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夢を見る硯

「じいちゃん、これ、何?」

 祖父の部屋に置かれた平べったく黒い物が目に入る。手に持つとずっしりと重く、そしてひんやりと気持ちが良い。

 手に持ったまま振り返ると、祖父は目を細めた。

「それは、友禅の硯だ」

 本家が焼け落ちた後、祖父の配下を含む革新派が本家の跡地の調査を行っていた。

 そこで見つかったのが硯であった。と祖父は言葉を噛み砕きながらクオウにも理解できるように語る。

「友禅は揮毫が得意であったからの。それは見事なものだった」

「きごう?」

 筆で文字を書くことだと祖父は言う。

「俺にも出来る?」

 クオウの言葉に祖父は嬉しそうに、さらに目を細めた。

「どれ、墨の磨り方から教えてあげよう」

 祖父が立ち上がり、小さな引き戸が複数ついた薬箪笥を弄っている。

「おかしいな、墨が見当たらん」

 クオウを振り返り、祖父が肩をすくめる。クオウもそれにつられて笑う。

「これ、かりてもいい?」

 両の手に収まる位の小さな硯に、クオウは何故か惹かれていた。使い方は分からなくても、何故か今だけは手元に置いておきたくなったのだ。

「大事に扱うようにな」

 少し考えた祖父は、クオウに一言告げると、引き続き薬箪笥を探り始めた。




 クオウの部屋は、兄の哭士の隣室である。

 庭に面した廊下は、ようやく春の暖かさを孕み、柔らかい花の匂いがクオウの鼻腔をくすぐる。

 手に持った重さを感じながら、クオウは自分の部屋を通り過ぎ、兄の部屋を通り過ぎ、ひとつの部屋の前で立ち止まった。

 そっと引き戸に手をかける。

 哭士の部屋の奥隣が、長兄である友禅の私室になっていた。

 今は、主なき文机がひとつ、窓際に置かれている。その他は箪笥だけの簡素な部屋だ。

 それでも、この部屋には兄の存在が残っているような気がしてならない。

 部屋の明かりも付けずに両手に硯を持ったまま文机へ向かった。

 文机の真ん中に硯を置き、両腕に頭を乗せて硯を見つめた。

 兄はこの硯に向かい、どんな事を考え、どんなものを書いていたのだろう。

 今はもう会うことが出来ない一番上の兄の存在を、この硯にも見出そうとクオウは硯の表面を撫でた。

 くぼみの中はてらりと照り、使い込まれているのがクオウでも分かる。



 僅かしか相対することが無かった長兄との時間は、クオウの中で非常に大きなものになっている。

 背負われていた時の温かな温もり、初めて優しく掛けられた言葉、そして救い。

 一瞬一瞬の兄の姿を、クオウは思い出していた。










「クオウ」




 ふんわりと肩に手が置かれた。

 低く、それでも安堵を与える優しい声。いつの間にか眠ってしまっていたようだった。

 顔を上げたクオウの目に、一人の人物の姿が飛び込んできた。

「友兄……?」

「はい」

 名を呼ばれて、首をかしげるその姿は、金色の右目、ひとつに括った長い髪。

「こんなところで寝ていたら、風邪を引いてしまいますよ」


「……」

 どのような顔をしているのか、自分でも分からなかった。兄の像が歪み、鼻の奥がツンと痛む。

「クオウ?」

 瞳から零れないうちに、兄の懐へ頭を突っ込んだ。

「どうしたのですか。怖い夢でも見たのですか?」

 大きく驚く風でもなく、兄の大きな手が頭をゆっくりと撫でる。

「なんでもない……」

 兄の胸に顔をうずめたままクオウは首を振った。

 余計なことを言ってしまったら、これがあっという間に消えてしまうかもしれない、そう思った。




「晩御飯の時間ですよ。マキさんが呼んでいます」

 頭にかかる声に顔を上げると、かつて見た表情とまったく変わらない、優しく緩んだ瞳と視線が合わさった。






「クオウ、どこ行ってたんだよ。早く食べようぜ。腹減った」

 廊下から襖を開けると、振り向いたユーリが笑みを投げかけた。クオウと共に部屋を訪れた友禅の姿に驚く様子も無い。

「突然やってきて良く言いますよ」

 斜め前に正座で座っている菊塵がため息をつく。

「だって、俺専用に茶碗まで用意してもらっちゃ、そりゃお邪魔しないわけに行かないでしょ」

 ユーリはにやりと笑い、自身の前に置かれた茶碗を指で撫でた。

 その様を哭士が見ているのか見ていないのか分からない無表情で座り、周囲を色把とシイナが忙しそうに配膳している。

「クオウはどこに居たんですか」

 菊塵の優しい目線が向けられる。

「私の部屋で眠っていたんですよ」

 友禅がクオウの背を押す。一歩、居間へと足を踏み出した。

「クオウは兄ちゃん離れしないとな。下の兄ちゃんが寂しがるぞ」

「そんなわけないだろう」

 ムッとする哭士を気にするでもなく、ユーリは未だに入り口で立ち尽くしているクオウを招く。

  



