5.採血、研究、少女
午後、約束の時間を二時間過ぎてシンカは公邸に帰ってきた。
出迎えたユージンは哀しいほど慌てていて、シンカを送ってきたゲーリントン教授を睨みつけたほどだ。
リドラ人の若い教授は神経質そうな細い眉をピクリとさせながら、美しい秘書官の視線を受け止めた。
「初めまして。ゲーリントンです。確か、ユージン・ロートシルトさんでしたね。」
「あの。」
問いたげに見つめる秘書官に、低い弱々しい声でシンカは答えた。
「ごめん、ユージン。もう、ばれてるから、気にしなくていいよ。」
投げやりに答えて、シンカは執務室に入っていく。教授に挨拶もない。
「すみません。車に酔ってしまったようで。」
ユージンの表情を読み取ったのか、教授はにっこりと笑った。
ユージンは睨み返す。シンカの様子から、何かあったと直感を働かせているのだ。ゲーリントン教授のなれなれしい様子に比べて、シンカの疲れたような態度がそれを物語っていた。車に酔ったくらいであんな態度をとる陛下ではない。服装も、出かけていったときと違う。
ゲーリントンに「ありがとうございました」と儀礼的な挨拶をし、早々にエントランスへと追いやると、ユージンは慌てて執務室に駆け込んだ。
あのシンカの様子は普通ではなかった。
「陛下!」
シンカはソファーに横たわっていた。
疲れたようにぐったりしていて、秘書官の呼びかけにも反応が鈍い。
「陛下、会議は延期いたしますか?ドクターを呼びましょうか?」
いつもあんなに憎らしいのに、こんな時はやさしいんだ。
シンカは哀しくなった。
けだるい体がどうにも動かない。
まさか、こんなところでデイラの研究員に会ってしまうとは。
ゲーリントンはマリアンヌのことでシキを騙している。
シキは俺の体内のユンイラが治療に必要だと聞かされた。だから俺に健診の結果を言わなかった。俺のことを気遣って。
……シキは、本当はどう思ったんだろう。俺がゲーリントンに協力することを望んでいるのだろうか。俺自身の研究をしてほしいと。
吐き気がした。
「陛下?」
ユージンが肩を揺すった。その振動すらめまいを誘う気がして、シンカは眉を寄せる。
「気分が、悪いんだ……」
「!?陛下?あの、陛下!?」
ぐったりとしたままシンカは動かない。
手を握り締めてもそれは力なく重い。ひどく熱い。
そのまま意識を失ってしまった皇帝に、ユージンは慌てた。
「陛下、しっかりしてください、陛下!」
「失礼。私も一応ドクターなのでね。任せてください。」
ユージンが立ち上がったところで、背後に先ほどの教授が立っていることに気付いた。いつの間に入り込んだのか。エントランスで帰したつもりだった。つい、声が荒くなる。
「!許可もなく、入らないでください!だれか!」
ユージンはシンカに近寄ろうとするゲーリントンの前に、立ちはだかった。
「ドクターなら、専属のものがおります。お気持ちは嬉しいのですが、どうぞお帰りください。」
「しかし、大丈夫ですか?その様子ではかなりつらそうですが。」
「あなたの運転が、荒かったからでしょう?」
そう睨みつけたユージンの表情は、鬼気迫るものがあった。
「ほう」と小さく声を上げ、むしろ嬉しそうに笑うとゲーリントン教授は秘書官を見つめた。
「そんなに睨まないでください。では、私は帰ります。何かあったら、こちらにおりますので、連絡してください。」
ゲーリントンは、テーブルに名刺を置いた。
「ユンイラの免疫症研究所の所長をしておりましてね。彼の治療に関しても、宇宙一と自負しておりますのでね。」
神経質に口元をゆがめる笑みを浮かべ、ゲーリントンは秘書官が呼んだ警備員に追われるように出て行った。
ほっと緊張をほぐした秘書官に「大丈夫ですか?」と警備員の一人が声をかける。
ユージンは気丈にいつもの完璧な笑みを見せた。
「ええ。大丈夫よ。陛下は車に酔ってらっしゃるの。ありがとう。」
「また、何かありましたらお呼びください。」
ミストレイアで雇った彼らは丁寧にお辞儀して持ち場に戻った。この場限りの仮の警備員。こんなことなら親衛隊をそばに置けばよかったとユージンは後悔していたが。彼らなら帝国の権限の元シンカを保護してくれる。
だが、シンカが堅苦しい彼らを嫌がったからこうなっている。余計に、シンカはことを大きくしたくないだろう。無理をするかもしれない。今回の研修旅行が多くの反対を押し切って実行したものだからこそ、旅先での失態はシンカの権威を傷つけることになる。ユージンも慎重にならざるを得ない。
「ごめん。ユージン。」
「陛下!お目覚めですか!」
秘書官が駆け寄ると、シンカは笑って見せた。
大きな革張りのソファーで、若い皇帝は金髪の前髪が頬にかかるのを気にもせずに、ぐったりとしている。熱があるのか、すこし頬が火照っている。
「うかつだったよ。会議まで後何分ある?」
「三十分ほどです。ですが、陛下。」
「資料を。時間がない。会議の後、話すから。今日は大臣たち皆に揃ってもらっている。忙しい彼らが集まってくれるんだ、延期はできない。大丈夫、時間までには座っているくらいはできるようになるよ。」
横たわったままユージンの差し出した端末で資料を確認する。その蒼い瞳を見つめながら、ユージンは考えていた。
シンカは仕事に対して強い責任感を抱いている。だから、ユージンが上手く手を抜けるように仕向けていた。そうしなければ、シンカは無理をしてしまう性格なのだ。
ユージンは自分でなくては、シンカの健康を維持できないと思い込んでいた。
