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代役

掲載日:2026/10/07

部下からの電話がかかってきたのは、金曜日の午後四時前だった。

この一週間の仕事の進捗具合を頭の中で整理しながら、私は翌週に部署全体で何をすべきかを考えている最中だった。いくつかの気になる案件が順に頭をよぎる。できるだけ過不足なく冷静にそれらの現状を分析して、改善のための策を構築していくのが私に課せられた業務だった。

週末が近づくと私が習慣にしている作業。会社近くの最寄りの駅。幾つかの得意先への訪問を終えて会社に帰る途中のいつもの出来事。改札付近では下校途中の何組かの女子高生たちが色とりどりのスマートフォンをそれぞれの手に抱え、休みの日の予定を話し合っている。市バスが停まるロータリーの中央部分には、綺麗に手入れされた植栽が深い緑色を枝葉の隅々にまで纏っていた。春の長雨がようやく終わり、本格的な夏がすぐ近くまで忍び寄っている。


「本当にすみません」と、開口一番に彼は言った。

少し電波が弱いのか、それとも彼自身の心情が現れているのか、その声は普段よりも掠れた印象だった。

「実は先ほど、先方から電話がありまして。午前中に現物が納品された時に分かったみたいでして。こちらが気づくよりも前に、お客さんが先に気づいてしまって。それで慌てて一旦電話を切って、実際のところを確認してからあらためて先方に電話をして一通りの謝罪と説明をしましたが…」

彼は早口で言葉を続けた。私は、じっと黙って聞いている。彼の言葉を頭の中で適所に組み立てながら、事の状況を時系列に沿って目の前に並べていく。


「本来なら僕がすぐに先方を訪問して直接謝らないといけないのですが…。このとおり別の用件で福岡に来ていまして」と彼が言ったところで、私は合いの手を挟むように彼の言葉をそっと遮った。

両者の言葉がリレー走のバトンのように、部下から私へと止まることなく受け渡された。


「大丈夫だよ、私が代わりに先方に向かうから。こういうのはできるだけ早い方が良いから。君がそちらでの仕事を終えて帰ってくるのは週明けの月曜日になるだろう? それだとやはり遅すぎる。週末を跨いでしまうからね。もちろん月曜日に君は先方に謝罪に行かなくてはならないが、その前に会社を代表して私が謝罪をしてくるよ。今の説明で状況もよく分かったし、より正確で丁寧な説明も必要だろうしね。単なる言い訳ではない、状況説明がね。先方には何度か君と一緒に訪問したこともあるし、向こうも私の顔くらいは覚えているだろうから」

私は彼に劣らず一息で言葉を繋げた。できるだけ簡潔に要点をまとめて。

「ありがとうございます。先ほど一応、再納品の段取りは終えました。週明けの月曜日には先方に届く手筈です」

「じゃあ、君が先方を訪問する前後には注文の品は正しく納品されているんだね?」

「はい。その予定です」

「わかった。それで良い」

私は短く応えた。


駅前のロータリーの中央に建てられた銀色の時計塔の二本の針が、ちょうど四時十分を示していた。

ところどころ金属の塗装が剥がれ、排気ガスで少し灰色にくすんだ鉄製の時計塔。その正面下部に取り付けられた「S市ライオンズクラブ寄贈」の古ぼけた銘板が、空からのオレンジ色の太陽の光に反射して、一瞬こちらに向かって眩しく瞬いた。深い緑色の植栽にも、うっすらと影が伸び始めていた。もうすぐ季節は変わる。

今から電車を乗り継いで、先方のところに着くのは五時頃になっているだろう。道中、最後に先方の施設を訪問した時のことを思い出して情報を整理しておこう。担当者の姿に性格や表情、その言葉遣い。あの時、彼は一体どんな服装をしていたのだろうか? 介護業だからきっと綺麗で清潔な格好をしていたはずだ。左の胸元に施設のロゴマークが入ったポロシャツに、確かベージュのチノパンだったろうか。確かその話し方はゆっくりとした口調で、それでいて一つ一つの言葉を明瞭に発していた。外見は中肉中背で腰回りに少しだけ余分な肉付きがあるが、それがかえってマネージャーという役職に見合う雰囲気を生み出していた。初対面の時には私の方が年長にも関わらず、彼からは人生の先達者のような貫禄さえも感じた。あまり聞き馴染みのない珍しい口癖があったはずだが、今は思い出せない。これから約一時間の移動の中で不意に思い出すのかもしれない。


私は断片的な記憶を適度に再配置しながら、その人物像の輪郭を徐々に鮮やかなものにしていった。

脳の中にストックされた情報を必要に応じて呼び出して、あたかも目の前に存在するかのように再現していく。それらはどれだけ遠い過去の出来事であっても、ほんの瞬時に現在の時間と場所に蘇る。過去と現在の間にはもしかしたら何の隔たりもないのかもしれない、と私は時々思うことがある。時間とは人間が便宜的に使用している都合の良い尺度でしかなくて、この世界では過去も現在もそして未来でさえも実は同じ地点で固定化されているかもしれないと。そんな発見が科学的に証明されたなら、人類はその事実とどう向き合うのだろうか。自らが認知できない物事に対して人間は驚くほど脆弱な生き物だ。きっと何もなかったように各々の日々を平穏に、そして何かに隠れるようにして暮らしていくのだろう。

週末を控えた、今の私と同じように。


私は得意先の担当者の人物像だけでなく、記憶の再現をさらに周囲へと向かって広げていた。彼と同じ職場で働く他の職員たちの雰囲気はどんな感じだっただろうか。皆が一様に笑顔を絶やさず、外部からの急な訪問者にも笑顔を振る舞っていたはずだ。心身ともに過酷な仕事を強いられる職場にあって、常に笑顔を絶やさないというのは心から尊敬に値する。もちろん、その笑顔が当の本人の心の有り様を忠実に映しているのか、それとも単なる表情筋の無機質な運動の結果なのかは分からない。彼らにとってはそのどちらであっても特に問題はなく、きっと笑顔であり続けることが大切なのだろう。


先ほど降りてきたばかりの駅の階段を再び登り、反対側のホームで目的の電車を待つ間、私は自分自身が入社当時に今と同じように顧客に対して謝罪を行なった一つの出来事を思い出し始めていた。

長い間、私の記憶の倉庫の奥底に固くしまわれていた過去の出来事。

今日のような出来事が起こらなければ、今後もずっとその倉庫の片隅で埃を被ったままだったのかもしれない。突如、肩を叩かれて長い眠りから起こされたその記憶は私との久しぶりの再会をどこか照れるように、少し背を丸めたまま、じっとこちらを見ている。私は手招きして記憶をさらに呼び寄せ、その表面にそっと手を触れた。かつて自身に起きた出来事が私の中に緩やかに流れ込み、私の隅々にまで一瞬にして浸透していく。


それはちょうど今と同じような季節だった。新入社員に対する通り一辺の研修が終わり、自分一人で営業活動を始め出したころ、私はある新規顧客を怒らせてしまった。初めて一人で仕事を受注できたと喜んでいた矢先、肝心の契約の商品が事前に説明していた仕様とは異なる状態で相手方に納品されてしまったのだ。当然ながら向こうの担当者は「これでは話が違う」と私に説明を求めた。私はただ焦り、当時の先輩や上司に相談することもなく曖昧な説明を独断で彼に伝えた。今思えばそれはまともな説明になっておらず、弁明の道筋ですら蛇行しており、まるで話の要点を掴めないものだった。そしてその捻れを修復するために投入された次の言葉が、同じように新たな捻れを生んでいく。無意味な言葉を次々に発しながら、自分でも既に事態の収集が不可能だろうとは察知していたが、その時の私にはどうすることもできなかった。論理は全て破綻しており、胸の奥から聞こえてくる鼓動だけが次々と早くなる。全身の血管がパンパンに膨張しているのが分かる。視界は徐々に狭くなり、自分がこの世界の部外者であるかのような奇妙な感覚に陥る。芝居の舞台の上に役者ではない何者かが紛れ込んでいるような違和感。その元凶が自分自身であるという恥ずかしさ。


「もう結構です」と手に持った受話器から強い声が聞こえた。


それは斜め向かいに座っていた当時の上司にも聞こえたようで、彼は瞬時に怪訝な表情を私に向けた。「何事だ?大丈夫なのか」と、その視線は私にそう問いかけていた。私はすでに声の持ち主を失った受話器を力なく下ろして、そして上司の目を見返した。私の瞳の中に見え隠れする羞恥と罪悪の色を感じ取り、彼はおおよその事態を把握したようだった。そして私を小さな会議室へと連れ出し、決して焦ることなく私に状況の説明を求めた。


10分か20分が経っただろうか。私と上司は一連の事情を共有すると、互いの鞄を手に取ってすぐに客先へと向かった。まさに今と同じように電車に乗って。その道中、上司の言葉数は極めて少なく、私に対する明確な指示などもなかった。もともと寡黙な人柄だったので、私は特に気にはしていなかった。二人の間の沈黙にも殊更過剰な気まずさはない。普段通りの日常の空間。ただ、これからどのように事態が動いていくのかを全く分からない私は、まるでどこかに自分の心を置いてきたように、浮ついた足取りで上司を道案内していった。


私たちが得意先に到着すると、私は受付のスタッフに向かって事情を伝えた。既に顔馴染みになりつつあったその若い職員は一瞬だけ戸惑った表情を浮かべた。「少し、お待ちください」と言うと、彼女は廊下の奥へと静かに姿を消した。私たちの突然の訪問を担当者に伝えるのだろう。私は客先に事前に連絡しておこうかとも思ったが、上司がそれを却下したのだ。私はただ彼の意向に従うしかなかった。


少しの間を置いて、彼女が戻ってきた。「こちらへどうぞ」と簡潔に伝えて、私たちを担当者の部屋へと案内した。「それでは私はこちらで失礼します」と言って、彼女は自分の持ち場へと戻っていった。実に抑揚のないフラットな声色だった。どこまでも事務的に聞こえるが、かろうじて最低限の人情味を帯びている。この扉の向こうでこれから私たちを待つ出来事を、彼女はある程度は予想しているのだろう。「上手く立ち振る舞ってくださいね」と、そっと肩を撫でられたように私は感じた。私は彼女の言葉に少しだけ励まされ、すっと背筋を伸ばした。

上司は私の横にピタリと並んで立っている。軽く顎を傾けて、彼は私にドアをノックするように促した。何の事前説明も与えられないままに、私はドアをノックした、次にドアを開けた時にどうすれば良いのかもまるで分からないままに。


