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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

フィンブルの春  -FimbulSpring-  月下の狼

作者:

 とある工事現場。夜間で工事を休止し、静まり返っている。ビル建設用のタワークレーン群の最上部では航空障害灯が赤く輝いている。

 点滅する赤い光に空よりも暗いクレーンに座る人の姿が映し出される。人は、風に髪の毛をなびかせながら空に向けて手をかざしていた。

 何かを羨望するかのようにかざした手を握り締め、また広げを繰り返している。目線と手の先には宵闇に抵抗する雲空の白が見えるのみだ。夜空と雲が暗いまだら模様を形成し、ゆっくり、ゆっくり形を変えながら流れていく。

 数分ののち、人影が待ち望んでいたように立ち上がる。座る際に敷物代わりにしていたのか、裾の長い上着が風にのってばさりと音を立てた。

水晶に黄金を混ぜ込んだような光が地上を照らした。雲の覆いが解けた夜空には完全なる円が夜に浮かび、様々なものの衝突でその身に刻まれた傷の跡さえも美しく感じさせる。月は見るものを魅了する美しさを誇るように月光を輝かせている。

 そしてその光に映し出された人もまた、月に勝るとも劣らない妖しげな美しさを持っていた。

 髪は銀、後ろで纏められた長い髪は風を受け、柔らかに空気と溶け合っているようでさえる。整ったという表現ではとても足りない、神が誤って地上に落とした美の化身のような美しい顔立ち。切れ長の目には赫く紅い魔性の瞳。身に纏う蒼のロングコートに包まれた肢体は出るところは出て、締まるところは締まるという完璧なボディーバランスを持っていた。街中で見かけようものならあらゆる人が振り返り、何をしていても魅力的に見えるだろう。

「……来ないわねえ」

 みずみずしい唇から紡がれたのは、待ちぼうけになっている不満の言葉だった。タワークレーンの上という非現実的な場所で待ち合わせするのはおかしいものだが非現実的な美しさを持つ彼女が行うとごく普通の行動にさえ見える。

 ふと、月を見上げていた紅い瞳が瞬きと共に下を見る。瞼をゆっくりと下ろし頭を左右に小さく、ゆっくりと振ると、風になびく長い左側の髪の毛に手櫛をする。

「私、こんな集団のお客様に呼ばれた覚えないんだけれど」

 不満を漏らす声とは裏腹に口角は上がり見る者に狂気を感じさせる笑みを浮かべる。

 転瞬、彼女の頭が後方へ吹き飛ぶ、直後に響くのは巨大な火薬の炸裂音。強力な質量と凶悪な速度で撃ちこまれたそれは遠距離より放たれた12.7mm×99mm実包の弾丸。人間の胴体を簡単に両断するすさまじい破壊力を持つ。

 それを受けた頭につながる体も追従するように吹き飛び、クレーンから落下する。

 百メートル近い高さでの頭からの落下は空気抵抗を最小限にし、重力の糸に加速させられれ地上に落下する。

 敷鉄板の上に落下し、軟弱地盤ように敷き並べられた鉄に衝突し、小さく、しかし致命的な生々しい音を立てる。

 彼女は鉄板にうつ伏せになって動かない。風の音が工事中の骨組の建物を通る音が笛の音のように鳴いている。それ以外の音は一切無い。

 唐突にぽつりと彼女の服の上に赤い光点が浮かんだ。大きさにすると鉛筆の芯の直径ほどもないそれはポツポツと雨のように数を増やし、まるで細菌でも繁殖しているかのように全身十か所以上を小刻みな揺れをしながら漂っていた。

 そして光点が唐突に表れたように次の事態も唐突に起きた。

 女性の体が大きく痙攣するように跳ねた。死後硬直によるものなのか、いや違う。

 彼女の右手に力が入り右手を鉄板に着く。重力に対抗し体をゆっくりと持ち上げ足を立てる。ゆっくりと立ち上がる様はの幽鬼のようであり見るものが見たならば失神するような恐怖映像そのものだ。

 足をしっかりと立て、腕が地面から離れ二足歩行の状態になる。勿体ぶるように前傾姿勢から最後に顔を上げ目を見開く。

 その顔は先ほどと変わらず美しい物だった。

 高所より頭から鉄板に落下すれば死ぬ。人間にとって当たり前の常識だ。脳漿をイチゴジャムのようにぶちまけ全身がバラバラになり血の匂いがあたり一面を覆う惨状なるほどの事態だ。それほどのことにもかかわらず女性はかすり傷すら負っていない。

