5.採血、研究、少女 2
翌日、シンカはいつもどおり病院に出勤した。
午前中は、第一診療科での勉強会だ。研究医の発表する症例や手技について、検討して意見を交換するのだ。いずれ、シンカやケイナも壇上で発表しなくてはならない。
ドクター・ローデスが、腫瘍の免疫療法に必要な、樹状細胞培養に必要な技術について、詳細に発表した。
シンカはいくつか質問し、かなり勉強になった。
ケイナも負けずに自分の知識を披露しようとしたが、それは、その場を少ししらけさせた。彼女の論説は正しいのかもしれないが、誰かの論文や教科書から受け売りに近く、実務をこなしている研究医には物足りなかったのだ。
「ファルム、今日の夕方、私の研究室においで。」
勉強会を終えて病室に戻ろうとするシンカに、ゲーリントンが声をかけた。
ケイナの嫉妬の視線を受けながらシンカはうなずいた。
「教授に気に入られているのね。」
ケイナは研修医の部屋でコーヒーを飲むシンカに、声をかけてきた。
「そうでもないよ。」短く答えて、また手元のスクリーンに視線を戻した。シンカはアイリスの病状について医学書で調べていたのだ。
「あの女の子のこと、調べてるの?」
「ああ。好中球数が100マイクロリットルを切っているんだ。ドクター・ローデスに課題を出されていて。」
「ふうん。私は昨日の勤務で脳腫瘍患者の樹状細胞療法をさせてもらったのよ。」
「そう。がんばってるね。」
自慢げに話すケイナに笑いかけて、再びコーヒーを口元に運ぶ。
アイリスの容態はよくなかった。敗血症が始まっていて、昨日から集中治療室だという。今はこの状態の彼女を救う手立ては確立されていない。
可能性のあるいくつかの方法があるが、幼い彼女のウィルスは変異を早め、つまり、急速に悪化している。
シンカはゲーリントン教授が発表した、ユンイラの成分を使用した臨床実験の報告を読んでいた。ユンイラの成分、ユンイラ因子と呼ばれるそれが、ウィルス性の免疫不全に効果があるという研究結果だ。
だが、今はまだユンイラ因子は手に入らない。それは、ユンイラ自体を栽培できていないからだ。
シンカが皇帝になった年、レクトがユンイラ栽培所のすべてを破壊した。それは、理由あってのことだったが、やはり残念な気はする。今や惑星リュード内でも、ほとんど栽培不可能なほど、野生のユンイラも減ってしまっている。
研究用にどうやって入手しているのか不思議なくらいだ。
だからこそ、ゲーリントンは、シンカの体内のユンイラを欲しがるのだろう。
それはシンカが生きている限り、体内で作られつづける。
しかも、植物由来のものより人体への副作用がないのだそうだ。
白血球内にあるそれは、今はミンクのためだけに経口投与できるよう精製されている。それはアイリスには役に立たないのだろうか。十分な臨床試験を経ていないため、もちろん、使用できる可能性は低い。だからまず、アイリスの体内のウィルスを培養し、そこに投与して確認したかった。培養ははじめたばかりで、まだ結果が出ない。
「大丈夫ですか。」
アイリスの母親は憔悴した様子で、集中治療室の家族用の控え室で座っていた。
「やはり、だめなんでしょうか。私が、感染したためにあの子がこんな、ひどい目にあうなんて」
アイリスは、母親の胎内にいる間に感染したのだ。母親はまだ発病していない。
「すみません。僕も経験が浅くて、こんなとき何て言って慰めていいのか分かりません。でも、アイリスはお母さんのこと大好きだっていつも言っていました。」
まだ、若いアイリスの母親は、研究生の青年を見つめた。やさしげな青年はアイリスが「くまのお兄ちゃん」と呼んで懐いていた。
「できるだけのことは、させてもらいます。」
「お願いします。あの子、あなたのこととても気に入っていて、だから、最期まで看取っていただけますか。」
「はい。」
シンカの黒い瞳が、哀しげに微笑んだ。
セトアイラスの薄緑の空が黄色く夕日に染まるのを見ながら、シンカはゲーリントンのユンイラ研究所にきていた。研究室まで行くと、一緒に来るように指示されたのだ。
ゲーリントンの車に乗るのは少しためらわれたが、「怖いのか」と馬鹿にしたように笑われれば我慢するしかない。
研究所はセトアイラス市の中心からシンカたちのいる公邸とは反対側の郊外にあり、リドラ星基準のコロニー内に作られていた。ゲーリントン自身がリドラ星人でもあるし、リドラ星の大気組成はユンイラ発生地である惑星リュードに似ていた。研究所には丁度いいのだろう。
惑星リドラはかつて太陽帝国が滅ぼしてしまった惑星だった。そのために特殊な大気組成で生きているリドラ人は移民となり、各惑星に設置されたリドラ人のためのコロニーに住んでいる。
それ以外の場所では小型のマスクを装着し、彼らの肺を地球基準の標準大気から守っているのだ。
研究所は広い敷地内に四角い建物を三棟持ち、規模の大きなものだった。そのうち一棟はユンイラ栽培のための施設のようだ。
実質的な研究や検査・試験が行われるのは真中の一棟で、シンカはそこに連れて行かれた。
今は医療器具の並ぶ試験室の人一人が寝られる大きさの実験台に、座っていた。
窓からの夕日は特殊ガラスで遮られているがかすかに赤みが強くなっているのを思わせた。
ゲーリントンが助手たちに見せるためにカラーレンズを外させたため、今シンカの瞳は特殊な蒼をたたえている。
昨日の怪我の様子を見るためだろう、体温を測ったり血圧を測ったりして、簡単な診察を受けた。
「さて、シンカ。申し訳ないが、採血させてもらうよ。」
「はい。」
褐色の肌のゲーリントンが採血管に針を取り付け、シンカの腕に注射し固定した。採血管はそのまま機械に繋がれ、静かにゆっくりとその機械は動いている。血液が、管を通って流れていく。
座ったまま、シンカはそれを見つめていた。
シンカの血液は人間のそれとは違うため、特別な処理を施しているという。
機嫌のよい時のゲーリントンはひどくまともな人間に見える。昨日の奇行が嘘のようだ。シンカはしっかり読み込んだ彼の研究論文を思い出した。
「アイリスに僕の血液製剤は、使えると思いますか?」
シンカは、思い切って聞いてみた。天才と呼ばれる教授の論文については、シンカも認めるところがあった。性格に難点はあるが研究者としては一流だ。
「製剤を作っているのか?それは初めて聞いたよ。」
「デイラの、住民のために、少しだけ作らせているから。」
「アイリスはもう末期だろう。今から使用して、体力が持つかどうか。実際に、植物由来のものでは、好中球が三百以下では、効果はなかった。君のユンイラ因子は好酸球にあるから、上手く輸血できれば違うかもしれない。だが、はじめての試験になる。結果は保証できない。」
「やはり、だめですか。」
真剣に見つめるシンカ。ゲーリントンは、細い眉をピクリとさせ、笑った。
「私としては興味はあるね。やってみなさい。製剤はすぐにでも作ろう。」
「はい。」
「少し、採血が多くなるが、かまわないかな?」
「はい。」
促されてシンカは診察台に横たわった。
どれくらい抜かれているのか分からなかったが、少しだるくなってきていた。昨日の怪我で出血していたからか。
機械の規則正しい動きを見つめているうちに、シンカは眠ってしまった。