コン、コン、コン。


三つの連続する乾いた音が、私の自信の無さを的確に表現しているようだった。それは実に情けなく、腰が引けた音だった。

「どうぞ。お入りください」と部屋の中から担当者の声が聞こえた。

少し前に事務所の電話口で聞いた「もう結構です」という彼の言葉が脳裏に浮かび、目の前の言葉と重なった。幾分、その声色が柔らかくなっている気がした。私はドアノブを強く握って捻り、ゆっくりとドアを前へと押し出す。最初に私が数歩踏み出し、続けて上司が私の脇を通って部屋の中に入った。そして次の瞬間、私がどうするかと何かを考えるまでもなく、上司の力強い声がやや低い位置から部屋中に響いた。

「この度は、誠に申し訳ございませんでした」

咄嗟に私が横目で上司の姿を捉えると、そこには深々と頭を下げた彼の後頭部が見えた。

そしてほとんど反射的に、私も頭を下げていた。

「大変、すみませんでした」

私はそう言っているようだった。頭を下げるのと同時に、半ば叫んでいたのかもしれない。まるで映画やドラマの劇中で何度も見てきたお決まりの場面のようだった。もし先ほどの受付の女性職員がこの光景を見たのなら、彼女は一体何を思ったのだろうか。上手く立ち振る舞っていると納得するのだろうか。


気がつけば、ずっと同じ姿勢のまま上司は私の隣で何かを話していた。しかし私にはその言葉が一体何だったのかを詳しく思い出すことはできない。先方の担当者が「まずは頭を上げてください」と何度か言うまで、上司は深く頭を下げたまま、おそらくは謝罪の言葉を繰り返していた。その言葉たちの正確な姿を捉え、それらが持つ意味を心から理解することは当時の私には到底できなかった。なぜならその時の私は自分自身への侮蔑にも似た感情で全身が麻痺していたからだ。今回のミスが発覚した当初、その直接的な原因は私以外に起因したものだと考えていた。契約された商品が異なる仕様で納品されたことは私にとっても驚きの出来事で、もしかしたら私も被害を被ったのだと自分自身に暗示をかけることで、自身の責任を希釈しようとしていたのかもしれない。会社の担当部署からは「まあ、よくあることだからね」という言葉と何となくの理由だけを機械的に与えられたことも、私のそうした心の歪みに拍車をかける要素にしたのだろう。

大丈夫、これは俺だけの責任じゃない。そんな風に思い込むことで、私は何とか心を落ち着かせようとしていたのだ。


私は深呼吸した後に先方に電話をかけ、どうにか仔細を伝えようと思った。しかし私が説明を繰り返せば繰り返すほど、電話口の相手の機嫌が悪くなっていることに私は勘づいていた。それでも私は自己を肯定しながら釈明を続ける。

そして私は、相手から明確な怒りを受け取ることになった。

今にして思えば、それはごく自然な流れだ。


得意先の担当者は私の心を見透かして、その姿に怒っているのだ。納品ミスという業務上の出来事にではなく、私個人の心持ちに対して。自分には責任がないということを暗に仄めかし、自らの手の及ばない言わば不可抗力的な何かが原因なのだと力説している私に、心から怒っているのだ。


とても強く、そして鉄のように硬く。


つい先ほど部屋のドアを開けて上司が深々と頭を下げるその瞬間まで、私は一貫して同じ感情を持ったままだった。これは自分ではない何かの理由で偶発的に起こった出来事なのだと。

しかしそれは、私のただの願望でしかなかった。


上司が自分の眼前で深々と頭を下げて謝罪する姿を見て、文字通り雷に打たれたような衝撃が私の全身を貫いたのだ。その瞬間に私は全てを理解して、そして恥じた。自身の卑しさと軽薄さを。同時に、上司が何について謝っているのかということに気付いた。


彼は、「私」のことを詫びているのだ。


注文を受けた商品が、間違った仕様で納品されたことに対してではない。私自身の姿勢や心情について、もっと言えばある種の人間性について謝罪をしているのだと。

私はこれまで生きてきた中のどのような場面であれ、あれほど強く自分を恥じた瞬間はない。謝るべき者がその責務を果たさず、決してそうではない者が心の奥底から他者に対して謝っている。


それは何という馬鹿げた構図だろうか。


「お願いですから、もう頭を上げてください」

多分に懇願を含んだ声で先方の担当者は上司を説いた。上司はその声に相手の真願を得たのか徐々にゆっくりと、そして静かに頭を上げた。

「さあ、あなたも」。どうやら彼は私にも言っているようだった。

私は一呼吸置いてから、同じようにゆっくりと頭を上げた。その先にある得意先担当者の表情は、ようやく事態を打開できたことによる安堵からなのか、思いの他に明るいものだった。


「そこまで謝られたら、もう怒ることなんてできませんよ」と、彼は笑みを含みながら言った。

その通り、彼の声にはもはや怒りの感情はまるでなく、そこには私が知る人懐っこい笑顔があるだけだった。私は全身から大きな力が消えていくことを悟った。そして強く目を閉じた。私はすでに立っているのがやっとの状態だった。担当者はそうした私の素振りを気にかけ、目の前の革製のソファを軽く指さして、「どうぞ、お掛けください」と言った。私は上司の方を向いた。彼は軽く頷いてソファへと進み、そして浅く腰掛けた。私もできるだけ同じ所作で、彼の後に続いた。


それからしばらく、三人で会話をした。最初に私が今回の出来事について、あらためて全容を説明した。もちろん先ほどの電話の時とは違って他者への責任転嫁などについては触れず、ただただ私自身の心の内側を正直に示しながら、どうしてこうなったのかを説明した。頭に浮かぶ限りの正直な言葉を選びながら。その後、上司が業界的な悪しき慣習などについて、丁寧に追加の説明を行った。横で聞いている私にも彼の説明は合点がいくもので、同時にこれは彼の優しさなのだろうとも思った。彼は今回のミスの原因が本当に私ではないことを、あくまで客観的に示したのだ。それは実に高度な会話術だった。今は一旦鎮火したが、もしかしたら再度火に油を注ぐことにも繋がりかけない内容を多分に含んでいる。私は再び自分の脈が早くなっていることに気がついた。しかし私には彼の横で黙って話を聞くことしかできない。


私の心配をよそに担当者は大きく頷き、しばらく何かを考えているようだった。その間、上司は出されていた緑茶を静かに口にした。私は目の前の陶製の茶碗をじっと見ていた。何となく、口にするのが憚れたからだ。薄い緑色の茶から、ほんのりと甘い香りが伝わってくる。

「遠慮せず、どうぞ飲んでくださいよ。温かいうちにね」

私の気持ちを見透かしたように、担当者は言った。私は彼の言葉に素直に従った。私の喉はすでに渇き切っていた。極度の緊張に加えて様々な感情が入り混じり、その緑茶は不思議な味がした。そして、喉の渇きを癒してくれた。


担当者は私の様子を見て、そして言った。

「今回、この契約をしたのはあなたが何度も足を運んでくれて、あの商品のことを丁寧に説明してくれたからというのも理由の一つだったんですよ。仕様書を細部に亘って繰り返し説明して、私が少しでも分からないことは一度会社に持ち帰ってね。そして結果として私の要望に全て応えてくれた。あなたが新入社員であることは勿論知っていたし、どこかで過去の自分を思い出したのかもしれないですね。私も昔、あなたと同じように営業職の仕事をしていましたから。新規営業の仕事をしていると、早く自分で契約を取りたいと思うのは誰だって同じです。新人であれば余計に焦るのも無理はない。ただ、あなたは決して乱暴に話を進めなかったし、私がじっくりと考える時間をちゃんと確保してくれた。あくまでも商談の主導権はこちらにあり、そのことをあなたは正しく理解していた。だから、私はあなたを信用したんです。そして、今回の契約はあくまでも入口に過ぎないと思っていたんですよ。これから互いに良好な関係が築ければ、もっとあなたに仕事をしてもらおうと淡い期待すら抱いていたんですから」


彼は自分自身の思いを筋道立てて、まるで再整理するように話した。その目線はしっかりと私の方を向いていたが、その言葉は私の隣に座る上司に向けられていた。それは当時の私からすれば、より成熟した人間の物言いであり立ち居振る舞いであった。


私はあまりの恥ずかしさに、今にも押し潰されそうになっていた。



目の前の車窓の中を流れる景色をぼんやりと眺めながら、かつての出来事を眼前で思い出していたところで、上着の内ポケットに入れてあるスマートフォンが何度か細かく揺れた。

会社から支給されている黒いスマートフォンをそっと取り出して曇った画面を見ると、部下からのショートメールが一件届いていた。そこには小さな文字で先方の担当者の氏名や役職、そして今回の出来事の顛末が手短に記されていた。私はジャケットの内側ポケットに忍ばせている老眼鏡を取り出して軽く鼻にかけ、文字列の内容を読み解いていった。そして私は部下に感謝の言葉をごく短く、送り返した。

スマートフォンの時刻はデジタルで4時50分を示していた。もう間もなくで目的の駅に到着するだろう。駅から徒歩で十分ほどだろう。駅前の寂れた商店街を通り、新築の戸建てがずらりと並ぶ住宅地を抜けて小学校のグラウンドの横に目的の場所はある。この調子だと予定通り、五時過ぎには着けるだろう。私は車窓の中の景色を眺めながら、過去の出来事を再び記憶の倉庫に戻しながら、これから私が現実にすべきことに向き合った。


それからまもなくして、私が乗る電車は目的の駅へと到着した。聞き覚えのない不思議な乗降音と英語と中国語のアナウンスが不意に耳に響く。ドアが閉まるギリギリまで、人工的な音声が大きな音で案内を繰り返していた。

その駅は以前に訪れた時に比べて、その内部は綺麗に作り替えられていた。一体いつ改装したのだろうか。駅舎の各所に設置された案内サインには小さな文字で数種類の言語が記載されており、建物と人を照らす照明もより明るくなっているように感じた。ホームを降りて改札を出るまでの間にいくつかの売店や小綺麗なカフェなどが立ち並んでいる。電車を待つ間の小休止にはちょうど良いのだろう。そうした現代風の店舗群の一番端に、一軒の昔ながらの立ち食い蕎麦屋が並んでいることに私はちょっと安堵した。気後れすることなく利用できる店を見つけておくことは、どこに居ても大切なことだ。