 そもそもその前に彼女に打ち込まれた弾丸は軽装甲車両などにさえ効果のあるすさまじい破壊力を誇る物で、人間が受けてタダで済むようなものではない。それこそ高所からの落下以上のダメージを受けているはずだ。

 しかし、傷らしい傷はなく頬や服などに僅かに埃がくっついているだけだ。もはや月光に煌めく赤い瞳は悪魔の双眸のようでさえある。

 彼女の起き上がりに対して光点は追従を続けた。が、彼女に一切の傷がないこと動揺の色が見え隠れする。

 光点が動揺したのは簡単な理由だ。

 その発生源は約二百メートルの距離から彼女を囲うように配置された彼女を殺すための狩人たち。彼らの持つレーザポインタ照準器のものだ。十以上の光点が浮かんでいるがわざとそれをつけていないものも複数いる。さらに後方には先ほどの狙撃を行った人間数人が今も彼女に狙いをつけている。

 この光点は脅しなのだ。彼女に対しての。

 不審な動きをすれば撃つという脅し。

 素人でもこの状況でどちらが勝つと聞かれれば、狩人たちだ。

 一般的に見れば圧倒的優位な立ち位置、武器、数。凶悪なテロリストも泣いて謝るような状況で、動揺が生まれた理由。

 その理由がゆっくりと動き出す。

 女性が笑みを浮かべながら悠然とと右腕を上げる。

 その指先はじゃんけんでいうチョキに近い形だ。少し違うのは中指と親指の先端面をくっつけているということ。

 光点達が突然ぶれる。その直後に超音速のライフル弾群が彼女に向け殺到した。外れた弾丸は鉄板に当たり火花を散らし、時たま流れる曳光弾は赤い流星のように彼女の元へ届けられる。それを一切意に介せず女性は大きく右腕を掲げた。顔面へ強力な12.7mm×99mm弾が再び命中する。しかし今度は女性は吹き飛ぶことはなかった。口で咀嚼するような動作の後何かを吐き出す。銃弾が飛び交う中地面に落ちたそれは無残な姿になった12.7mm×99mmだったもの。もはやただの金属塊が轟音の中澄んだ音を鳴らす。

 光点の動揺した原因がここにある。大量に殺到する弾丸は5.56×45mm弾、高い初速を持つ小銃弾で人間相手になら十二分に致命的なものだ。だが、時折打ち込まれる狙撃弾に対して十分の一程度の威力しかない。そして十発当てれば一発分という単純な話ではない。

 そしてその瞬間は訪れた。

 火薬の炸裂音が奏でる合奏の中。

 パチンッ

 細やかにその音は空気中に伝播した。彼女が行ったのはフィンガースナップ。俗称として指パッチンと呼ばれるものだ。それ自体に何か特別な魔法がこもっていわけではない。ただの指パッチンだ。

 だがそれは狩人たちにとって、死を告げる音色だった。

 突如、女性を中心に轟音と閃光が発生した。一瞬で空気中を伝播したそれはまさしく稲妻。放射状に広がるそれは空気を引き裂きながらそれぞれがある場所へ殺到していく。轟音を山彦が復唱したころ、まず女性へ向けた銃撃が止まった。続いて全方位から何かが炸裂するような音と僅かな悲鳴が空気を伝播してやってきた。

 その後、女性はその場で少しゆらゆらとリズムを取りながら待っていたが何も起きないので首をかしげた。

「あら、これで終わりなの? 私を殺しに来るからにはもっと対策してるものだと思ってたんだけれど」

 女性の言葉に応える者は誰もいない。

「まあ、今日の晩御飯はこれでいいかしら遅刻さんも食べるかもしれないし」

 そう言うと穴だらけになったロングコートを一度脱いではたく。撃ちこまれた大量の弾丸が鉄板の上に落ちて澄んだ金属音を鳴らす。潰れきったそれは月光を浴びて銀色に輝いている。

 目的地を定めたように徒歩で二分と少し歩く。脇にあるのは建設が終わりそのうち入居者がくるであろう集合住宅だ。その上にロッククライムの要領で軽々と登ると死体が一つ落ちていた。屈強そうな男性だがうつ伏せになって死んでいる。二つの爆裂した銃を間に女が仰向けになって血だまりに浮いていた。戦闘服の胸元、無線機からはしきりに返答せよ、という声が聞こえている。それを見た彼女は指を再び鳴らす。すると無線機が返答モードへ切り替わった。

