1.散歩
この作品は「蒼い星」の続編です。単体でも楽しめますが、人物の過去など影響してきますので、「蒼い星」から読まれることを推奨します。
1.散歩
まだ、肌寒い早朝の風に吹かれて、青年の髪が揺れる。
並木の小さな新芽がまだ白い空にかすかに色を添える。巨大なビルが林立するこの地球一の大都市。灰色の町並みが続く。その中にひときわ黒々とそびえる中央政府ビルの正面にある、枯れた芝が敷き詰められた公園をシンカは歩いていた。傍らに美しい年上の女性と愛犬のニキを伴っている。
早朝のためか空を走る自家用飛行艇はまばらで、その陰が時折二人の上を流れる。日差しは白く二人を照らし、シンカの白い肌がますます透き通る。
蒼い大きな瞳が微笑むと、愛嬌のある美しい表情になる。
彼の傍らを供に歩けることにユージンは喜びを覚えていた。太陽帝国皇帝付主任秘書官である彼女は傍らの若き皇帝に特別な感情を抱いていた。
決して実ることはないだろうその想いを抱えつつも、ユージン・ロートシルトは自分の立場を幸せに感じる。
シンカは政府庁舎内の女性、特に秘書官たちには距離を置いていた。それはユージンも同様であり、彼女の密かな悩みでもあったが、今ここにこうしていることは多少なりとも距離が近づいたと感じられる。白い息を吐く秘書官は頬を上気させ皇帝とその飼い犬について歩く。
運動不足に悩む彼女に「じゃあ、一緒に散歩でもするか?」と言ったのはシンカからだった。
本来の犬の飼い主、シンカの幼馴染で恋人のミンクは大学生になってはじめての試験を控え、忙しくなり散歩ができなくなったのだ。代行するシンカは予想以上にその散歩が楽しいらしく、身分を伏せる軽い変装もやめ、時折スクープされることも厭わなかった。遠巻きに親衛隊が目を光らせているものの何かあるまでは半径五メートル以内に近づかないことを約束させていた。
早朝に公園を散歩する人々は彼の正体を知っても、毎日顔を合わせるうちに仲間のような意識が芽生えるのか、特別扱いしない。そこがまた、シンカにとっては面白い発見だった。
「おはようございます!」
向こうから走ってきた、若い女性が、軽く手を振りながら、すれ違う。
「おはよう!」
にっこり笑い返すシンカ。
ユージンはジョギング中の女性を振り返りながら、少し息を弾ませた。
「ユージン、疲れたのか?」
「いえ、そんなことは、ないのですが。」
隠そうとして慌てて平気な振りをする秘書にシンカは笑った。
「いつもスーツ姿だから不思議だな。髪を下ろしているのも似合うよ。」
「陛下。」
少し照れる。
「若く見える。」
「あら、失礼ですわ!」
つんと怒る女性にシンカはいたずらっぽい視線を投げかける。確かに、十九歳のシンカから比べれば二十七歳のユージンはかなり年上だろうが、その年齢で主任秘書官を務めているという事実は世の女性からすれば十分な成功談になる。美しい皇帝付き秘書官は憧れのセレブリティーとして有名なのだ。
「でも、俺はそのほうが好きだな。レクトが見たら喜びそうだな。レクトが嘆いてたぞ、いつも完璧でつまらないって。」とシンカはついでにレクトのスポーツウェア姿を想像し、変な顔になる。
「では、こんな姿、軍務官にはお見せできませんね。」
「どうして?」
「陛下にだけ、特別です。」
軽くウインクするユージンの視線にシンカは少し戸惑う。
「陛下、軍務官は陛下と同じくらい女性たちの憧れなのです。軍務官ご自身もそれをご存知で、よく秘書官たちをからかいます。ですが陛下は、そのようなことはなさいません。秘書官を大切にしてくださいます。彼女たちにしてみれば、軍務官のようにからかって親しく接してくださることがうれしいことなのでしょうけど、一歩距離をおいて接してくださる陛下の方が、私には思いやりがあるように思えます。」