たくさんの人たちが改札を通り抜けてホームへ、そして街へと吸い込まれていく。私も自分の歩みを止めることなく改札を出て、同じく大勢の群衆の一人として街へと降り立った。遥か遠くの太陽はすでにしっかりと傾き始め、目の前の私の影はぼんやりとした色調を描きながら大きく斜め後方に伸びていた。まるで、これから歩くことを嫌がっているかのように。重要な責務を抱えた私をまるで揶揄うかのように、少し意地悪な様子で。

私は、そんな自分の影を振り払うかのように大きく一歩を踏み出した。


受付で私は名刺を差し出し、今日の訪問の要件を伝えた。

木製のカウンターを挟んだ向こう側では、私と同年代らしき女性スタッフが小さく頷いていた。私の記憶の通り、施設のスタッフのユニフォームは小綺麗で清潔感のある服装だった。目の詰まった紺色のポロシャツには、左肩にオレンジ色の刺繍でこの施設のロゴマークが縫い付けられている。左胸のポケットにはアクリル製の社員証の小さなプレートがクリップで挟まれている。折り目がしっかりと入ったベージュ色の素朴なチノパンに底が厚い白色のスニーカー。いや、スニーカーと言うよりはもっと機能的な作業靴に近いものだろうか。仕事をしている時の足への負担に配慮しているのだろう。


「こちらへどうぞ」と彼女は言った。


その施設はエントランス部分が全面ガラス貼りの構造で、屋内への採光が最優先に考えられているようだった。ただ残念なことにこの時間は強い西陽の影響を受けて、目の前の空間が淡いオレンジのフィルターで覆われたように見えた。ガラスの壁の向こう側の植木の葉も、こちらに向かって太陽を反射させている。一足早く、初夏の悪戯があちらこちらで始まっているように思えた。


広々としたエントランスを真っ直ぐに抜けて右へと曲がり、私は長い廊下を案内された。施設内は至る箇所に木製の手摺が付けられている。跳ね上げ式のバーのような器具も、通路のいくつかの角には見える。階段やステップのような段差は僅かにもなく、必要不可欠な箇所にだけに緩やかなスロープが施されている。隅々まで丁寧によく磨かれた床がこれも西陽を反射している。


あたりはとても静かで、夕暮れ時の穏やかな空気が漂っている。受付の女性職員は私の少し前をゆっくりと歩いて先導していく。途中、目的の部屋に向かうまでに何組かの利用者たちとすれ違ったが、私は特に一瞥することもなく彼らの脇を静かに通り過ぎた。老人特有の、雨の日の草葉のような匂いが私の鼻に届いた。しかし、それは決して不快なものではなく、どこか懐かしくて安堵の気持ちを連想させる匂いだった。いつか自分の体からも同じような匂いがする時が来るのだろう。その事実を遺伝子レベルで記憶しているから、今は懐かしくさえ感じるのかもしれない。


長い廊下の突き当たりに目的の部屋があった。焦茶色をした重厚なドアの横の壁にはガラス製の展示ケースが配置されており、その中にはたくさんの写真が並べられている。たくさんの感謝状や記念の盾に数多くの書簡、そして一人の男性の肖像画も飾られていた。おそらくはこの施設、またはこの施設の母体となる法人の創設者なのだろうか。その男性はしっかりとした体格をしており、首周りや肩幅も広い。四角張った顎にははっきりとした力強さを感じる。髪は頭頂部にかけて白髪混じりで薄くなっているが、綺麗に整えられている。その眉毛は薄く、鼻の形状はいわゆる鉤鼻をしている。男の両目は内側から溢れ出る自信に満ちており、こちらをじっと見つめている。


画の中に描かれた男性は六十代の中頃に見えた。

人生で何かを成し遂げた時期にその姿を描かれたのだろうか。


会ったこともないこの男性に、私は僅かではあるが親しみを感じた。おそらく実際にこの男性に会えば、もっと強い感情を持つかもしれない。肖像画から受ける印象にしか過ぎないが、多くの人に好まれる人物の代表格のような人物に思えた。

「こちらで失礼します」と言うなり、受付の女性が踵を返して今来た廊下を戻っていった。おそらく彼女にはまだやるべき仕事があるのだろう。この業界が慢性的な人手不足の状態であることは誰もが知っている。それは極めて大きな社会課題にもなっている。しかしその問題は世間から冷たく放置されたまま、一向に改善する気配もなく、ただ硬直した時間だけが過ぎていく。おそらくはこの施設でも余剰の人員など居ないのだろう。必要とされる場所にその人間はおらず、そうでもない場所には無為に人が集まっている。謝るべき人が決して謝らず、そうではない人が日々深々と頭を下げているように。


私はほんの少しだけ目を閉じて、事前に用意していた説明の道筋を頭の中で反復した。最低限、その要点だけを整理する意味合いで。決して細部に亘って綿密に組み立てる必要はない。完璧に事前構成された原稿を読む行為など、おそらくはドアの向こうの人物も必要とはしていないだろう。それは謝罪ではなく単なる朗読に過ぎない。伝え忘れてはいけない事柄と、それらを述べる順序だけが事前に整理できていれば、あとは私の謝意が自ずと自分で道筋を開いていくはずだ。私の心が自然に伸びやかに動けるように、私は少しの介添をするだけで良い。何よりも心からの謝意を提示することが大切なのだから。

そして私は目を開けて、目の前の焦茶色のドアを数回ノックした。一瞬だけ触れただけだったが、ドアの重みが私に伝わってきた。

私はドアの横の肖像画にちらりと目をやった。同じ密度の重さがその画の中の男性からも伝わってきた。それらは寸分違わぬ、ぴたりと同じ重さだった。おそらくはこの男性が以前にこの部屋を利用していたのだろうか。ノックの返事を待つ刹那の内に、私の考えは思わぬところへと飛躍していた。肖像画を見た瞬間から、どうも自分の思考の経路が不安定になっているようだ。もしかしたら、謝罪の緊張感が心を乱しているのかもしれない。私はそう考えていた。


「どうぞ、中へ」と声がした。


私はそっとドアノブを回した。

そしてカチャリという音に合わせてゆっくりとドアを前に押した。

ドアの隙間から微かな風が流れ出て来るのを感じた。ドアの中と外の空気の密度を均衡に整えるために。この世界では必要な場所に必要な空気が決して止まることなく移動していく。まるで駅の改札を境に出たり入ったりを繰り返す、無数の人間のように。

部屋に入った私は、目の前に立つ人物を見て明らかに戸惑った。

これまで全く見たこともない男が部屋の中央に立ち、私を迎え入れたのだ。


「驚かせてしまい、申し訳ございません」


その見ず知らずの男は、私の気持ちを即座に見透かしたように言った。

「あなた方に固有の事情があるように、私どもにもちょっとした事情がありまして」


私はただ驚いたまま、男の言葉が続くのを待った。目を見開き、目の前の人物をじっと直視している。私よりも年上でおそらくは五十代の後半だろうか。上下ともに薄い灰色のスーツを着用している。それはシワ一つなく男の身体に馴染んでいる。よく磨かれた濃い茶色の革靴が、部屋の奥の窓から差し込む夕陽の光を受けて、眩しく輝いている。スーツの中のワイシャツは純白で、これも僅かな光沢を帯びている。ネクタイはしていないが、だらしなさは少しも感じさせない。体格が良くて姿勢も良い。背筋を伸ばし、左右対称に重心を配置して真っ直ぐに立ち、体をこちらに向けている。

「よろしいですか?」


彼は私の視線が自分の頭の先からつま先に移動し終えたことを確認して、そう言った。そしてその短い言葉に導かれるように彼の顔を見た時に、私は気づいた。

彼が先ほどの肖像画の男と、どことなく似ていることに。

おそらくは親子、少なくとも血縁関係にあることは間違いないだろう。よくある話何だろうと私は思った。街の名士の偉業をその子が継ぎ、それをさらに連鎖的に繋いでいく。

「実は、私どもの担当者が急な発熱で午後から欠勤となりまして」と彼は言った。そして机の上の名刺入れを手に取り、その中から一枚の名刺を取り出した。部屋の奥には大きな木製の机が置かれていた。分厚い一枚木の天板には幾重もの年輪が浮かび上がっている。この机もあの肖像画の男の持ち物だったのだろうか。机の上は綺麗に整頓されており、どこにでもある事務用の電話機が一台と金属製のペン立てとメモ帳が一組。そして銀色の極めて薄いノートパソコンと、今はすでに男の手の中にある名刺入れだけが置かれていた。

私は鞄を脇に置き、慌てて名刺入れを取り出した。一つ咳払いをして自分の名前を伝え、男に名刺を差し出した。男は両手で私の名刺を受け取ると、そこに書かれている内容をさっと読み終えて自分の名刺をそっと私に向けた。私は名刺を受け取り、彼と同じようにその情報を頭にしまい込んだ。二人の男が、互いの最低限の情報だけをスムーズに交換し終えた。


「代わりにあなたが来ることは、担当の者から聞いていました。今回の出来事の経緯も聞いています。彼は最低限の引き継ぎを私に行い、先ほど自宅へと帰りました。この施設の性格上、いつもの検査を終えてから。ああ、結果は大丈夫だったのでご心配なく。おそらく、このところ働き詰めで疲れていたのでしょう。ただ、念のために明日も休ませます」と彼は言った。

そして少しの間を置いた。何かを待っているように。私はようやく発言の機会を与えられたようだった。私はいくつかの候補の中から、もっとも今の自分の心情に近いものを探した。そしてそれは、ごく差し障りのない言葉だった。

「その方が良いでしょうね。無事に復帰されたら、よろしくお伝えください」

実際に言葉にしてみると、それは思っていた以上に差し障りがなく、私は少し恥ずかしくなった。そして私は本来の目的にふと立ち返り、男の目を見て急いで言葉を続けた。リレー走のバトンパスのように、言葉を次の場所へと送らないといけない。

「この度は誠に申し訳ありませんでした。本来なら私どもの担当の者が直接こちらに伺い、事情をお伝えしてお詫びしなければならないのですが、その者は現在遠方におりまして。迅速さを優先し、止むなく上司である私が伺った次第です」


