『こどもの日』と羊達
いつもと変わらぬ早池峰家の朝の事だった。
突然菊塵の携帯に着信が入る。
「哭士からですね。どうしたんでしょう」
朝食の準備を手伝っていた色把と、前日に泊まり朝食が始まるのを今か今かと待っていたユーリが不思議そうな顔で菊塵を見つめる。
哭士は菊塵達と同じように屋敷内にいるはずである。
「どうした? ん? 哭士、声が変じゃないか?」
電話に出た菊塵が妙な声をあげる。
「どうしたんだ?」
ユーリも首を捻る。
「さあ……。昨日は風邪っぽいと言っていたんですが……。部屋にいるそうなのでちょっと行ってきます」
と、気配が遠ざかっていったのもつかの間、菊塵が早足で戻ってくる。
「あれ、キク?」
ユーリの問いに、菊塵は小刻みに首を振る。
「大丈夫です。大丈夫ですので、二人はここに居てください」
言うも早く、菊塵は足早に部屋を出て行った。
「おーい、キク? どうしたんかね。ちょっくら様子、見に行こうぜ」
色把も賛成だった。頷き、ユーリの後に続いた。
廊下を進み、哭士の部屋の前に到達する。
「早池峰ー? どうしたー? 風邪かー?」
返答が無い。ユーリは襖を一気に開け放った。
「……あれ? 早池峰?」
部屋の中心の布団が盛り上がっている。ユーリはそっと布団まで近づく。
「なあ、そんなに具合わるいのか?」
布団の端をめくりあげるユーリ。
「……ん?」
妙な声をあげ、数秒の空白の後、ユーリは我に返った。
「ちょっ、ちょっとお前、出てこい」
そのまま布団の中に手を突っ込む。が、中にいるであろう哭士も何故か抵抗している。
「痛っ! てめっ! おとなしくしろ!」
ようやく布団から引きずり出され、姿を表した。だが。
「……何でこんな所に子供が……」
抱えられていたのは、五歳位の子供だった。
布団から出された後はユーリの腕の中で声も上げず、不機嫌そうに色把を見つめている。
不思議なことに纏っている衣服は大きく、布に包まっているようになってしまっている。
「お前、こんなとこで何してたんだ? しかもこれ、早池峰の服じゃん」
「……」
子供は答えない。眉間に皺を寄せている様や、髪型、顔つきも哭士にそっくりだ。
『どうしたんでしょう。親戚のお子さんでしょうか』
色把はいつものように、口だけを動かしユーリに伝える。
「……違う、俺だ」
「ん?」
腕の中の子供が色把の言葉へ反応する事に違和感を覚えたその時、慌てて通り過ぎていった菊塵が戻ってきた。
「……見つけちゃったんですか」
「何? 何? 早池峰の隠し子とか!?」
「その子……、哭士なんです」
「は?」
「……朝起きたら、こうなっていた」
姿を晒すのも嫌らしい。哭士は視線を外しながら小さく呟いた。
ゲラゲラとユーリの笑い声が響く。
「マジウケる! マジウケる! あの早池峰がちっちゃい!!」
「だまれ」
普段なら迫力のある表情も、子供とあっては形無しだ。ユーリの笑い声を大きくするものになり、哭士の機嫌がさらに悪くなる。
ゲラゲラ笑うユーリに、こうなる事を予期して菊塵だけを呼んだのであろうが、哭士にとって最悪の人物に見つかってしまったのだ。
「中身は一七歳のままのようですね」
「……そのようだ。記憶は昨晩のものまで間違いなくある」
長すぎる袖を小さな手で苦戦しながら折り上げている哭士が答える。色把は哭士の腕まくりを手伝いながら口を開いた。
『何か心当たりは無いんですか?』
色把を見上げ、考えを巡らせている。
「そういえば昨日、風邪薬を……」
「おっじゃましますよ~」
その場の空気が一瞬固まった。
そして、菊塵はその声の主を判別するや『なるほど』という表情と共に大きくため息を吐き出した。
「こんにちは~。あらら? 哭士くんはどこかな? 昨日の治療の経過を見に来たんだけど」
哭士の言いかけた言葉から犯人はすでに判明した。
よくもまあ、ここまで知らぬふりを出来るとユーリは半ば感心した。
身の危険を感じ、哭士はすでに部屋から消えていた。
しかし、桐生は早かった。
「みーっけ」
「!!」
隣の部屋の押入れを迷いなく開き、哭士を引っ張り出す。
「わあ、随分とまあ可愛くなっちゃったねえ! どれどれ、ちょっと見せてねぇ。
何処か痛い所や違和感のある所は? お名前言えるかな?」
「はっ……離せ!」
狗鬼の力も弱くなっているらしい。桐生の手の力がわずかに勝り、哭士が逃れようと暴れている。
「やぶ医者、てめぇ……! 早く元にもどせ!」
桐生から逃げる事を諦め、哭士は桐生にくるりと向き直り吠えるように訴えた。
「うんうん、記憶はあり、と。あとね、服脱いで貰える?」