実際、ユージンは軍務官と関係を持った秘書官を何人も知っている。知名度や容姿、あの態度で迫られれば嫌といえる女性のほうが少ないだろう。たとえ同意の上、大人の付き合いだと割り切っても結局後悔するのは女性のほうなのだ。軍務官はずるいと思う。
「不器用なだけだよ。」
シンカは笑った。シンカにはミンクと言う、ただ一人と決めた女性がいる。
「それでも陛下は、私にこうして接してくださっている。とても、嬉しく思っております。」
秘書官の視線をさけて、シンカは萌えはじめている木々を見上げる。
それは、彼女が単純に喜ぶような理由ではなかった。
先日、軍務官であるレクトがシンカに会いに来た。軍務官とは太陽帝国軍と情報部を掌握する大臣であり、また、彼はシンカの遺伝子上の父親でもある。
レクトの報告では、ユージンが密かにシンカの身辺の情報を集め、大臣の一人に取り入り、行過ぎた行動をとっているというのだ。昨秋の仏心街での事件の時に、彼女が誰も知るはずのないシンカの居場所を知りえたのもそのためだったらしい。
情報部にもその動きは察知されていて、ユージンがもし太陽帝国に、皇帝に悪影響の出る行動を起こした場合には即逮捕できるだけの証拠をそろえているというのだ。
レクトは言った。
「これが、ただ単にシンカ。お前のことを思うあまりの行動だとしたら、常軌を逸しているとしか思えん。」と。
具体的には教えてもらえなかったのだが、既にシンカはもちろんレクトの出生から、ミンクの生い立ちまで調べつくされているという。それはまだ何の影響もないが、彼女がもし情報を他に漏らしたり利用しようとすれば、多大な影響が及ぶだろうという。
時折、彼女の完璧な美しい笑みに圧倒される何かを感じたのはそのためだろうか。どちらにしろ最近の彼女の行動は秘書官という立場で正当化されているものの、そうでなければストーキングと言っていいほどだった。
シンカがなるべく個人的な話をしないでいたのもそのためだ。
しかし、ユージンは関係なく立ち入ってくる。いつだったか、シンカはユージンが自らの感情のために皇帝のスケジュールを操作していると感じたことがあった。
「ミンク様のご学友を、ご招待されることはかまいませんが、陛下。ただでさえお忙しいのですから、あまりご無理をなさらないように。」
「大丈夫だよ。俺は時間が合えば、彼らと話すけど、そうでなければ挨拶程度だからさ。」
「はい。」
そういって笑っていたけれど、ミンクが友達を呼ぶといった日には、しっかり重要な会合を設定されていた。補佐官たちの都合の結果だというが、シンカがミンクをなだめるのにどれだけ大変だったか。
プライベートな時間と皇帝としての時間の区別を自分でしたいと考えているのだが、しばしばそれは有能すぎる秘書官に阻まれてしまう。
特に最近、その傾向は強い。シンカが息苦しく感じるほどに。
シンカはそのことをユージンと話さなくてはならないと考えていた。
だから、散歩に誘ったのだ。
「陛下、陛下はいつか、ミンクさまとご結婚なさるのでしょうか?」
不意の質問にシンカは傍らの犬、ニキを蹴りそうになる。ユージンとシンカは同じくらいの身長で、間にニキがいる。二人をかわるがわる見上げながら、きちんと歩調を合わせている。賢い犬だ。
「え、それはまだ、考えたことなかったけど……」
「そうですか。そうですね、まだ、お若いですものね。」
納得したように頷く秘書官を見つめる。
「だけど、ユージン。俺は、一人の女性に尽くすタイプだからね。多分、一生ミンクだけだ。」
「……ですが陛下、陛下は軍務官の血を引いておられます。一人だけでは、満足なさらないはずです。」
不意にシンカは立ち止まった。
レクトが遺伝子上のシンカの父親であることは伏せられている。知っているものも大臣以上の数人のみだ。秘書官が知っていていいことではなかった。