そこまで言って私は頭を深く下げた。

そしてもう一度言った。

「本当に、申し訳ございません」


自分の中の謝意が、その意思できちんと現れたと私は思った。

そのことが私にとっては何よりも大切なことだった。それは「私」が意図的に操作するようなものではなく、「自ら」で浮かび上がり、動き出すべきものだ。

この最初のステップが功を奏したことで私は少し落ち着き、次の言葉が同じように適切に導かれるために心を整えた。


「もう結構ですよ、それ以上は」

そこで彼は短く言った。私が次の言葉を口にする前に、極めて端的に。

咄嗟に私は頭を上げ、相手の顔を見た。そこには怒りや憤りはなく、どちらかというとその口元には柔らかい笑みすら浮かべているようだった。

一切の他意を感じさせない、純粋な微笑み。

「先ほどお伝えしたように、今回の件の仔細については担当者から聞いています。ですので、あらためての経緯説明などは不要ですから」

私は彼の言葉に意表を突かれ、何も答えることができないでいた。ただ全く予想をしていなかった事態が目の前で起こっていることだけは、辛うじて理解していた。

私は彼に何かを試されているのだろうか。それとも彼の言葉の意味を正しく汲み取っていないのだろうか。

「私の言葉には表も裏もありませんので、どうぞご安心ください」

彼は私の心情をまたもや捕捉したのか、さらに柔らかな口調で言った。

そして言葉を続けた。


「順を追って言いましょう」

私の目を真っ直ぐに見て、そう言った。


「まず、これは繰り返しになりますが、私は今回の事情をすべて理解しています。何が原因でどのようなことがいつ起こり、現状はどの状態で留まっているのか。そして事態はこれからどのように解決の方向に向かうのかを。それはあなた側の担当者が事態の発覚後に速やかにこちらの担当者と連絡を取り合い、冷静に道筋を示してくれたからです。その点で言えば、担当の方は優秀な方に思えます。無駄に時間を浪費するのではなく、最短距離でこの事態を収束の方向へと向けた。ありがとうございます。手際が良い。そしてその彼は、おそらくは来週の極めて早い段階でこの場所を訪れ、こちらの者にあらためて謝罪をするでしょう。その時には私どもの担当者もきっと体調を戻しているでしょうし、もしかしたらその頃には代替えの品も届いているかもしれない。そうなると事態は完全に幕を下ろすことになります。担当者同士が互いに向き合い、両者の前には解決の品もすでに存在している。物語の幕引きの場面です。ここまでは理解していただけますね?」

「ええ、理解できます」と私は短く、しかしはっきりと答えた。気持ちにも偽りはない。そして彼の言葉を待った。

「つまり、そこに至るまでの道筋には、今この場所での出来事は必要とされていないということがポイントです」と、再び口元に笑みを浮かべながら彼は言った。

ここで私は彼に尋ねた。

「では私がこれ以上、あなたに何かを説明しようが謝ろうが、いずれ起こる事態にはあまり影響しないということですか?」

「そうです、その通りです。理解が早いですね。折角なのでさらに言えば、あまり影響しないではなく、まったく影響しないということです」

「なるほど」

私はとりあえず答えた。

彼の言葉の真の意図は、まだどこかに隠れているようだった。

「そして次の要点は、私があなたの謝罪をまったく求めていないということです。あなたはこの事態の直接的な当事者ではなく、あくまでも部下の方の代わりに来たに過ぎない」

「はい。しかし私は会社を代表して来たのですから、その意味では自分が当事者だと思っています」

それは、私の偽らざる気持ちだった。

「確かに外形的にはそうかもしれません。組織全体の視点で見れば。けど私は組織よりもあくまで個人を大切にする考えを持っています。組織とはあくまでも個人の集合体です」

私は彼の問いの真意が、まだうまく掴めずにいる。

「個と全体の関係の話です。出来事とは、そもそも一体どちらに起因するのでしょうか」、彼は言った。

「そう問われると個人です。言い換えれば組織の中の個人と言いましょうか」

「そうです。組織とは外形的な秩序であって、あくまでも本質は個人に起因します。私の考えにおいては、ですが」

「何となくですが、理解はできます」

「そうですか。ありがとうございます」

謝罪をするために訪れた場所で、私はその相手から「ありがとうございます」という言葉をかけられている。この状況にどのように向き合えば良いのか、そしてこれからどうすれば良いのか私には分からない。どうやら主導権は、私がこの部屋のドアを開けた時から目の前の男の傍にピッタリと寄り添い、そして彼を力強く味方しているようだった。部屋に掛けられたアナログ時計の二本の針が、ちょうど五時二十分を示していた。

「二人でこのまま立ち話というのもよろしくない。どうぞ、遠慮せずにそちらのソファにお座りください」


そう言いながら彼は木製の机の前に置かれた応接ソファを手で示し、私を促した。私は鞄をソファの脇にそっと置き、入り口に近い方の席に腰を掛けた。彼はその間、机の上の電話機の受話器を取り、内線で職員に何かを指示していた。どうやら飲み物を何かを運ぶように頼んでいるようだ。そして振り返ってソファに近づき、ジャケットの一番上のボタンを慣れた手つきで片手で外し、私の向かいの席にゆっくりと座った。黒い革製のソファと、彼が着る灰色のスーツとのモノトーンのコントラストが実に見事な調和を作り出していた。

「繰り返しになりますが、あなたは担当の方の代わりにここへ来た」

「はい」

「そして私も同様に、あくまで代わりの者です」

 彼はまるで幼い子どもを諭すように言った。

「私どもの担当者は急な体調不良でこの場から去った」

「そのようですね」

「つまり、二人の担当者はそれぞれに止むを得ない理由で、当事者たり得ない状況にある。あくまでも今この瞬間に限ってのことですが」

「ええ」

「当事者ではなく代わりの者たちだけが向き合っているのが、今この場面となります。そして私にはこれが何を意味するのかが、分からない」

「それぞれが、所属する組織の一員として代役としての任を負っているのでは?」

「そうです。私も社会通念上はそうだと認識していますが、その実、心の奥底の方ではどうにも理解できない。さらに言えば、まったく無意味な行為だと捉えています」


私は再び返答に窮してしまった。

他者が信じる価値観について、即座にどうこうと言うことは難しい。


「誤解してほしくないのですが、あなたの謝罪に価値がないと言っているわけではありません。先ほどのあなたの言葉からは、きちんとした謝意を受け取ることができました。大き過ぎず、小さ過ぎもない、今回の事態に相応しい謝意を。その点では心配しないでください」


私にはまだ話すべき言葉が見つからない。手元には沈黙のカードだけが何枚も溜まっていく。

「人が考えることを、どう理解するべきか。これはとても難しい作業です。この地球上で飛び抜けた知性を持つに至った人間という生物だけに与えられた特権ですが、だからこそ人間を取り巻くすべての問題が、この出発点から生まれてきます。自分の目の前にいる人間が考えることをどう理解するのか。あなたはおそらく聡明な方だから、先程から私が話していることをどのように理解しようかと懸命に考えているでしょう。私が社会の常識から少しはみ出した見解をずっと述べているのですから。しかもほとんど、一方的にね」

彼は再び口元に笑みを浮かべた。おそらくは彼の癖の一つなのだろう。

「そうだと思います」と私は言った。

彼の笑みが私の言葉を引き出したようだった。

「あなたの見解をどう受け止めて、自分なりにどのように理解すべきか迷っています。理解できる部分もあるし、完全に理解しようとすると何かが矛盾するようにも思える」

「ええ、そうでしょう。私にはその気持ちが何なのか、分かります。もし私の考えをそのまま受け入れると、ここにいるあなたの存在意義が失われてしまうことになる。それが矛盾に近い感情を想起させているのではないでしょうか。自分がまったく無駄なことをしているなど、誰しも積極的に認めることはできないものです。あなたのその感じ方は、極めて正常だと思います」


そこまで言って、彼は入り口にさっと目をやった。

ほぼ同時にノックの音が数回鳴り、ドアがそっと開いた。先ほどの受付の女性職員がペットボトルの緑茶を二本、トレイに乗せて運んできた。金属性のトレイには小さなグラスも二つ乗せられている。彼女は無言でソファに近づき、最初に私の前にペットボトルの緑茶とグラスを置き、ついで彼の前にも同様にセットした。そして空になったトレイを小脇に持ち、軽く会釈をしてドアから静かに去っていった。扉の閉まる音が、微かに部屋に響いた。

二つの小さなグラスは充分に冷やされており、その表面には細かく透明な水滴がいくつも浮かび上がっていた。

「味気ないでしょう。せっかくの来客にペットボトル入りの緑茶だなんて。このご時世、気にかけないといけない事が多分に増えてしまいました」

「お気遣いなく。ただ、確かに少し面倒になりました」

「最近になって幾分かはマシになりましたが。大きな変化の代償とでも言いましょうか、今度は以前と同じ慣習に戻ることが難しくなっている。そのように感じませんか?」


そう言いながら、彼は緑茶を手で指し示した。どうぞ、という意味を込めて。

「そうですね」と私は言いながら、目の前に置かれたペットボトルの緑茶をよく冷えたグラスに注ぎ入れ、一口飲んだ。それは冷たくて、とても美味しい緑茶だった。私は思わずペットボトルのラベルに記載された製造元の会社を見たが、それは見たことも聞いたこともない会社だった。

「口に合えば、何よりです」と彼は言った。そしてペットボトルの封を切り、直接口をつけた。その動作は決して無作法には見えなかった。水滴を帯びたもう一つのグラスが残念そうに佇んでいた。

「私どものグループの会社が製造しています。一般には流通していないもので、各施設や関連する企業だけで取り扱っています。この数年間の変化に対応するための次善の策です。お客様に既製品を出すことにどうしても抵抗を感じるもので。それならば、自分たちで作ってしまえば良いと思い立ちました。その結果がこれです」

「とても良い味です。市販されていないのが残念です」

「ありがとうございます。私も気に入っています。変化の中で生まれた、僅かな楽しみの一つです」

そう言って、彼はごくりと大きく緑茶をあおった。


「先ほどの話ですが」と私は言った。

喉はもう乾いてはいなかった。

「つまりは、こういうことでしょうか。個人に起因した出来事は、その個人にこそ帰結すべきだと」


私はできるだけ端的に、彼の見解を言葉に表してみた。彼の言葉から私の言葉へと再構築し直して。

「はい。そういうことです。言葉にすれば実に単純な響きですよね」と彼は言った。そして、例の特有の笑みを浮かべて言葉を続けた。

「あなたは賢い方だ。今のところ、まったく問題ない」

私は彼が口にした二つ目のセンテンスにやや違和感を覚えたが、そのままにしておいた。もはや当初の役割を完全に失った私は、これからどうすれば良いのかも依然として分からない。しかし彼が考える特殊な概念の、ごく一部の断片を捉えることはできたようだ。かろうじて、及第点なのだろう。