「話をきけ! 昨日、飲まされた風邪薬が原因だろう! 解毒薬はどこだ」
そのまま桐生に掴みかかる哭士。
「うふふ、そんなの無いよー」
「……!」
「お試しで作ったんだからあるわけないじゃなーい。でも若返って一八歳までの時間が延びたってことじゃない。すっごく可愛いし僕、こっちの方がいいと思うなあ」
「ふっ……ざけるな!」
「わぁ痛い」
振りかざした哭士の手は桐生の頬に当たるが、桐生は本気では痛がっていない。
「哭士……落ち着け」
桐生の腕から哭士を引き離す菊塵。
「おちついていられるか! こんな……!」
『あの……!』
色把が小さく手をあげる。この事態になにかしらの解決策を見いだしたのかと全員の視線が集まる。
『……私も抱っこ、したいです』
桐生を除く全員の力が抜けた。
兎にも角にも、興奮状態の哭士を落ち着かせるべく桐生には診療所へ戻ってもらった。
色把は哭士を抱き上げようとして拒否され落ち込んでいる。
「しかし困りましたね……その身体では色把さんの護衛も出来なさそうですし」
色把のお腹のあたりより少し下くらい。がっしりとした一七歳の時とは明らかに違う。
「影鬼くらい、これでも何とかなる」
「そぉかぁ? 桐生にすら力負けしてたように見えっけど」
茶化す金髪頭を睨むが相変わらず迫力は無い。
「能力は出せますか?」
「おそらく」
力を込める哭士。だが、目の前にパラパラと落ちたのは1、2センチほどの氷の粒だけだった。
「……!」
肩を震わせながら笑いをこらえるユーリ。
「……護衛は哭士が戻るまで僕が引き受けます」
「……クソ……あの医者……!」
「とにかく、桐生のセンセーにみてもらった方がいいんでないの? 追い返しちゃったけどさ」
ユーリは卓に頬杖をつきながら口を開く。完全に他人事である。
「絶対に嫌だ。何をされるかわからん」
抵抗も碌にできない状態で桐生の元へ赴くなど自殺行為だ。
「じゃあそのちっこいままでいいのか? まぁ俺は面白いからいいけど」
「ぐっ……」
言い淀む哭士を見、色把がユーリに視線を移す。
『ユーリさん、あまり虐めちゃダメです』
「あらま。弱いものいじめになってるか。ゴメンゴメン」
「てめぇら……!」
哭士の苛々は募るばかりであった。
こうして居間に集まっていても、解決策など出るわけもなく、テレビの音だけが響いていた。
哭士の表情に変化が起きたのはそれから間もなくのことだった。
「……早池峰、眠いんだろ」
「ねむくない」
「嘘つけ。視点が定まってねーじゃんか」
「うるさい。だまれ」
「どーせなら中身まで子供になってりゃ良かったのに。可愛く無いねー」
フン、と鼻を鳴らしそっぽを向く。だがそれもつかの間、瞼がとろんと落ちてくる。
体の異変に狗鬼の本能が睡眠を欲しているのだろう。
「無理すんな。少し寝ろよ」
「……部屋にもどって、ねる」
「一人で寝れるー? 俺、妹で寝かしつけ慣れてるけどー? 子守唄唄ってやろうか?」
「いいかげんにしろ!」
強い調子でふすまを閉め、哭士の軽い足音が遠ざかる。
「……ユーリ、あまり哭士を刺激しないように」
「悪い悪い。見てると面白可愛くてついつい」
「ほんとだよねぇ。あの姿の方が可愛げがあっていいよねぇ」
部屋に居るはずのない人物の声に、一同ギョッとした表情を浮かべる。
「桐生さん……いつから……?」
音もなく反対側の入り口に立っていた桐生は、失礼といいながら卓へとついた。
「ユーリくんの面白可愛くて、のあたりからかなぁ。ねぇ菊塵くん、おいしいお菓子があるんだけど食べない?」
菊塵は桐生の視線から逃れるように目をそらす。
「……いえ、結構です」
「あらそう。美味しいのに。じゃあユーリくん、いかが?」
「……イエ、結構デス」
あからさまに怪しい桐生の誘いを受け流すのを横目に、菊塵は桐生に問いかける。
「哭士がああなったのは、やはり薬で?」
「そうそう。風邪薬っていうのは本当だよ。治癒力を活性化させて、ウイルスそのものを無くしちゃおうと考えてねぇ。
風邪も治ってたでしょ? それとあの状態も大丈夫、効力はそんなに長くないから」
「薬の効力はどれくらいで?」
「うーん、だいたい一日かなぁ」
「なんだ。戻るのか」
「うん、戻っちゃうの。残念」
桐生は小さく肩をすくめた。
「ところで、ちょっと協力して欲しいんだけど……」
桐生はある提案を告げ、早池峰家を後にした。
数時間後、哭士が居間へと戻ってくる。
「あれ、哭士……」
「ちょっと大きくなってねぇ?」
引きずるように歩いていた大きな服も、丁度脛のあたりにまで上がっている。
「そのようだな。明日には元に戻りそうだ」