シンカの視線に気付き、慌てて言葉を付け足そうとする。
「私は、陛下はもっと……。」
「ユージン。」
シンカの表情は厳しい。時折会議場などで見せるシンカの強い表情は、見るものを黙らせる迫力がある。それこそ軍務官ゆずりなのだが、本人は気付いていない。
「立ち入りすぎだ。」
「……失礼しました。」
気まずい空気にニキがクンと鳴いた。再び黙ってシンカは歩き出した。一歩遅れて、ユージンもついていく。その瞳は、じっと皇帝陛下の後姿を見詰めている。
「ユージン、俺のために気も時間も使いすぎなんだ。もっと、自分のために時間を使うべきだよ。週末もほとんど出勤してるだろう。俺が遊んでるのに、あなたが仕事ばかりしていると、なんだか落ち着かないよ。」
「陛下がお気になさることではありません。」
「いや、だから、もっと、普通に友達と遊んだり、恋人と会ったり、家族で過ごしたりしないと。」
「普通でなくてもかまいませんもの。私も、陛下と同じで心に決めた一人の方を想い続けます。」
視線を足元に落とし、微笑む彼女は自虐とも取れる小さなため息をついている。シンカは前を向いたまま立ち止まり、ぎゅっと目をつぶった。
「私の愛しい方は、決して私と結婚できませんの。」
若い皇帝は振り向いて亜麻色の女性を見つめる。その想いが自分に向けられていることを、青年は気付いている。気付いてはいるが。
「ユージン。」
「陛下、そんな哀しそうに見ないでください。」
美しく微笑む。
「だけど」
シンカは足元の犬に視線を逃がす。
「陛下。太陽帝国を治める皇帝ともあろう方が、一人の女の想いなど、気になさっていてはいけませんよ。陛下、陛下に恋する女性がこの銀河にどれだけいることか。それこそ、星の数ほど、ですよ。」
それは告白に、聞こえる。
シンカは拳を握り締める。
シンカの気持ちが分かるのか、犬がそっとなめる。
「ユージン。俺は、あなたには幸せでいて欲しい。あなたが、苦しんでいるのを間近で見るのはつらいんだ。」
その蒼い瞳は、まっすぐにユージンを見つめた。
寒さが和らいだ朝の風はかすかに前髪を揺らす。
「俺が即位したときには秘書官はいなかった。アシラに頼まれて秘書官を置いたけど、変わらないと思うんだ。以前のように俺のスケジュールは自分で管理するよ。秘書官を五人も抱える必要はないんだ。皇帝付の秘書官全員を解任するつもりだ。ユージン、あなたも。」
ユージンの細い腕が、シンカの両腕にかかる。その瞳の驚愕と涙が、あふれてこぼれる。
「ごめん。」
「いやです、陛下。私を、どうか、おそばに置いてください!どうか!」
抱きしめられ、シンカはよろける。ふわりと甘い香りがする。
ニキがシンカの後ろに回って見上げている。
「ユージン、あなたが、皇帝付きの秘書官でなくても、大切な友人であることに変わりはないんだ。」
「いやです。陛下。私は、おそばに、いつも、……。」
シンカはそっと、泣いているユージンの肩に手を回した。柔らかな亜麻色の髪が触れる。
「正式には、後日、辞令がおりると思うから。」
ずっと、考えていたことだった。見返りを求めない女性に、どういったら離れてもらえるのか。嫌いだといっても、会いたくないといっても、彼女がこの職にある限り、状況は変わらないのだ。
「いやです。」
強く、はっきりとそう口にすると、ユージンは顔を上げた。
その思いつめた表情は、シンカをぞくりとさせた。
「陛下、出勤の時間ですので。」
硬い表情で、そう言ってユージンは、政府ビルの方向に早足で歩き始めた。
「ユージン!」
シンカの声にも、振り返らなかった。
くうん。
ニキのなぐさめるような鳴き声に、シンカは泣きたい気分になった。しゃがんで、犬を抱きしめる。