私は彼にさらに尋ねた。

「個人から生まれた出来事を、その個人以外のどこかに帰結するとどうなるのですか? それはごく普通に行われているようにも思えるのですが」

つい咄嗟に質問してみたものの、私には自分が投げかけた言葉の真意が完全には理解できていない。それは少し前まで私の中にはなかったアイデアで、確かに分かる筈もないのだ。この社会では個人の問題が全体にまで及び、結果的には個人の領域を越えてしまうことなど日常茶飯事だ。現にこの場にいる私がそうだろう。彼の予期せぬ発言で、すでにその役割を失ったとはいえ、所属する会社という組織を代表してこうして謝罪しに来た。個人から生まれた事柄を組織に帰結する役割を明確に担って。もし仮に、目の前の男が私の謝罪を拒絶することなく当たり前のように受け入れていれば、今この瞬間と比べて一体何が変わっていたというのだろうか。そこに確かな変化などあるというのか。私にはやはり、さっぱりと分からない。

彼は手にしたペットボトルを応接机の上に置いて、穏やかに言った。


「例えば、一番上の引き出しから取り出した物を、一番下の引き出しにしまうとしましょう。そうすれば物の居場所が変わり、必然的に秩序も変わります。それぞれの引き出しには固有の容量が決められていて、それに応じた物たちが適切に収められています。それぞれが個でありながらも、全体として見れば一定の秩序を形成している」


彼は私の目を見るのではなく私たち二人の前の空間を眺めながら、そう言った。私は彼の言葉を頭の中で反復させて、その意味を追いかけた。

「あくまでもイメージとして捉えてください。このように私が語ることに、他者にとっての重要な意味は含まれていないのかもしれない」

「どうぞ、続けてください」と私は返した。

まるで自分がホストであるかのような言い方で。

「それまで一定の秩序を保って収められていた物が、無作為に別の場所に収納されていく。次々に連続して。まるで何か大掛かりな引越し作業でもしているかのように。それでも全体を構成している個の数や形状、それらが持つ個としての情報に変わりはない。決して物そのものが変化するわけではないのだから、構成要素に違いはない。しかし、それらの居場所が変わることによって、確実に全体としては変容することになる」

「そのことに、違和感を覚えるのですね?」

「そうです。その変容が良いことなのか悪いことなのかは推し量ることはできません。ただ、それが自然なことではないと強く感じるのです」

「しかし、それが変化なのでは?」

「今言った引き出しは、あくまで例えです。その物理的な容量の設定なども。仮に一番上と一番下の引き出しの容量に決定的な差があるとしましょう。そうですね、下の引き出しの容量は上に比べて、半分にも満たない。そんな状態にも関わらず、上の引き出しにしまわれている物を次から次へと下の引き出しに入れ替える。物理的な容量がいっぱいになれば、その時点でもう下へと何も入れることはできない筈です。それでもさらに無理して入れ続ければ、下の引き出しそのものが壊れるでしょう。その中に入れたものと一緒になって」

今度は私の目をしっかりと見つめながら、問いかけた。

「そうだと思います」、私は答える。

「それでは引き出しの中にあるのが、責任という名の観念だとしたらどうでしょう。今回の私たちの事例に置き換えてみて」

私は少し考えた。

そして今度は私が彼の意図を汲み取るように答えた。

「責任という観念には物理的な容量はない」

「そうです。それはあくまで人間が想起するものです。決して容量を測れる物質ではない」

彼の瞳は先ほどまでに比べて、やや輝いているようだった。彼は続ける。

「あくまでもイメージです。それこそ概念の話です。本来帰結すべき場所とは異なる場所に、そうした無数の観念が押し込まれていく。その場所には物理的な容量制限はありません。あなたが指摘するように、それこそが変化や変容というものなのかもしれない。その行為を繰り返すことで、間違いなく全体としては構成や秩序が変わっていくのですから」


彼は私の言葉を待つこともなく、自らの考えを更に言語化していく。


「私にはそれが不快に感じるのです。別の場所に半ば強制的に押し込まれた観念が、次に新たな秩序を生み出すとはとても思えないのです。その先にあるのは、単純な消失でしかないと思うのです。すでにあった秩序は今ではもう緩やかに崩れてしまっている。まるで、きつく縛った靴紐が徐々に解かれて、気がつけば紐としての役割を失ってしまっているかのように。それが不快であり、同時に残念でならないのです」

そこまで言って彼は再びペットボトルを口に運んだ。今度は一切の音もなく、そっと緑茶を体内に流し込んだ。私は黙っている。


「個人が集まることで、全体を形作っていく」

彼の声は冷静そのものだった。目の輝きも穏やかだ。


「個人の結びつきが増えることで全体となり、一定の秩序を生み出していく。その総体的な存在こそが私たちの社会だと認識しています。社会には数多くの組織も含まれています。そしてそれらの日々の営みの中で、様々な観念や概念が生まれてきます。今回の責任という観念もその中の一つです。私が好むと好まざるとに関わらず、それらの観念たちが結果的に、そして止むを得ず本来の居場所とは異なる処に移行することで全体としての秩序は脆くなっていく。それは避けようのないことです。秩序を生み、そして同時に壊していくことが人間の『生』そのものなのかもしれません。しかし私個人にあっては、少なくとも私の手の及ぶ範囲においては、そうした流れに抗いたいと強く思うのです」

彼の言葉は、やや軽やかになっていた。


自身の考え、それこそ観念を彼の言う本来の居場所に返したのだろう。私は彼の考えを少しは理解したが、決して共感したわけではない。極めて興味深い考えだとは思うが、私自身は世の中の姿や理について、彼のように思いを巡らせた経験があまりない。自らに経験がない出来事を強く実感できるほど私は若くはないし、それほどまでに多感でもないからだ。


彼が話す言葉を額面通りに受け入れるなら、部下の代わりとして謝罪をするためにこの場所を訪れた私にとって、もはやするべきことは残されていない。目の前の緑茶を飲み終えて、同じく目の前の男と少しばかり雑談でもすれば時間的にも頃合いが良いだろう。そして私はこの場を去り、週が明けて部下が入れ替わりにこの場所を訪れる。当事者同士があらためて顔を向き合わせて話し合い、スキージャンプの着地のようにできるだけ滑らかで最良の終着を描こうとするだろう。そして今回の出来事は日常の一部として、彼が言う適切な居場所へと運ばれる。

しかし私には、なぜかそうする気持ちが起こらなかった。確かに私にとっては、代役としての役目はもう何も残されていないのだろう。

けど、ここには代役ではない私という人間が残されているではないか。


私自身は、ここで何をするべきなのだろう。

愚直にも、私はそれを彼に尋ねてみたくなった。私からの問いかけに、彼は一体、何を答えるのだろうかと。

「ひとつだけ、何か私にできることはないでしょうか?」と私は彼に言った。

「話をしてみて、あなたの考えを知りました。正直なところ私がこれまでの人生で出会ったことのない類の考えなので、頭では理解はしているつもりですが、正直なところ共感はしていません。決して悪気はなく、ただ共感できないだけです」

「それで結構です。私も共感を求めていません。ごく僅かでも理解していただいただけで充分です。そんな人はこれまでにも数えるほどしかいなかったですし」


彼は本心を話しているようだった。私にはそれが少し嬉しく思えた。

「あなたには私からの謝罪が必要ではないことも承知しています。つまり結論から言えば、ここではもう私がすることは何もない。あるとすれば、あなたとの雑談くらいのものです。そしてあなたはおそらくは、そこまで暇を持て余してはいないでしょう」

「つまり?」、彼は私を促す。

「このまま帰るには、私の何かが後ろ髪を引いています。代役に過ぎない者がその務めを果たす前に任を解かれて、ただ呆然としている状態に近い。あなたからすれば、それは務めではないのかも知れませんが。いずれにせよ、ピンチの場面でピッチャーマウンドに上がったのは良いものの、一球も投じることなくマウンドを去るようなものです。しかも充分に肩は温まっているのにマウンドで投球練習すらしていない」

あまり上手な例えではないな、と私は思った。仕方がない、私はまだ彼の考えを自らの全身に浸透できていないのだから。

彼は短く頷き、私の次の言葉を予想しているようだった。

私は言った。

「ですから今、私にできる何かひとつのことを済ませてから帰ろうと思います。あなたが望む、何かひとつを」

彼は両目を少し細めて、言葉にはならない小さな吐息を発した。そして言った。

「私が望む何かひとつのことを、あなたが行うと?」

「そうです。もちろん常識的、倫理的に許される範囲においてですが」

「それは、代役としての務めではなく?」

「ええ。私はとうに代役ではなくなっているようですから。それにあなたも代役の行為はこれ以上必要としていない」

「なるほど」と彼は言った。


そう、彼もすでに代役ではないのだ。


「どうでしょう? 何か私にできることがありますか」

私の言葉をあらためて咀嚼するように彼は両目を瞬き、そして更に細めた。瞼はほとんど閉じられている。それが呼吸するために必要な、最低限の隙間だけを開けていた。瞳の奥では私からの問いかけに対する答えを導き出そうと、彼の理性が猛烈な勢いで与えられた務めを果たしているようだった。それらは四方を飛び回り、ぶつかり、時には弾け、互いにもたれ合う。そしてやがてその動きは緩慢になり、ひとつの箇所に留まり始める。まるでアイススケートの演目の最後のスピン動作のように。しばらくしてそれらは完全に制止して、動きの残像だけを残して違う何かに変容する。


彼からの具体的な回答を待つ間に、私の脳裏には先ほど電車の中で思い出していた過去の記憶が再び現れていた。あの謝罪の場面の何が私をこうも捉えるのかは分からない。もしかしたら、先ほどからの彼との会話を経て、今までとは異なる解釈が私の中で可能になっているのだろうか。彼が話した「個と全体」の関係性に照らし合わせて。個人の過失が誰かに代理で扱われ、結果的には組織の中に組み込まれていく。目の前の彼は、この当たり前の出来事をなぜそこまで嫌うのだろう。あの当時、私と上司は謝罪するために二人で得意先の元へと向かった。今日と同じように電車で移動をして。そして私の上司は相手に会うなり、即座に「私」のことを詫びた。深々と頭を下げる上司を見て、私はそこで自らの本当の過ちに気がついた。


そうだ。

私の過ちはその瞬間に初めて、私の目の前に現れたのだ。過ちの本当の姿から無意識に目を背けて、ただ都合の良い何かに理由を押し付けて私の代用品として弄んだ。上司の謝罪によってそんな幻は一瞬で消え去り、私の眼前には過ちそのものが笑いながら姿を現した。


