5.採血、研究、少女 3
気付いたときには小さな病室のようなところにいた。
窓から見える景色は夜で、室内の足元の明かりだけがぼんやりと黄色く床を照らす。
ベッドからおきだして、シンカはその部屋を出た。廊下も既に暗く静まり返っていた。
廊下の先、一つだけ明かりの漏れる部屋があった。
「ああ、シンカ。気がついたかな。昨日の件もあるし、貧血になっていたので起さずに眠らせておいたんだ。もう、大丈夫か?」
そこは教授の部屋のようだ。それほど広くないが、パーテーションの向こうには応接セット、部屋の片面にはライブラリーだろう、フィルムやデータ、書籍なども並んでいた。資料の棚に囲まれた中、不思議と整然とした机で教授はコンピューターに向かっている。
やりかけの作業を惜しむように、ちらちらと二回ほどシンカを見上げ、その内ホログラムスクリーンを閉じた。
手招きするので、少し警戒しながら近づく。
医師がするようにシンカの目を確かめ、貧血の度合いを見ている。
「すみません。僕、もう帰らないと。アイリスの容態も気になるし、今彼女のウィルスの培養をしているんです。それがあれば、製剤との相性も確認できます。」
「じゃあ、送ろう。ちょうど仕事も片付いたところだ」
教授は穏やかに笑うと白衣の上に黒い上質なコートを羽織って、傍らに置いてあった小さな銀色のケースをシンカに手渡した。
保冷機能付の医療用ケース。表にはバイオハザードマークが示されている。
「あけてみたまえ」
言われてシンカが中を確認すると、冷蔵された彼の血漿と白血球、そして、それを分離抽出した顆粒球が小さな試験管にしまわれていた。
試験管には、皆、『c1−yunilla』のコードがつけられていた。これが、シンカの体内のユンイラ因子を表現する、正式なコードだった。
病院に戻るとすぐに、シンカは宿直のケイナ・ドマネスを探した。アイリスの様子を確認するためだ。しかし、彼女の姿はなかった。
そのまま、教授とともに集中治療室に向かう。
そこは、今、まさに戦場のようだった。ドマネスの張り詰めた声、指示を受ける看護師が酸素飽和度の急激な低下と、心停止を訴えた。
「アイリス!」
シンカはコートを脱いで医療用エプロンをつけると、エアカーテンをくぐる。その後から教授が続いた。
「教授!」
ゲーリントンの姿を見つけ看護師の一人がほっとしたように言った。
教授も急いで準備をしながら、看護師に確認する。
「状況は!」
既に心臓マッサージと助細動装置を交互に繰り返しながら、ケイナ・ドマネスが悲壮な表情で二人を見上げた。
「二十分前に血圧低下、意識混濁。私が駆けつけたときには、心停止状態でした。先ほどいったん持ち直したのですが。」
「僕が。」
シンカが心臓マッサージをする。アイリスの細い小さな体が痛々しい。この作業は力が要るため、ドマネスは疲労の色が濃かった。
教授が投薬の指示をし再び助細動装置を当てて、何とか心音の確認が取れた。
血圧上昇、酸素飽和度も改善された。
ここからが難しいところだ。原因を取り除かねばまたすぐに同じことになる。敗血症からの心臓麻痺のようだ。すぐに輸血がはじめられる。
「教授、それは。」
シンカが気付くと、ゲーリントンは銀色のケースから『c1−yunilla』を取り出すところだった。
「今、使わなくてどうする。」
教授は輸血管に、その透明な液体を数滴注入した。
シンカが止める暇はなかった。
見る見るうちにアイリスの青ざめた頬に赤味が差した。
「血圧上昇、百十の九十六です!」
看護師が声をあげた。
「酸素飽和度六十五、体温が三十九度。」
「ユンイラは、敗血症を起している原因菌を攻撃する。ただし、CD4陽性T細胞数が、100マイクロリットル以上でないと、効果は見られなかったが。」
アイリスのその細胞数はすでに50マイクロリットルをきっていた。末期なのだ。発熱しているということは、ユンイラが働いていることと受け取れる。しかし。
「教授、心拍数が。」
この状態では体力が持たない。
「体温四十一度!」
心拍数、血圧、読み上げる看護師の声が、遠く感じる。
シンカは何もできず、ただ少女の小さな手をにぎっていた。
ユンイラの反応で肌やまぶたは今にも目覚めそうなほど生き生きとして見えた。それが、命の最期の灯火を懸命に燃やしているようで、目をそらしてはいけないとシンカは自分に言い聞かせる。
シンカだけではない、その場の誰もが見守るしかなかった。ユンイラの製剤は使用経験がない。唯一教授だけが何が起こっているのかを理解しているようだ。教授の指示がないと、誰も何もできない。