 クオウと友禅が席に着いたのと同時に、配膳も終わったらしい。クオウの心中などお構いなしに、大人数の食事が始まる。

 ユーリが苑司に話しかけ、時折、菊塵がユーリの言葉に訂正を入れる。

 それを哭士は聞いていない風に黙々と箸を進め、色把は周囲のにぎやかさに流されることなくゆっくりと食べ進めている。

 シイナと祖父はユーリと苑司の会話に楽しげに笑い声を上げる。


 クオウが早池峰家で過ごし始めた時と変わらない、和やかな食事の風景。

 ただ、一人、見慣れた風景に当たり前のように溶け込んでいる、会いたいと願って止まなかった人物は、皆の姿をみて、ただ静かに微笑んでいた。








「魚、嫌いですか?」

 焼き魚に手をつけていないクオウの皿に目が留まったのだろう。傍らの友禅はクオウの手元を見つめる。

「……骨があるし、難しそうだから」

 殆ど食べる機会など無かったクオウは、正直どう食べてよいのか困っていた。焼き魚が出た日は箸をつけずに残している。

 友禅は自分の皿をクオウの見えるところに持ってくる。

「こうして、真ん中に箸を入れるんです」

 クオウもおずおずと友禅に倣い、自分の皿の魚に箸をつける。友禅の手順の通り、ほぐした切れ目で箸を開くと、身が綺麗に取れた。

「ね、簡単ですよ」

 感嘆の声を上げるクオウに、友禅はそう言って笑う。

 まっすぐ伸びた背筋で食べる様を見、何とはなしにクオウも胡坐から正座へと座りなおした。



 大きな卓に彩られた大量の料理も、狗鬼が数人集まればあっという間に平らげられてしまう。

「あー、食った食った。ご馳走様でしたー」

 満足げに大きく息を吐き出したユーリは、空いた皿を重ね出す。

「あら、ユーリさん、いいんですよ!」

 台所から顔を出したマキがユーリに声をかける。

「いいのいいのー。今日は俺、皿洗うから。いつもご馳走なってるお礼」

 てきぱきとユーリの手は止まらない。

「では、私も」

「友禅さんまで! 悪いですよぅ!」

「私、こう見えても洗い物が得意なんですよ。たまにはゆっくりなさってください」

 やんわりとした友禅の言葉に、マキも嬉しそうに、では、お言葉に甘えて、と帰宅の準備を始める。

「俺も手伝う」

 クオウも兄について台所へと向かう。友禅は嬉しそうに微笑んだ。




「この状況さ……マキさんに見られたら、毎日皿洗いさせられるよね絶対……」

 手もまったく濡れていない三人、苦笑いしながら、ユーリは目の前のシンクを見つめる。

「それより、驚いて倒れてしまうかもしれません」

「いや、無いなー。『なんですかユーリさん! 友禅さん! そんな事出来るなら早く言ってくださいよぅ!』とか何とか言うに決まってら」

 全く似ていないマキの声真似をしてユーリがおどける。

 ユーリの空気の箱の中で、友禅が操る水が踊っている。箱の中に並べられた食器の汚れを落としながら、綺麗な水で同時にすすいでいる。

 いわば食器洗浄機だ。ユーリの発案によるものであったが、思いのほか上手くいっている。

「大体綺麗になりましたね。あとは拭いておしまいです。三人でやれば、すぐ終わりますね」

 見事に食器が綺麗になっている。三人並んで食器を拭く。

 とにかくユーリの口が動き、友禅は楽しげに相槌を打つ。

 指ではじかれた雫に顔をしかめるクオウを見てユーリがげらげらと笑う。その横で静かに兄も笑う。緩やかな時間が過ぎていった。

 