過ちの本当の姿とは、目を細めてニタリと笑う私自身だったのだ。

今でも目を閉じれば、あの時自分の前を通り過ぎていった出来事が、順番通りに正確に現れる。これまで何度となく思い起こしてきた事実が、また繰り返される。

あの時私から起因したことは、一体どこに帰結したのだろうか。

それは彼が言うように、正しい居場所へと無事に辿り着いたのだろうか。


私はそのことが分からずに、きっと何度も同じ光景を目にするのだろう。

事実という樹木の幹は常にひとつだが、その解釈の枝葉は際限なく広がっていく。時として新緑の頃のあの生命力に満ち溢れた木々のように。一つひとつの解釈の枝葉はぎっしりと折り重なり、隙間なく宙へと茂り、更に外に向かって貪欲に広がっていく。特有の匂いを伴って、目が眩むほどの太陽の眩しい光をその葉の隅々にまで浴びながら。


それが時として人間を、私たちを苦しめる。


しばらくして、重い腰を上げるように彼は言った。

「ひとつだけ、お願いできることがあります」

彼は少しだけ目線を上空に上げ、そしてすぐに私の両目の高さに戻した。

何かを確かめるような動きだ。自分の提案がこの場面に相応しいのかを確かめたのだろう。

「ちなみにそれは、世間一般的な常識と倫理の範囲に収まっていますか?」

私は念の為に彼に尋ねた。そうであることは、すでに分かってはいるが。

「ええ。もちろんです」

彼の返事は、過去に何度も聞いたことがあるような響きがした。端的で必要不可欠な要素しかない。私は少しだけ自分の記憶を遡る。今日これまでに、同じ響きを一体何度聞いたのだろうか。しかし私の呼びかけに、正確な記憶は姿を見せてくれない。

彼は意を決したように、同じ調子で次の言葉を続けた。

「あなたに、ある人に会ってもらいたい。それが私からあなたへのお願いです」

私はその言葉を聞き、即座に自分でも驚くほどに大きく頷いていた。

「では、そうしましょう」と私は言っていた。

彼と会話をする中で、それは最も自分らしい言葉のように聞こえた。私の中で生まれ、何かに影響を受けることなく帰結して、外部に出現した言葉だった。


彼と私はその部屋を出て、廊下を戻るようにしてエントランスに向かった。私たちの姿に気づいた受付の職員がこちらに目をやった。その視線を彼は軽く手で制し、二人にはまだやるべきことがあることを暗に示した。

私がここを立ち去るのは、もうしばらく後だ。

受付の手前を左に曲がり、最初に来た道とは反対側に進んだ。まもなくガラス越しにテニスコートほどの広さの中庭が見えた。よく手入れされた芝生が青々と茂っている。おそらく日中には利用者たちが太陽の光を浴びながらこの場所で談笑し、寛ぎ、あるいは軽い運動で汗を流すのだろう。木製の白いベンチが傾いた陽の光をその全身に受け、薄暗い影を芝の上に細長く伸ばしていた。まるで生き物のようにゆっくりと、徐々にその闇が芝の緑を占拠していく。もうすぐ、陽が沈む時間だ。


彼は私の前を無言でゆっくりと進んだ。常に廊下の端を歩いて。私は施設の中の様子をぼんやりと目に映しながら彼の後に続いた。今は特に話すこともない。

私はこれから誰かに会う。それがこの場所で私にできる唯一のことなのだろう。


私たちの前にエレベーターが現れた。そのドアが開くのを無言のまま待ち、そして音もなく中へと入る。彼は最上階にあたる四階のボタンを軽く押した。ボタンの文字が即座にオレンジ色へと変わり、同時にゆっくりとドアが閉まった。その金属製の四角い箱は実に静かに、そして滑らかに私たちを「上」へと運んでいく。大切なものが決して壊れないように両手で優しく包み込み、そっと静かに秘密の場所へと運ぶように。

機械音の合図とともにドアが開いた。彼が先にエレベーターから出て、私がそれに続く。役目を終えた四角い箱は、目を瞑るようにドアを閉めた。

「どうぞ」、彼は再び私を案内する。

この階は利用者たちの居室部分なのだろう。廊下の両側には焦茶色の上品なドアがいくつも見える。廊下の床は乳白色で一階と同様に綺麗に磨き上げられている。真っ白な壁の腰の高さあたりには、薄茶色の手すりが一列に設置されている。天井は空間が高く確保されており、圧迫感を感じさせない。無機質ではないが過剰に華美でもない、その中間の佇まいだ。

いくつかのドアを通り越して、私たちは廊下の一番奥まで歩いた。右手の部屋の方を向きながら、彼は私の顔を覗き込んで言った。

「この部屋の中に、あなたに会ってほしい人がいます」

その表情は、最後にもう一度自分を確かめているように見えた。私をその人間に合わせることが、果たして彼にとって本当に正しいのかを。


「よろしいですか?」と彼は続けた。

どうやら彼の中で自身への答えが出たようだ。

「はい」とだけ、私は応えた。

そのドアには鍵は掛かっていないようだった。

彼はドアノブを回し、静かにドアを開けた。


部屋の中は薄暗がりだった。

一般的な住居と同じようにまずは玄関があり、小さな靴箱が脇に据えられていた。玄関から廊下部分へは段差は一切なく、私たちは玄関で靴を脱いだ。そして三メートルほど廊下を進むと、そこには居室が広がっていた。壁に付けられた照明スイッチを彼が操作した。少しだけ居室部分の明かりが強くなった。床はフローリングで、やや足の裏に弾力を感じる。おそらくは利用者が安易に滑らないような素材なのだろう。また、万が一転倒した際に極力怪我をしないように。部屋の壁は白く、ここには手摺は設置されていない。十五畳ほどの広さはあるだろうか。部屋の一番奥は全面がガラス戸になっており、今は紺色のカーテンが敷かれていて外の景色は見えない。居室に入ってすぐ左手に洗面台があり、オーバル状の大きな鏡が付けられている。その反対側には剥き出しの便器が見える。コの字状の壁が、トイレ部分と居室スペースとの境としての機能を果たしていた。私は視線を左右に動かして、ざっと部屋の中を見渡した。それは彼にとっては別段失礼な行為とは映らなかったようだ。

そしてまもなく私は部屋の左奥に一台のベッドを見つけた。彼はゆっくりとそのベッドへと向かった。私もそれに続く。どうやら私たちは目的の場所へ近づいているようだった。

こうした介護施設に関して、そしてそこで必要とされる様々な器具などについて、私はあまり詳しくはない。幸いにも故郷に住む両親は二人とも未だ健在で、彼らがそれを必要とするのはまだまだ先のことだと思っている。しかし今、自分の目の前にある特殊な形状のベッドが、介護用の専門的なものであることは私にも分かる。

そしてそこに横たわりながら、じっと目を閉じたままの老人が極めて高度な介護や医療を必要とする状況にあり、おそらくは意識と無意識の狭間を繰り返し行き来しているということも。


「私がこの方に会うことが、あなたの望みなのですね」

私はベッドに横たわる老人から視線を外すことなく、彼に尋ねた。

「ええ、そうです」と彼は言った。

「ではこれで、私の役目は終わったのでしょうか?」

私はベッドの老人を見つめながら素直な気持ちで言った。

老人は目を閉じたままだった。唇にはわずかな隙間が見えるが、呼吸音は定かには聞こえない。

若い頃は屈強な体つきをしていたのだろう。着ている水色と白色のストライプのパジャマ越しに、その骨格の頑強さが見てとれる。残念ながら今では痩せてしまい、その立派な骨格がかえって老いを強く印象づけている。かろうじて側頭部にだけ生えている髪はほとんど白く、極めて短く刈り揃えられている。肌の色はまるで陶器の置物のように青白く、体内を流れているはずの血液の温かみはどこにも見受けられない。彼を取り囲む空気もまるで静止しているようだ。彼の周りだけでなく、この部屋の空気全体が行き場を失って、仕方なく止まっているのだろう。私は無性に部屋の奥のガラス戸を開けたくなったが、その誘惑に堪えた。それは、今の私がすべきことではない。


私の問い掛けに、彼は無言のままだった。私は彼の方を向き、その顔を見た。

彼は何かを考えているらしく、つい先ほどまでの私と同じようにじっと老人を見つめていた。何かを思案する彼の目に浮かぶ微かな感情の揺れが、私にまで伝わってきたようだった。


そして、私はあることに気がついた。

この老人は、おそらくは彼の父親なのだろう。

彼が最初に私を待っていた部屋の入り口付近に飾られた、一枚の肖像画。その画の世界の中から、見る者に不思議な親しみを与えている男。その男は自身の輝かしい人生の思い出を携えて、ほんの少し前には絵の中から確かにじっと私を見つめていた。

目の前に、その本人が横たわっている。


肖像画とは異なり、その目を閉じたままで。


「ちょうど一年前に、父はご覧のような昏睡状態になりました。それまでは自身が建てたこの施設で利用者たちに慕われながら、ゆっくりとした余生を過ごしていました」と、彼は語り始めた。

「何の前触れもなく、脳のごく僅かな部分の血管が小さく破れ、そこから勢いよく流れ出た血が脳内に溜まったのです。世間一般で言うところの脳卒中という状態です。優秀な医師の処置で辛うじて一命は取り留めましたが、それから今までのところ残念ながら父の意識は戻っていません」

老人の右腕には点滴のためなのだろうか、二本の細い管が通されてある。ベッドの傍らには心拍数の数値を示すデジタルモニターが黙って仕事をしている。

私は彼の言葉の続きを待った。


「十年ほど前に私は父の仕事を継ぎ、段階を経ながら徐々に全体を掌握してきました。父は一代でここまで事業を拡げた、いわゆる叩き上げの人間です。この地を基盤として様々な事業に手を出し、時として失敗も繰り返し、それでも粘り強く多くの人に支えられながら一財を成すことに成功しました。この介護施設もその中の一つです。今のような高齢化社会の到来を早く見定め、二十代の頃から介護関連の事業に手を出していたようです。何度も挫折したと、私は父に繰り返し聞かされていました。それだけに他の分野の事業に比べて父の思い入れは強いのでしょう。自らの老齢期が訪れると、どこかの穏やかな療養地に終の住処を構えるのではなく、父が初めて建設したこの場所へ、自らの意思で入ったのです」