「ハロー? オーディン機関さんかしら? 違ったらごめんなさいね」

 無線の向こう側で息を呑む気配が感じられる。

『……ッッ!! み、ミラージュ貴様!』

「あら? やっぱり私だってわかっててこんなこしたの? 無駄な努

力をご苦労様。付き合ってあげたご褒美は死体たちで我慢してあげるわ」

『………いつか必ず……』

 無線機はそれっきり反応することはなかった。

 応答しなくなった無線機から離れ反対側の男性の方へ移動するとうつ伏せの状態のまま右手首をつかんで持ち上げる。肩の部分からゴキンと嫌な音がするが彼女は気にしない。

「やっぱり私の名前知ってるじゃない。それでも襲ってくるなんて、人間はやっぱり馬鹿よね」

 そう思わない? と死体の手を振らせて遊ぶ。数秒パタパタと手を振った後、おもむろにつけていた黒い手袋を取ると指に噛り付く。ぶちぶちと関節部が悲鳴を上げているがそれを無視し指の第二関節から食いちぎり咀嚼する。なくなった部分から血が流れ出す。

 無線の“ミラージュ”というのは彼女の名前だ。そして先ほどまで人間として生きていた彼らから発せられていた光点、訓練されていた彼らがいとも簡単に動揺してしまう最大の原因は彼女自身にあった。

 簡単に言えば彼女は人ではない。当然だ。大口径銃に頭を打たれ、高所から鉄板に落下し、服だけとはいえハチの巣になるほど銃撃されて傷一つない生物を人間というには無理がありすぎる。

 彼女はそのとおり人ではない。彼女のような存在を知るものは人狼と呼ぶ。

定義は非常にあいまいで、その名の通り狼になるものや魚類、両生類、虫に至るまで様々な人狼が存在するものの、人食い鮫や獅子、鰐とは一線を臥する。共通して人狼を表す言葉がある。

【人に紛れ人を喰らう人あらざる者】

人狼は、人を食らってしまったけだものではなく、人を喰らう種なのである。

 そして彼女は先ほどの無線相手対人狼のため生まれた秘密結社“オーディン機関”の定義した“フェンリル”と呼ばれる最上位級の人狼の一人

 “月を喰らう者”ミラージュ=マーナガルムである。

 そして先ほどの現象はミラージュがフェンリルと定義された彼女自身の能力でもある。

「まふぁ、それでも勇気のある人間ふぁ、はむ、んぐ。美味しいんだけれど」

 まるで夜食にお菓子でも食べているかのような感じの声色だが食べているのはお菓子ではない。紛れもなく先ほど死んだばかりの人間の死体だ。しかし、それは血でのどを潤し肉で腹を満たす生物の当たり前の行為。

自分と同種を食すというのは様々な動物にとっての禁忌であり、一見すると人が人を喰らっているように見える。が、彼女という人狼にとっては人は同種ではない。食物連鎖のピラミッドの一つ下の存在なのだ。

 生の生物を骨ごと食す不気味な音を口から出しながらのんびり独り言をつぶやく。

「やっぱり男は硬いからそっち食べよう」

 右腕の前腕ほどまで食べていた男を放りもう一度女のほうに近づく。細めの腕を無理やり肩から引きちぎる。

ちぎった断面から垂れる血で汚れないよう上手に口に血を垂らして嚥下する。

血が抜けきり、垂れるのが止まると大きくためを作るように口を開けると、一気に二の腕に噛みつく。遅すぎる来訪者を待つ間、ミラージュは食料をのんびりと味わいながら食べることにした。

―――しかし、結局待ち人は現れずミラージュは殺傷した内、見つけた十三人を食べることになった。その間、待ち人のことについて思い出していた。


 待ち人の名前はハティ。出会ったのは彼女が十二の時だ。ミラージュが人間の中に混じり人を喰らうようになってから何かと気にかけてくれる人狼だったと記憶している。当時のミラージュは今ほど強くなく、人を狩るのも一苦労、狩人たちに見つからないようにするのも一苦労だった。人を分けてもらったり、人の社会に溶け込む術をミラージュに教えたのは彼女だった。

 しかし、ある日を境に彼女の態度が変わった。ミラージュが強い力を発現し、多くの人狼が畏怖を覚えた頃、彼女は媚びへつらうわけでもなく、ただ、ミラージュが現れると不機嫌になるようになった。

 当時のミラージュは突然のことでわからなかったが今ではもうわかる。彼女は欲を満たしていただけだったのだ。人間を狩るのも一苦労、癖のある能力で使い道もあまりなかった当時のミラージュ。

 哀れな奴を助けてやっているという自尊心を満たす行為。

 ハティは能力も優秀、人を欺く術も持ち合わせる優秀な人狼だ。しかし、他の人狼たちに対する求心力は少なかった。原因はその性格にあったようだが、ミラージュのなかではそれでも優しくしてもらった恩のある人狼だ。だからこそ呼び出しにも応じ、こうやって待っている。

