカはため息をついた。
「セトアイラスは一日が二十二時間だ。そのうち七時間が必要最低限の生活時間だよな。研修と公務以外で、俺に残されている時間ってどれだけあるんだ?」
「まる一日の休暇が三回、半日の休暇が六回、三時間の休暇が何回かです。」
それを、ミンクとの時間に費やせば、シンカが休む時間は寝る時間以外にほとんどない。
「……わかったよ、ミンクにはあきらめるように言う。俺自身、こなせるかどうか。」
「申し訳ございません。」
シンカには、そのスケジュールにどの程度ユージンの意思が働いているのか分からない。ミンクやシキ、友人の誘いを断っておいて、突然、当日空きができたりする。それは、彼女のせいではないのかもしれない。
ただこんな風に疑うようになってしまったことに、シンカは限界を感じる。ユージンを信頼したいと思う。その能力はすばらしいと思う。だが。
解任はシンカにとってもつらい判断だ。
だから、昨日勇気を出して伝えたのに。シンカに人事権がないから余裕なのだろうか。既にこのことはアシラ文政官にも話してあるのに。ユージンは何事もなかったかのように、いつもどおり。
「ユージン。君の今後のことだけど。」
「はい。」
にこやかだ。
「希望があれば、その部署に推薦することもできるんだ。」
「今以上に、希望に沿った部署はございません。」
余裕の笑みなのか。確かに直接の人事権はない。
「昨日、散歩のときに。俺、言っただろ?あなたを解任したいって……」
「ええ。だめですよ、そんなことおっしゃっては。私以上に陛下のことを理解している秘書官はおりませんもの。それは、文政官もご承知です。」
そう言って、ユージンはシンカの犬の鎖をもつ手を握った。
「!」
「こんな幸せを私からお取り上げになるのですか。」
あくまでもにこやかな、笑みにシンカはぞくっとした。
「陛下、ミンク様のお顔、メディアに知られてしまってもいいのですか?」
「!ユージン、それは。」
脅しているのか!
「ミンク様かわいらしいですから、きっと、すごく人気者になりますよ。」
シンカは、手を握ったままの女性をにらみつけた。
「陛下には、私が必要です。どうか、お忘れなきよう。」
シンカは、頬に触れようとするユージンの手を払った。
「帰るよ。」
「私もご一緒します。」
無言のまま、秘書官に手を握られようとそれも無視して、歩く。
中央政府ビルのエントランスの前で、ユージンの手が離れるまで、どれほど、長く感じられたことか。
シンカは、執務室のソファーに座ると、電話を取り出した。携帯用のそれは、シンカ個人のために、レクトが用意してくれたものだ。そうでもしなければ、シンカの通話はすべて、ユージンに知れてしまうからだ。
太陽帝国、軍務官を呼び出す。
が、忙しいのか、応答はない。
俺、失敗した。
シンカは、ユージンに、解任の旨を伝えたことを、後悔していた。明らかに彼女は逆上しているし、まさか、脅してまでそばにいようとするなど、予想できなかった。そんなことして、俺に嫌われてもかまわないのだろうか。それとも、そこまで考えが及ばないのだろうか。どちらにしろ、今日の夕刻、出発までに、レクトに相談しておきたかった。
このまま、あのユージンと二人、セトアイラスに行くのではどうなってしまうことか。
「女を怒らせると怖いからな、気をつけろよお前も。」友人のシキがからかっていった言葉を思い出す。
「常軌を逸している。」レクトの言うとおり、確かにそうなのかもしれない。