計器を読み上げる看護師以外、もてあました医師たちはただ教授の指示を待っていた。これでは……まるで実験。
シンカはアイリスの白い顔を見つめていた。
「アイリス、アイリス。」
声をかける。
かすかに、まぶたが揺れる。小さな瞳がうっすらとシンカのほうを見つめたようだった。
心停止の警報が響いていた。
誰かに肩をたたかれ、シンカは我に返った。
「お前が宣言しろ。」
ゲーリントン教授だった。
シンカはアイリスの瞳孔と頚動脈を確認して、宣言した。
「午前二時二分。死亡を確認しました。」
同時に看護師たちが何事もなかったかのように片付けはじめる。いや、先ほどまでの必死な思いを職務という殻に少しずつしまいこむ。看護師たちにとって片付けるということはそういう意味を持つ儀式のようだった。
カルテにサインを求められ、ぼんやりしたままシンカは記入する。
研究生なのでそのサインの下に、教授も一筆添えた。
「ルー、解剖の許可をお前もらって来い。」
「!」
シンカはゲーリントンを見上げた。
今、幼い我が子をなくしたばかりの若い母親に、その同意を求めなくてはならない。つらい役目だ。ちらちらと様子を伺う周囲の視線を感じる。気遣う気配を感じたが、「はい」とシンカは黒い瞳を真っ直ぐ教授に向け、強い意思をうかがわせる表情でうなずいた。
教授は少し期待はずれだったようで、驚いたように青年を見つめた。ゲーリントンはわざとつらい役目をシンカに言い渡したのだ。
ゲーリントンはシンカが泣くのではないかと思っていた。もっと、取り乱すのではないかと。初めて入れ込んだ患者が亡くなった時はどんな研究生も取り乱す。特に、この病院は患者との交流に力を入れているため、その光景は目にする機会が多い。
しかし、シンカは今まで彼が見てきた誰よりもしっかりと彼の目を見つめ返した。
シンカは治療室の前に立ち尽くしていた母親に声をかけた。
すでに目を赤くしている母親。痩せた肩がかすかに震える。
「力が、及びませんでした。すみません。」
シンカは深く頭を下げた。
母親は静かに泣き崩れた。その手には、あのくまのぬいぐるみがあった。
シンカは同じように床に膝をつき、母親の肩にそっと手を当てて支えた。零れ落ちる涙が支える手にポツとあたる。
母親が涙を浮かべたまま、シンカに言った。
「ありがとうございました。」
シンカは手にしていた書類を、そっと、母親の前に差し出した。
「これは……」
一つ大きく息を吸って、シンカは説明する。
研究のために、アイリスの解剖を承諾して欲しい、と。
母親の目が大きく開かれる。
「あの子は、……あの子はあなたのことが大好きでした。」
「すみません。こんな、お願いを、して。」
「謝らないでください。どんな、別れ方をしても、あなたはあの子に出会ったことを後悔しない、幸せだったと思ってくださっているでしょう?」
「はい。」
見上げるシンカを母親はじっと見つめていた。それから震える手で、書類にサインした。
「あの子が、どれだけ一生懸命病気と闘ったのか、あなたの目で確かめてあげてください。がんばったねって、言ってあげて。」
そこまで言うと母親は泣き崩れた。
シンカは何も言えず、ただ彼女の肩に手を置いていた。
そこに女性の看護師が来て「アイリスに会えますよ。」と告げ、母親を支えながら連れて行った。
見送りながらシンカはそっと涙をふいた。
翌日は一日中免疫治療科で、患者の世話をしたりアイリスの解剖結果をまとめたりして、忙しくすごした。時折アイリスのいた病室の前で、初めて彼女に出会ったときのように振り向く。あの、大きな瞳を思い出す。
立ち尽くすシンカの脇を入院患者の子供たちが走り抜けた。
「!こら!走るなっていっただろ!」
その表情は、あのいつもの人懐こい笑顔になっている。
「うわー、ルー兄ちゃんだ!逃げろ!」
男の子がさらに喜ぶ。
子どもらを見送って、手にしたカルテを看護室に戻そうときびすを返す。一周してきた子供たちがシンカに抱きついた。
「お前たちは!」
笑いながら一人を抱き上げると、いたずら小僧の手を引いて病室へと向かう。
その姿を看護師たちが笑ってみている。看護師たちはシンカの表情が、既にたくさんの患者を見送ってきたベテランの医師のように、命に対するやさしさであふれていることを感じ取っていた。ともすると若い研究生は自分の経験や研究に気を取られがちで、評価されないことはしたがらない。
こんなふうに患者と接することができるのは、稀な素質といっていいのだ。
だから「大学も出ていない田舎もの」のルーは看護師と患者に人気があった。