本来なら、こんな状態の陛下を会議に出席させるなど許すユージンではないが、この会議は今年の秋に予定される惑星保護同盟の会議のための事前協議だ。
重要な会議。本会議の前に太陽帝国としての議題を策定したり、他惑星からの提出議題の調査、回答を準備したりと、大臣クラスで調整しておかなくてはならないことがたくさんある。年間の予定の中で最も重要な会議の一つになる。仕方ないのだ。
美しい秘書官は、仕事に集中する皇帝の額にそっと手を置いて、愛しそうに見つめていた。シンカは黙って、されるままに任せている。
滞りなくネットワーク上の会議を済ませると、シンカは秘書官に夕食の手配を頼んだ。まだ少し調子が悪そうだ。
「シャワー浴びてから、もらうから。」
そう言って、シンカはバスルームに入ろうとする。自分の体の様子を確認したかった。時間がたっているため、既に傷はないだろうが。内臓に負った怪我を、触診で確認しておきたい。
「陛下、なにがあったのか、教えてはいただけませんか?ドクターは呼ばなくてよろしいのですか?」
「ユージン。」
「教えていただけないのでしたら、あのエドアス・ゲーリントン教授に、お聞きしますが。」
ユージンは、教授の置いていった小さな名刺を示して見せた。
「私の記憶では、彼は、惑星リュードにおられましたね。そのことで何か、あったのですか。」
「!」
そうだった、ユージンはシンカについて調べ尽くしているのだ。レクトが、尋常でないといっていた。そうか、俺の知らないことも、知っているんだ。
シンカは再びリビングのソファーに戻り、ユージンに隣に座るよう促した。
「ユージン、俺は、ゲーリントンがリュードにいたことを知らなかったんだ。あいつについて、知っていることがあったら教えて欲しい。」
「はい。」
秘書官は嬉しそうだ。
「陛下、惑星リュードのデイラ研究所で勤務した研究員は、陛下が生まれてから十七年間で総勢二十名おりました。ゲーリントン教授は、軍務官が当時のリュードを含む星域の大佐として就任していた時期に、配属されました。二人は、同じリドラ人でしたが、どうも仲がよくなかったようです。ゲーリントン教授は、強引な性格で、研究所では主任研究員でしたが、積極的に陛下を研究しようとして、周りの抵抗にあったようです。当時は、陛下を生み出した研究自体が倫理的に問題視されていましたので、踏み入った研究は控えられていたのです。」
「そう。」
首を傾げて、じっと見つめる皇帝に、ユージンは不思議そうに笑みを返す。
「覚えていらっしゃらないのですね。」
「ああ。だいたい、俺は十七まで、研究所があることすら知らなかったから。」
「そうでしたか。ゲーリントン教授は、そこで、何か事件を起したようです。詳しくは、分かりませんでした。ただ、それが原因で、左遷のような形でセトアイラスに戻ったのです。」
「研究員は、俺が皇帝になったときに緘口令が敷かれたって聞いたんだけど。」
「はい。でも、陛下。実際は、ゲーリントン教授以外は、全員、亡くなっております。」
「!なんで?」
そんなはずはない、シンカは地球の帝国研究所で彼らに会っている。シンカに医学を教えたのも彼らだ。
ユージンは続ける。
「陛下。ゲーリントン教授は、カストロワ大公のいわゆるコレクションの一人ですから、処分できなかったのだと思います。」
「処分・・。」
帝国の情報部が動いたのか。表向きは、死んだことになっているのか。レクトは、なにも言っていなかった。
「軍務官が、陛下にお話なさらないのは、陛下がご存じないほうがよいと、判断なされたからです。」
「分かってる。ゲーリントンはそのこと、知っているのかな。」
「ご存知ないと思いますよ。彼は、デイラの研究所では孤立していましたので、セトアイラスに戻ってからも、当時の同僚と連絡をとっているとは思えません。」
「・・・そうか。」
「陛下?彼が、何をしたのですか。」
「・・俺を研究材料にしたいそうだ。協力しないと、今回の研修、単位を出さないって。担当教授なんだ。」
ユージンは、ため息をつくシンカの肩に、そっと手を添える。
「教授の、申し出に承諾なさったのですか?」
「……ああ。轢かれるなんて思わなかったから。気が動転していたんだ、多分。採血程度だって、言ってたし。様子を見てから対処法を考えてもよかった。下手に抵抗なんかするんじゃなかったよ。そしたら、こんな怪我しなくてすんだ。俺も、自分の子供の頃を知られてるって分かって、慌ててしまった。馬鹿だな。」
「陛下!車で、ですか!?」
真剣な表情の秘書官に肩をゆすられ、シンカは顔をゆがめた。
「痛いよ。俺も、どこがどうなってるか分からないんだ。多分、打撲とか、そんなだと思うんだけど。」
ユージンがそっと、抱きしめた。
「なんてことを。陛下、どうかドクターを呼ぶことを許してください。」
「無駄だからいいんだよ。もう傷はふさがっているし、もともと俺には治療なんかできない。痛み止めすら使えないんだ。丈夫な体質ってのも不便なんだな。」
前髪をかきあげ、青年は少し笑った。
秘書官が涙をふいた。
「私は、何もできないのですね。」
その長いまつげに、涙をためる姿は、ひどく美しかった。心配してくれる、その気持ちはうれしかった。
「俺のこと、知っててくれて助かったよ。ありがとう。」
微笑むシンカの蒼い瞳を真っ直ぐ見つめ、ユージンはそっと口づける。
皇帝は拒まなかった。熱のある体に、ユージンの唇が心地よかった。
ユージンの白い手がシンカの頬を包んだ。
若き皇帝の甘い香りが心を満たす。この上なく幸せな気分になる。