 ミラージュに一つ疑問が生じた。

 狩人たちはどこかで自分を見つけてそれでここまでついてきたのかと思っていた。しかし、追跡には気が付かなかった上、相手は自分をミラージュだと分かった上で襲ってきた。市内の監視カメラで追跡してきたのかもしれないが、直前で行動が発覚するようなことをした。

そしてこんな所で襲うのは周囲に被害が出ると分かり切っていたはずだ自分のことを知っていたのだから。しかしもう日が出ようとしている時間になっても工事現場は動き出さず、街には人一人出てこない。周囲に被害が出てもよい状態で待ち構えていた。

待ち伏せされていた。

ならばこの場所を漏らしたのは誰? 

 そう考えたときようやくミラージュの待ち人が現れた。  




 日の出前の薄闇の中、ミラージュに向けて歩いてくる人間がいる。いや、彼女も人間ではなく人狼だ。

 空の色を思わせる瞳と青い髪を揺らしながらキャリアウーマンのような姿をした女性。

 彼女こそがミラージュが待っていた相手にしてミラージュを呼び出した相手。

 ハティだ。

「ハアイ、ミラージュ待たせてごめんなさい。どうしたの? 穴だらけになって」

 フフフ、と小さく澄んだ声で笑いながら右手で口元を抑える。ミラージュがやれやれといった感じで首を横に振る。顔に笑みはない

「ちょっと雨が降ってきてね。雷まで落ちちゃったわよ。所で」

 ミラージュは口元から右手を上げフィンガースナップをしようとする。が右腕が停止し締め上げられるように手を開く。

「いや、何する気?」

 ハティが口角を上げながら右手人差し指をくるくると回しているまるでトンボの目を回そうとするかのように指先はミラージュに向けている。その眼はまるで檻に入れられ殺されるのを待つ小動物を見ているかのような加虐的なものだ。

 そして、ハティから視線を外し自分の意志に逆らい痙攣する腕を見つめるミラージュの顔にも笑みが宿る。

「まったく、何するのよ。能力で人の腕なんて操っちゃって」

「月の滴って言って欲しいわ、ミラージュ」

「まあいいけれど、それで何の用なの?」

 ハティはくすくすと笑いながら目を細める。ミラージュは歯が見えるほどの笑みを浮かべる。

 暁の薄闇の中で蒼いと紅い瞳が交錯する。

「まあ、そんなに用はないわ。ただ―――」

 ―――死んでほしいだけ。ハティがトンボ回しをしていた右手を花弁が開くように広げる。それと同調するように痙攣を起こしていたミラージュの右腕が本人の首を握る。首から気道と筋の締まる嫌な音が漏れ出ているがミラージュは一切顔色を変えない。笑みを浮かべハティを見たままだ。

「何笑ってるの? 死ぬのよあなた?」

 笑みがハティの中に一抹の不安をもたらす。僅かな不安は眠った不安を呼び覚ます。それを薙ぎ消すように彼女は右腕を大きく前から後ろへ横に振り抜いた。それに呼応するようにミラージュの手の締め付けは強くなり、鈍い音が小さく鳴る。窒息を待つ前に首の骨がへし折れたのだ。締めていた右手が離れ、支えを失った首が不自然な方向に垂れる。それでもミラージュは倒れない。これは彼女が経っているのではなく、ハティの力、月の滴によるものだ。不安をかき消すようにハティは笑い声を出した。綺麗な澄んだ声の中にはまるで狼があげる勝鬨の様な恐ろしさを内包している。そしてこの状況に呼応しているかのように周辺の野生生物たちはこの二人のから少しでも遠くにと逃げていく。

「おままごとはすんだかしら?」

 笑い声を一瞬で打ち消す一言が、不自然に曲がった首の先の顔から発せられた。重力に垂れていた首は人間らしい位置に戻り顔には先ほどと変わらぬ笑みを湛えている。

 ハティが再び右腕をかざすがミラージュの体は動かない。何が起きたのかとハティは能力を全力で行使する。道路下に埋まった水道管の水が引き上げられ水道管が道路を突き破る。

「ならこの国でいうドザエモンにしてあげる」

 水道管が破裂し内部の水があふれ出る。それは水圧で吹き出し重力に従い地面に落下するはずが、水があたかも生物であるかのようにミラージュの体を覆い、水の球体に閉じ込められる。