彼の言葉は澱みなく、まるで何度も練習していた台詞のように滑らかだった。

「もちろん、最初は近親者も賛同できないでいました。父はここで特別なサービスを求めることもなく、他の利用者の方々とまったく同じ生活を望み、そして嬉々としていたからです。それは父のような社会的立場の人間にしては極めて慎ましく質素な生活と言えます。衣食住のすべてが整えられているとは言え、お世辞にも上質のものとは言えません。私もしばらくは父の気持ちを理解することができませんでしたが、先ほど歩いてきた中庭で利用者の方々と笑顔で談笑する父の日常を見ていると、何となく父の思いが分かるような気がしました。あくまで、何となくですが」

そこで彼は次の適切な地点を探すかのように、少しだけ時間を置いた。

「自身の原点が理想化された場所、とでも言いましょうか。父が世界中に自分の可能性を誇示しようと息巻いていた若い頃、その心の中にあったある種の理想がここにはあるのかも知れません。自らの夢の原型とでも言うべき、何かが」

彼はベッドに横たわる年老いた父親を見ながら言った。

「何となくですが、理解はできます」と私は言った。

本当に、そう思ったからだ。

彼は少し安堵したように私を見て、そしてまた目線をベッドの上へと戻した。彼の額には、うっすらと小さな無数の汗が浮かんでいた。決して緊張している様子には見えなかったが、やはり気持ちが揺らいでいるのだろう。誰にとっても心情の告白は、心地良いものではない。

私は彼を真似るように、真っ白いシーツが敷かれたベッドの上に静かに横たわる彼の父親の姿を見た。そうすることで、より彼の心情の底に近づけるような気がしたからだ。


目の前の一人の老人は、先ほどまでと同じ姿勢を保ったままだった。

目を閉じ、ほんの少しだけ口を開き、その四肢はまるで主に仕えるための糸が切れたように無造作にベッドの上に置かれている。

「元気な頃は実に生命力に満ち溢れた人でした。常に人だかりの中心に居て周囲の人を飽きさせず、結果的には笑顔にする。いつも人懐っこい笑顔を浮かべて、誰とでも分け隔てなく接する。子である私に対してもそれは同じでした。私は幼い頃からそんな父のことが好きだったし、また憧れてもいました。子が親に抱くストレートな感情だと思います。男子が自らの父親に抱く特別な感情です。目の前にそびえる高い壁。母親のそれとは違い、時には厳しく、そして大きく自分を包み込む存在」

「わかります」と私は言った。それは自分でも分かるくらいに、か細い小さな声だった。私の言葉を聞き、彼は例の笑みを口元に浮かべた。


私は彼のそんな仕草を目で捉えながらも、心の中では故郷で暮らす両親の姿を思い出していた。


私の両親は今この時間に何をしているのだろうか。

遠く離れた実家では、母が夕飯の支度をしている頃だろうか。木造の平家づくりの大きな家。そこに暮らす父と母と、一匹の老齢になる犬。家業でもある果樹園は家の裏手にどこまでも広く、段々と下りながら眼下に広がっている。毎年、収穫の季節になると段ボールいっぱいの果物を私に送ってくれる。私はそれらが痛んでしまう前に職場の同僚や近しい知人に配り、そして彼らからはお世辞ではない感謝の言葉を受け取る。


「すごく甘いし美味しいと、みんな喜んでいたよ。ありがとう」と、私は電話で母に伝える。

「そりゃ、何よりやわ。足らなかったらまた送るから言うてよ」


 嬉しそうな母の声が、私の体を隅々まで和らげていく。


「お父さん、今お風呂に入っているから電話には出られんわ。また言うておくからね」

「うん、よろしく伝えておいて。二人とも無理しないでよ」

「わかっとるよ。したくても、もう無理できないようになっとるわ」


電話口で母が勢いよく笑った。

私の目には、母の笑顔がはっきりと映っていた。

これは今年か去年か、それともさらに遠い昔の会話だったのだろうか。


ぼんやりと宙を見つめる私に気を遣うように、彼は静かに言った。

「いつか私が父を追い越すことが、父にとっても幸せなのだろう。その時が来た時に私自身が何を思うのかは分かりませんが、少なくとも私はそう信じながら父の背中を追いかけていました」

部屋のカーテンの向こう側の外の世界は、すっかりと陽が沈んだようだった。

「そして、まもなくその時が訪れるのだろうと明確に意識し始めた頃、その翌日には事態が大きく変わってしまいました」

彼は瞼を大きく閉じ、そして開いた。同じ動きを何度か繰り返し、そして最後はパチパチと両目を瞬いた。まるで目の前の父親ができないことを、その代わりに行うように。きっと、彼はいつもそうしているのだろう。

「主治医の話によれば、父の状態が改善するかどうかは正直分からないそうです。このまま時間だけが同じように過ぎていくのか。それともある時、父は何事も無かったように目を覚ますのか。もしくはそのどちらでもない結末がやって来るのか。ただ元来の生命力のお陰なのでしょう、すぐに重篤な状況に陥る可能性も少ないようです。命を維持するだけの栄養素も、味気ない表現ですが適切に送ることができるので」

彼は、父親の顔をじっと見つめている。

「この施設にいる時には、私は日に何度か父の様子をこうして見に来ます。ただこうして父の顔を見ながら、彼の本意がどこにあるのかを理解しようとしています。おそらくは、それが的外れな行為だとも知りながら」


私は何も言わず、彼の言葉を聞いていた。


「今、父は一体何を思っているのでしょうか。彼が若かりし頃に思い描いた理想の世界の中には、私との『この瞬間』も含まれているのでしょうか。それともすでに、何かを思うことすらできていないのでしょうか。そうだとしたら父は今、無限に続くとも思える真っ暗な闇の中で、ただただ存在しているだけなのでしょうか。そしてそれは、果たして存在だと言えるのか。一切の意識や感情もなく、さらには自我すら失われているのだとしたら、目の前にいるこの痩せこけた老人は果たして私の父なのだろうか」

彼はまだ何か言葉を続けようとしていた。私は待った。


「過去の記憶だけが、父と私を結びつけているように思います。お互いの意識が向き合っていた、当時の思い出だけが」と彼は言った。


「約一年前から今日に至るまでどの瞬間も、私には父の姿が見えていないのと同じです」


私は彼の言葉を聞き、その言葉が含む彼の嘘偽りのない気持ちの深淵に触れ、胸に強く込み上げるものを感じた。


それは、ごく小さな一粒の滴りだった。

そしてそれは、私の心の奥底の水面に落ち、水面にはすぐに丸い円が浮かび上がる。

それは音もなく外側に広がり、消えたかと思うと次に内側に向かって収縮を始める。

そして今度はさらに大きな波となり、より外側に向かってさらに大きく広がろうとする。

私は自身の気持ちを落ち着かせ、その波がそれ以上大きくならないように集中した。自分の唇が微かに震えていることに気づいた。これ以上、波を広げてはいけない。私は自分にそう言い聞かせて、懸命に堪えた。波が小さくなって消え、水面に元の静寂が訪れるのを。


そこでふと、先ほど思い出した故郷の果樹園が再び脳裏に浮かび上がった。

田舎の果樹園の脇を流れる小川。

たくさんの果樹が植えられた段々畑と同じように、徐々に徐々に下りながら、下へ下へと水を運んでいく。時には折れ曲がりながら自在にその川幅や勾配を変えて、常に透明に輝く水を押し出していく。

その水は冷たく、川面に反射する太陽の光は暖かい。子どもの頃、よくこの小川で遊んだ。今でも思い出すのは、家の裏庭で取れる植物の葉で作った笹舟流しだ。それが何の葉だったのかは思い出すことができないが、いくつかの葉を組み合わせて一艘の小さな舟を作る。近所の友達らと、それぞれが思い思いに作った笹舟を合図とともに一斉に小川へと放す。

舟は小川の流れを受けて、最初はよちよちと遠慮しがちに動き出す。そしてしばらくすれば自ずと水流の勢いを味方につけて、そのスピードを一気に上げていく。私たちは、どの舟が一番遠くまで辿り着くのかに夢中だ。甲高い声を上げ、自分の舟を叱咤激励する。冷たい川の水が少年たちの舟をより遠い場所へと運んでいく。私たちはまるで自分たちがその舟に乗っているかのように、見たこともない遠い場所を心の中に追い求めていく。すると突然、ある者の舟が川の急なカーブに耐えきれずに裏返り、即座に錐揉み状態に陥った後に川の底へと沈み込んだ。私の舟はまだ大丈夫だ。それは右へ左へと何度も揺られながらも、かろうじてバランスを保ったまま川を下っていく。まるで自らの意思で、時には速度を落として、そして急に向きを変えたりしながら。


いつもの夕暮れ時の景色だった。

若草の甘い匂いと、冷たい川面をぱらぱらと輝いて跳ねる太陽の光。


そうやって最後に笹舟を流して皆で遊んだ時、私の舟はどこまで進んでいったのだろうか。

目の前の老人を見ながら、私はこの老人が乗る笹舟が小川のどの辺りを流れているのかと考えていた。その笹舟は彼の思いを乗せて、彼がめざした目的地に向けて進んでいるのだろうか。それとも船頭を失ったように、ただ川の流れに自らを委ねているだけなのか。単なる無機質な物質の集合体として。


私にはそのどちらが正しくて、そして彼にとってふさわしいのか分からない。


彼の息子が私の前に立ち、私に向かって言葉をかける。

「こうして、私の思いや考えをあらためて誰かに話したのは初めてです」

彼は私を見て言った。私の意識はかつての小川からこの部屋へと、瞬時に呼び戻されていた。

「明確な理由は自分でも分かりませんが、先ほどあなたと話している間に、そうしようと思ったのです。あなたが自分にできることがないかと私に問いかけた時に。あるいは私はずっと誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。私の心の奥底にある考えを。今までずっとしまい込んできたものを」

私は彼の思いに従うように、黙って聞いていた。

「近しい人にはどうしても今の父の姿を見てもらうことが憚れて、父との面会は基本的にはお断りしています。コロナやその他の感染症のこともあるので、周囲からの違和感はありません。ただ闘病生活を送っているとだけ伝えてあります。父が興した事業のほとんどは、すでに私の管理下にあるので実務的には問題もありません。私自身、こうした現場での仕事についても、楽しみながら指揮を執っていますから。時々、心配になった父の旧友からの連絡がありますが、私が代理で対応しています。つまり、今の父の姿を知る者は、ごく一部の者たちを除いては、あなたしかいない。そしてそのごく一部の者たちも、同じように私の管理下にあります」