心なしか安堵の表情を浮かべている。
「つまんねぇなぁ。もうちょっとちっこいままでいればいいのに」
「ならお前がなっておけ。桐生に言えばいくらでも飲ませて貰えるぞ」
不機嫌に卓につく哭士。
「あー、いいかもねぇ。子供の姿利用して女の子にくっつき放題じゃん」
「……小さくならなくてもやってるじゃないですか」
そういやそうだな、と呟いたユーリの声と同時に、廊下側の障子が開いた。
「あ、じいちゃん」
哭士の祖父、早池峰 修造が帰ってきたのだ。
「祖父様 おかえりなさいませ」
菊塵も修造に声をかけるが、修造はある一点を見つめて固まっている。
「……どうした、じじい」
何時ものごとく哭士も話しかけるが修造は目をかっ開き、その場に立ち尽くした。
「こ、哭士…か」
祖父の言葉に無視を決め込むことはできず、ああ、と一言返事をする。
「お……おお……!」
ふらりふらりと哭士に近寄る。尋常ではない祖父の様子に哭士は後ずさり、菊塵とユーリは動けなかった。
「孫が……帰ってきおった……!」
「ぐっ!」
がばりと哭士に覆いかぶさりそのまま抱きしめる修造。
今までの哭士は孫ではなかったのかと突っ込む隙もなかった。哭士は思いもよらぬ祖父の行動に反応できずに修造の下敷きになった。
「今、顔を見てくれたな! 顔を見て声を掛けてくれたのだなぁ!」
「じ……じーちゃん! 流石にそれは早池峰が潰れる!」
流石に年老いても狗鬼、菊塵とユーリの二人がかりで、修造を哭士から引きはがした。
「いやいや、誠にすまなかった。取り乱してしもうた」
「……あの、謝るならぐったりしてる孫の方に……」
もう抵抗する体力も気力も無いらしい。端の方で丸まっている哭士は色把に背中を撫でられている。
「しかしこれはどういうことなのだ。まったく信じられん」
菊塵が経緯を説明する。
「ということで、一日ほどで元の身体に戻るだろうと言うことです」
「そうか……戻るのか……」
またしても残念そうな声が上がる。そんなのでいいのかと突っ込みたい気持ちを菊塵は押さえ込んだ。
部屋の隅に居た哭士がむくりと起き上がる。
「……成長を早める方法は無いのか。これでは身体がもたない」
「いいじゃねーか、どうせなら楽しめよ。なんならじーちゃんと出かけてこい」
ユーリの提案に修造の目が輝く。
「嫌だ。身体が戻るまで外には出ない」
「腹は空いてないか? 寿司を食べに行こうか」
「ほら、寿司だって! 俺も行くからさ!」
「お前は来るな!」
がばっと顔を上げた哭士は、ニヤリと笑ったユーリと目が合い、しまった、と表情を浮かべた。
「……ってぇ事は行くわけね? はいはい、俺は行かないのでどーぞどーぞ」
哭士の脇の下に手を入れ、そのまま修造へと押し付ける。
「なっ! 行かないと言っているだろうが!」
「じいちゃんとツーショットじゃん! 早池峰こっち向いて!」
「撮るな!」
携帯カメラを向けたユーリに吠える哭士を他所に、修造は色把に向き直った。
「これでは風邪を引くな。哭士、おじいちゃんと一緒に服を買いに行こう。さぁ色把さんも一緒に」
『はい!』
修造の問いに色把はにっこりと頷いた。
「聞こえないのか! 離せ!」
腕の中で暴れる哭士を軽々といなし、足取りも軽やかに早池峰家を後にする修造。
その頃になると哭士もいよいよ諦め、首を垂れていた。
「……これで良い? 桐生センセ」
「うん、バッチリバッチリ」
修造、哭士、色把を見送った二人の後ろから手を叩きながら桐生がのんびりと現れる。
「修造さんにはいつもお世話になってるもの。いちばん可愛い時に狗石のせいで一緒に居られなかったなんて悲しいでしょ? だから僕からプレゼント」
哭士くんには悪いことしちゃったけど。と悪戯めいた笑みを浮かべる桐生。
「一週間は機嫌悪いですよ。哭士」
「うふふふふー。仕返しにこないかなぁ。そしたらまた色々出来るんだけど」
「……」
この人にだけは絶対に逆らうまい。菊塵は改めてそう思った。
翌日、元の身体に戻った哭士は、菊塵の予想通り機嫌がすこぶる悪かった。
「おっじゃましますよー! 」
デジャヴだ。哭士の表情が凍りついた。
「哭士くん、身体の調子はどうかなー? ちょっと様子を見せて欲しいんだけどー」
「てっめぇ……! 昨日あんな事をしておいてよくも平然と……」
「わぁ怖い怖い。やっぱり昨日の方がいいなぁ僕。ねえねえ、ちょっとこれ飲んでみ……」
「飲むわけないだろうが!」
何時もと変わらない早池峰家の屋敷内、だが修造の私室には新たに写真立てが追加された。
写真には機嫌の悪い子供とそれを嬉しそうに抱く祖父が写っている。