 ハティの能力“月の雫”は水の操作能力だ。生物内部の水分を操り生物本体をある程度操ることもできる。

 しかしそれなら無理やり心臓を止めてしまえばいい。わざわざ腕を操って首をへし折る必要はない。

 なぜそうしなかったのか。

 ミラージュは相も変わらず笑みを浮かべている。外連味さえ感じさせるその笑みの中、彼女は右手人差し指、中指を唇につける。

 水中越しから歪むハティに向け、彼女は投げキッスを行った。信愛や誘惑のためではなく、皮肉っている。煽っている。

 お前の能力は通じない――と

 宇宙空間のように球体にミラージュを覆っていた水が、突然ここは地上だったと思い出したかのように地面に落下する。破裂した水道管は思い出したように水を吹き出し始め、水しぶきが宙を舞う。

「まったく、服が台無しじゃない。ただでさえ穴だらけなのに濡らすなんて」

 変わらぬ口調にハティは恐怖を覚えた。身構えながらもやや後ずさる。それを追うように僅かに歩を進めながらミラージュは言葉をつづけた。

「ハティ、あなた。自分の能力がなんだかわかっているの?」

「わかっているに決まっているじゃない。私の能力なのよ?」

 クスリとハティは精一杯の強がりを笑みと共にミラージュに届ける。だが彼女にはもうわからなくなっている。なぜ能力が使えないのか。なぜ能力が通用しないのか。

「月の雫なんて大仰な名前よくつけたわね。どうやって水を操っているかもわかってないんだもの」

 ハティの思考が凍りついた。どうやって水を操っているか、など水を動かすのに特別なことはしていない。その間に入る余地はないはずだ。

「あなた、分かってないみたいだけど水を操るとき変な電磁波みたいなのが出てるわよ」

 ミラージュはやろうと思えば磁力線や電波が見える。持ち得る能力の副産物的側面が強いそれは、ハティから発せられる物を捉えていた。ハティが能力を行使する際に発生する電磁波を。

 ミラージュの能力。それは電気の操作。その力は電流だけにとどまらず電波や電磁波など多岐に影響力を持つすさまじいものだ。しかし彼女の能力はこれだけではない。

 もう一つは発電能力。こちらは至ってシンプルだ。体内で電気を生み出すだけ。だがシンプルなだけに非常に強力だ。やろうと思えば彼女一人で大都市の全電力をまかなうことさえできる。絶縁体の空気さえも貫通するすさまじい電力を生み出すこともできる。

 その能力で彼女が行ったのは結界の生成だ。

 投げキッスをした瞬間に周囲五百メートル圏内はミラージュの領域となった。ミラージュの支配下に置かれた空間に置いては一切の電子機器は機能を狂わせ、電話などの電波は捻じ曲げられるほどのそれは情報の奔流たる現代において陸の孤島を形成した。

 能力を行使しようと全力で手を突き出すハティに向かい、ミラージュは深く、深く笑みを浮かべた。それを見たハティは死、を感じた。いや、感じたというものでは足りない。もはや言葉にできない絶望的な何かがハティの体と心を支配した。

「馬鹿ね。月を喰らう(マーナガルム)に、月を追う(ハティ)が叶う訳ないじゃない」

 ミラージュが右手を弾く。パチンというフィンガースナップの直後に轟音と電流がハティの右足をもぎ取った。電熱で傷口は即座に止血され雷以上の破壊力を持つそれは軽々と戦利品の足を焼き尽くし地面に帰る。

 バランスを崩し地面に倒れたハティがのた打ち回る。まるで陸上に打ち上げられた小魚の様だ。

 悲鳴が響いた。

 ハティの悲鳴だ。足を焼き捥がれ悲鳴で済んでしまうのは、頑丈な人狼の不幸だろう。一般人なら余波の電流で即死で済んだものを、彼女はミラージュが気のすむまで嬲られ、飽きたらゴミの様に殺される運命が待っていた。

 跳ね回るハティを押さえつけ、首を掴み持ち上げる。

「さて、ハティ」

 ハティの顔はすでに苦しみと涙でぐちゃぐちゃになっている。ミラージュへの眼は恐怖しか灯していない。

「どこまで捥ぐと死ぬかゲームしましょうか?」

 見たならばあらゆる人がほれ込むであろう極上の笑顔を浮かべるミラージュが、ハティが絶望に染まりながらまだまともな思考の中でみた最後のミラージュの姿だった。


―――オーディン機関における報告。

 死傷者五十七名。重傷者一名。行方不明者二名

 周辺送電線、工具、機械類、住宅などの電子機器類の損壊。

 

 ミラージュ=マーナガルム(以下、対象)の討伐は失敗。精鋭六十名のほぼすべてを失う結果となった。

 以降、オーディン機関による対象への介入行動の一切を禁止とする。緊急事態の場合交戦ではなく人命の救助を優先すること。


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