「つまり?」、私は彼を促した。

「見ず知らずの人だからこそ、少し話を聞いて欲しかったのかもしれません」

「何の関わりもない相手だからこそ本音を言えることもある、ということですか」

「おそらく。それにあなたは相手の話に合わせるのが得意のようだ。少し話をしただけで、そう思いました」と彼は少し笑った。

「営業の仕事を長年していると、自然とそうなります。得意好んでのことではありません」

それも私の本心だった。

「そういう物言いも好意が持てます。実に率直だ」

彼は父親の心電図の数値に目をやった。わずかな動きがあるが、先ほどとほとんど変わりのない数値が映されている。

私は彼に尋ねた。

「あなたには、まだ私に伝えたいことがあるのでは?」

彼は私の目をじっと見て、そして小さく頷いた。

「ええ。どうしようかと迷っていましたが、お話しすることにします」

私も頷いた。

「その前に、今から私が話すことは、あくまでも私自身の独り言だと思ってください。別にあなたに何かを尋ねているのではなく、決してあなたの考えを聞かせて欲しいわけでもありません。ただ同じ空間で、あなたは私の独り言を聞いているだけです」

「わかりました」と私は短く言った。できるだけ、彼の言葉が進む道を妨げないように。

独り言という最後の言葉をあらためて自分自身に言い聞かせるように、彼は頭の中でそれを何度か反復しているようだった。

そう。これはあくまでも、自分の独り言にしか過ぎないのだと。


「父が望むことを、私が父の代わりに行いたいと考えるようになりました。父がこのような状態になった時から今日に至るまで、その思いは日に日に強くなっています。父はもはや、自らで自分の身体のいかなる箇所も動かすことはできずに、ただこのベッドの上に横たわっています。身体だけではない。思考や感覚、もしかしたら一切の自我でさえ、もうすでに父の元から離れてしまっているのかもしれない。そしてそれは、二度と戻ってこないのかもしれない。かつての父を知る者が今の父の姿を見れば、皆一様に悲しみ哀れみ、時には涙を流すでしょう」

私は無言のままで、彼と彼の父親の姿を交互に視界に収めた。

「こんな状況になって、父ならば一体どうするのか。もし、かつてのように健康な頃にこうした事態が自身に起こることを想定していたなら、父はどのような指示を私に与えていただろうと。私は何を託されていたのだろうと。ええ、先ほども話したように、こうした考えがまったくの無意味なものであるとは分かっています。誰も父の考えを知ることはできない。あなたが私の考えを知ることができないように。そして、あなたの部下の方が、あなたの考えを知ることができないように。私は父の代役を務めたいが、それは不可能なことなのです。誰かが誰かの代わりをするなど、本質的にはあり得ないことだ」

彼は無意識に自分の語気が強くなっていることに気づき、そこで止めた。

私は彼の言葉を聞きながら、少し前に彼が指摘していた「個と全体」の話を思い返した。全体は個人からのみ成り立つが、その逆はあり得ないという彼固有の考えを。そこには「代役」は存在しないのだという彼の信条を。

私には彼のそうした考えの源となる太い樹の根が、おそらくはこの部屋から生まれているのだと悟った。

そして彼の考えにほんの少しだけ、深い場所で触れたような気がした。

少しばかりの間を置いて、彼は冷静に言葉を続けた。


「私の目の前には今、二つの選択肢があります」

その声は今まで以上に硬く引き締まり、暗がりの部屋の中でわずかに反響した。

「暗い物陰からひっそりと、そしてしたたかに獲物を狙う獰猛な獣の眼のように、それは遠くからずっと私を見続けています」


彼の言葉に、さらに緊張の色がにじんだ。

ごく小さなため息の後で、意を決したように彼は言った。

「二つの選択肢とは、あくまでも『私が考える父の選択』を、私が彼の代役として実行すべきなのか、それともこのまま傍観者として、ただ過ぎゆく時間とともに父の行末をこうして見守り続けていくのか、というものです」


再び、少しの間を置いてから彼は言った。

「この二つの問いかけの中で、私は来る日も来る日も、自分自身の居場所が分からなくなっていくのです」

その言葉からは緊張や硬さの類は消え去ろうとしていた。彼の言葉を覆っていた鎧はその役目を終えて、今はただ頼り気なく部屋の中を漂っていた。きっとどこに戻れば良いのか、分からなくなったのだろう。

彼は、自分の言葉の意味が正しく伝わったのかを私の表情から読み取ろうとしているようだった。私は間違いなく、彼の言葉が持つ意味とそれらが示す具体的な行動とを正しく理解していた。

その上で私は、彼にかけるべき言葉を何も見出すことができないでいた。私がこれまで仕事で得た経験たちは、先ほどと打って変わって誰も私に微笑むことなく、どこか気まずそうに私の背後にひっそりと隠れていた。きっと、それが正解なのだろう。彼は事前に私の答えを求めなかったし、今となってはその判断が正しいことだと私にも理解できる。これ以上に、彼と父親の間に私が入り込む余地はない。


私は最初から、この部屋では誰の代役でもないのだから。


ここでの私の役割は、彼の言葉を聞くことだけだった。

ただ彼からの次の言葉はなく、私たちの間には過ぎゆく時間だけが川のように流れた。

そして一人の痩せこけた老人が、その川面に浮かんでいるのだ。

進むことも、留まることもできないままに。


「すっかりと日が暮れたようですね」

彼はカーテンの外の暗がりを見ながら、そう言った。

「長い時間お付き合いいただき、ありがとうございます」と言葉を続ける。

その声色は日常のそれに戻っていた。最初の部屋で彼と対面した時と同じように、一切の他意を含まない自信に満ちた声に。

「とんでもない。私にできることがあって良かったです」

私も部屋の外を眺めながら、そう言った。


彼は窓際に近づき、紺色のカーテンを少しだけ開けて、あらためて外の世界を見た。

「一旦、部屋に戻りましょうか。荷物を置いたままでしたね」と言い、父親の足元に綺麗に畳まれたタオルケットを老人の胸のあたりにまで伸ばして掛けた。ベッドの脇にある心電図モニターの数値を見て、昨日と変わらないことを再び確認する。これが彼にとっての日課なのだろう。部屋の照明を最低限の明るさまで下げて、他に何か異常がないかと二、三度周囲を確認する。

それは昨日と何も変わらない同じ光景。そして明日もきっと同じなのだろう。

無言のベッドを後にして、私たちは老人の部屋を出た。


最初の部屋に戻り、私は自分の荷物を手にしてあらためて彼に言った。

「本日は、お時間をいただきまして、ありがとうございました」

「いえいえ。こちらこそ私の無理な願いにつき合わせてしまい、恐縮です」

彼は軽く頭を下げて、そう言った。私はその言葉には黙ったまま、同様に頭を下げた。

「まだ少し仕事が残っていますので、私はこちらで」と彼は言い、机の上の電話機の受話器を取り上げて、内線の番号を押した。受付の職員に何かの指示を与えたようだった。おそらくは私が去ることを伝えたのだろう。彼は受話器を置くと、私をドアへと丁重に促した。私は鞄を持ち、自らの手でドアを開けて部屋の外へと足を踏み出した。振り返って重たいドアを閉める際に、彼の姿をもう一度だけ見た。


部屋の中央で彼は、窓から差し込む微かな月の光を背中に受けながら、背を伸ばして真っ直ぐに立っていた。

表情からは詳細な感情までは読み取れなかったが、口元には例の微笑みを浮かべていた。

その笑みが何を意味しているのかは分からない。しかし彼が二つの選択肢の中で、もはや大きく揺れ動いているようには見えなかった。その二本の脚は、最初に彼と会った時とは比べものにならないほどに逞しく堂々と彼を支えていた。その首はまるで一回りでも太くなったように、主人の頭をしっかりと胴体へと結んでいた。どれほど強い雨風に襲われたとしても、決して揺らぐことがないように。

もしかしたら先ほどの独白が、彼の中の何かを動かしたのかもしれない。それはきっと、今の私には到底分かるはずもないことなのだろう。

「それでは失礼します」と私は言い、両手でそっとドアを閉めた。


廊下に出た私は、例の肖像画を最後にもう一度眺めた。

今はベッドに横たわる老人のかつての姿が、そこにはしっかりと刻まれていた。彼の人生の僅かな一瞬の刻を切り取りながら、そして同時に膨大な量の記憶を詰め込んで。


老人が乗る笹舟が今、どこを流れているのかは誰にも分からない。

もちろん、彼自身にも。


私は肖像画の男にほんの少しだけ会釈して、その場を離れた。廊下を進み、受付で女性職員にお礼の言葉を伝える。彼女もまた丁寧にお辞儀をして、いくつかの定型的な言葉を私に返した。

そして私はその建物を後にした。


最寄りの駅に向かうまでの間、私はスマートフォンを取り出して、歩きながら部下に電話をかけた。呼び出し音が数回鳴り、彼は電話に出た。私は一連の出来事を彼に簡潔に伝えた。もちろん、私がベッドで眠る老人と対面した事実は静かに伏せたままで。

部下は私の報告を聞き、少し安心したようだった。週明けにはあらためて自分で施設を訪れ、きちんと相手の担当者に謝罪することを私に繰り返した。若者特有の張りのある明るい声だと私は思った。私は彼の言葉を最後まで聞き、そして電話を切った。


その週の私の仕事は、これですべてが終了したようだった。



それから10日ほどが過ぎた。

その日の朝早く、一通のファックスが私の会社に届いた。

耳につく独特の機械音を鳴らしながら、送信元の人物から放たれた情報が即座に文字として再構築され、紙の上に何らかの全体像を示しながら機器から滑り落ちる。それは社内のスタッフの手によって、いつものデスクに座る私の元へと事務的に運ばれてきた。薄い紙には掠れた小さな文字で、いくつかの事実だけが刻まれている。


ファックスは、先日の介護施設から送られてきたものだった。

そこには、あのベッドの老人が四日前に亡くなったことが記されていた。


そして葬儀は昨日、親族だけですでに執り行われたことも併せて書かれていた。ファックスの差出人は当然のことながら老人の息子、彼本人だった。

私はその知らせの紙をデスクの上の書類入れにそっと置き、椅子に深く腰を掛け直した。


部下たちは目の前の仕事に励んでいる。何人かが電話で話をする声が聞こえる。

パソコンのキーボードに文字列を整然と打ち込んでいく音が不規則なリズムを生み出して、部屋のあちこちへと広がっていく。

フロアの天井に備え付けられた空調機器からは、聞こえるか聞こえないかほどの送風音が冷たい風とともに運ばれてくる。

 

私は静かに目を閉じた。

そして故郷の小川を流れていく一艘の笹舟を、瞼の裏に思い返した。

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