 菊塵の帰宅に合わせ、ユーリもそのまま早池峰家を後にした。菊塵に車で送ってもらう約束までちゃっかりと取り付けていた。

 ばらばらと居間から家人が自室へと戻るなか、クオウはなんとなく兄から離れづらく、そのまま友禅の部屋へ、部屋の主と共に訪れた。

「……そういえば、この硯……」

 文机の上に鎮座した硯に目を留める友禅。

「これ、友兄のでしょ?」 

 そっと持ち上げ、まじまじと見つめる友禅。

「はい、でもこれは……」

 言いかけて、何かに納得したかのように友禅は言葉をつぐんだ。

 心中を察することが出来ないクオウは首をかしげる。

「ああ、すいません。懐かしかったものですから」

 硯から目を離さないクオウに気づいたのか、友禅はクオウの顔を覗きこんだ。

「やってみますか?」

「やる!」

 友禅の言葉に、クオウは大きく頷いた。



 慣れた動作で文机から筆や墨を取り出す友禅。クオウはその様子を隣に座り見つめている。

 友禅が硯に触れると墨池に水が滲み出す。

「汲み立ての水が一番いいんですけれど、ズルしちゃうんですよね」

 そう言って友禅は笑い、肩をすくめる。

 白い指が墨を持ち上げ、柔らかく硯の中で円を描く。

 その様子に見入っていると、友禅がクオウに墨を持たせた。

「力を入れずに『の』の字を描くんです」

 兄の言う通りに墨を滑らせる。徐々に水がとろみを帯びてくるのがクオウにも分かった。


 使い古された筆に友禅は墨を含ませる。灰色がかった毛先はじわりと艶めいた黒色に変わる。

「どうぞ」

 ゆっくりとした動作で、友禅はクオウと場所を代わった。

 目の前には真っ白な半紙。

 硯から筆を半紙の上に持ってくるが、墨汁が垂れる。

 慌てて半紙の上に置き手を動かすが、筆の先は開き、文字が掠れてしまった。

「難しい」

「初めは皆そうですよ」


「友兄の見せてよ」

 渡された筆で、硯を撫でる。

「暫く書いていないですが、どうでしょう……」

 半紙の上を滑らかに筆が動く。

 同じ筆のはずなのに、兄が扱うと毛先にまで神経が通っているような、そんな気さえする。

「うん、上手に書けました」

 満足げに頷いた友禅の前には、友禅、哭士、クオウの名前が書かれていた。



 友禅の手ほどきを受けながら、名前を書く練習をする。気づけば、かなりの時間が経っていたようだ。ふと、眠気が襲ってくる。

「さあ、もう遅い時間です。そろそろ寝ましょう」

 友禅がやんわりと自室へ戻るように促す。

「俺、ここでねる」

 友禅の背中に身体を預けて、クオウは友禅に甘える。その様子に、くすりと笑う声が聞こえた。

「もう一揃え、布団を持ってきますね」




 友禅の布団の隣に、もう一枚布団が敷かれた。

 クオウが布団に潜り込んだのを確認して、友禅は部屋の明かりを消した。

 暗い部屋の中でも、クオウと友禅はゆっくりと会話をする。

「友兄は、今、幸せ?」

 自然に訪れた会話の空白。

 クオウは、どうしても聞いてみたかった事を兄に問いかけた。

 暫くの時間が経っても、友禅の口は、開かれない。

 それでもクオウは待った。兄の眼がゆっくりと伏せられ、様々な記憶をめぐらせているように思えたからだ。



「楽しいことばかりではなかったですけれど、それでも今、こうして皆で囲んでご飯を食べ、暖かい布団で眠ることができるという事は、とても幸せなことです」

 優しげな目が細められた。その目で、どのようなものを見、感じてきたのか、クオウには分からなかった。


「……例えば、例えばの話だよ。俺や、ちい兄ちゃんが死にそうになってて、自分の命と引き換えにしなければならないとして」

 言葉が詰まる。

 言い始めてから気づく。この先を言って、どうなるというのだろうか。

 夢かもしれない、だがそれでも『ここ』に居る友禅は確かに日々を幸せに過ごしているのだ。

 逡巡している様子に、それでも友禅はその先の言わんとしていることを汲み取ったようだった。



 少しの間を空け、友禅が口を開く。



「きっと、すぐには答えが出せないと思います」

 意外な、返答だった。

「それでも、最後に私が命を落とすことになっても、後悔はしないでしょうね」

「……」

 感情が高ぶっているはずなのに、意識がゆっくりと遠ざかっていく。

「友兄……俺ね……」

 何故か、この時間が終わってしまうことを、クオウは感じ取った。

 友禅はそれすらも分かっているかのように、言葉を遮るようにゆっくりと目を細めた。




「クオウ、貴方は何も悩むことはないんです」

 落ちていく意識の中で、やけにはっきりと、それだけが耳に残った。






「クオウ」



 いつの間にか部屋の中は真っ暗になっていた。それでもクオウの目は良く見える。

 自身を揺り起こしたのはすぐ上の兄、哭士だった。

「ちい兄ちゃん……」

 目を覚ました弟を見とめ、ひとつ息を吐き出す。

「こんなところで寝ていたら風邪を引く」

 覚えのある言葉に、思わずクオウは噴き出した。

「……何だ」

「ちい兄ちゃんってさ」

 クオウの言葉に、哭士とクオウの視線が重なる。

「似てないと思ってたけど、やっぱり似てるね、友兄に」

 ほんの僅かに見開かれる目。

 二人の間に、暫しの空白が流れる。

「……そうか」

 言葉少ないひとつ上の兄は、それでも柔らかく返答した。



「晩御飯、何かなぁ」

「魚を焼く匂いがした。お前、食べられないだろう」

 兄の問いに、クオウは得意げに笑う。

「俺、食べられるようになった」

 クオウの返答に、意外と言いたげな顔をする。

「誰かに教わったのか」

「ないしょー」

 少しおどけて兄の前を歩く。不思議そうな表情をしていたが、それでもそれ以上は何も言わなかった。





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