終わりの始まり。
雨は日常の世界に、よく訪れる客だ。雨が降ると、すべてがそこにあるべき場所に留まるように感じられる。しかし、もし世界が生きているなら――変わるのだ。その夜、世界は変わった。そして、一人の少女の命と共に。
彼女は雨の中で死んだ――大きく、押し付けがましい音を立てる雨の下で、まるで世界自身が彼女の叫びを聞きたくなかったかのように。人生は儚い……重い雨の最後の雫のように静かだ。
――――――
[時間は不確かな過去へと戻る。]
――――――
[日本、北海道]
暗く静かな部屋。
片方のイヤホンが痛いほどに懐かしいメロディーを奏でる。そのイヤホンのプラグは、少し傷のある古いスマートフォンに差し込まれていた。16歳の少女、名前もない少女がそのスマホの前に座っている。
彼女の黒く長い巻き髪の先には、淡い紫色がほんのり混ざっている。疲れた瞳の下には、鮮やかな緑の、ほとんどエメラルドのような目が輝いていた。
その瞬間、階下から女性の大きな声が響いた。
「レディ!下に来て、台所にいるわよ!」
ベッドの毛布の下に横たわっていた少女は、少し開いたドアの隙間から声を聞き取り、顔を向けた。
毛布を払ってベッドの端に座ると、窓の外の雨を見つめる。雨は止む気配もなく、窓ガラスを激しく叩き続ける。外はすでに日没を迎え、街を暗闇が覆い、点々とした街灯だけが微かに光を放っていた。
ルームシューズを履き、部屋を出た少女は、廊下を通りながら服装を確認した。寝巻きのままだったが、あまり気に留めなかった。
廊下を歩きながら、少女は小さな額縁に目を留める。そこには、幼い頃の自分と、母、そしてすでに亡くした父の写真が飾られていた。
額縁を触り、過ぎ去った日々を懐かしむように握ったその手を、呼ぶ声が再び引き戻す。
「レディ!」
額縁をそっと元に戻し、少女は階段を下り、台所へ向かう。小さな家庭用のシャンデリアが照らす廊下の温かい光を頼りに、一歩ずつ慎重に進む。
角を曲がり、背を向ける母の姿を見つけると、少女は声をかけた。
「何が欲しいの?」
しかし、母は振り向きもせず答える。
「コンビニに行って、この家の近くで卵を十個買ってきて。」
少女は黙って頷き、母が料理する姿を見つめる。包丁で何かを切る音だけが響く。口を挟むと長引く喧嘩になるとわかっていたから、反論はしなかった。
台所を通り抜け、休憩室を横目に見ながら玄関へ向かう。傘を手に取り、ドアを開け、外へ。
冷たい風が顔を打ち、髪を揺らす。少女は傘を広げ、雨に濡れないように歩き出す。
「予想より天気が悪い……」
小道を進むと、湿った草の匂いが漂い、濡れた草が足元に触れてパジャマを濡らす。道路に出ると、街灯の光と通り過ぎる車だけが視界に入り、雨は激しく地面を叩く。
少女は細い路地を進みながら、前方に赤いネオン看板を見つける。――目的のコンビニだ。
しかし、背後から水に濡れた足音が響く。少女は振り返り、音の主を確認する。
道路を横切るトラックのヘッドライトが、緊張でこわばった顔をわずかに照らす。背後にはフードを被った大柄な男が、不自然にこちらに向かって歩いてくる。
少女は気づかないふりをしつつ、足を速めた。
神経は限界に近かったが、彼女はそれを表に出さないようにした。
――何が起きるっていうの?
そう自分に言い聞かせながら、頭の中では最悪の結末ばかりが回転していた。葉の擦れる音一つにも反応し、夜という時間帯を、彼女は心底憎んだ。
歩調を少しずつ早める。
だが、それに合わせるように、背後の男も速度を上げた。
一歩、二歩、三歩――。
これは考えすぎだ。そう思いたかった。
こんな展開、あり得ない。そうであってほしかった。
しかし、少女はさらに足を速める。店まで、少しでも早く。少しでも心を落ち着かせるために。
その瞬間――
背後で水たまりが跳ねる音がした。
振り返った瞬間、彼女が見たのは、こちらへ走ってくる男の姿。
その手には、小さな金属製の何かが握られていた。
心臓が止まった。
瞳が、獣のように細くなる。
全身が叫ぶ。
――逃げろ。
傘を放り捨て、彼女は走り出した。
一直線ではない。とにかく距離を取るため、住宅の裏へと回り込む。
助けを求め、声を張り上げる。
「助けて!お願い!」
だが、豪雨がすべてをかき消す。
雨音が、彼女の叫びを世界から隔絶していた。
耳鳴りが強くなる。
建物の壁に背を押しつけ、荒い息を繰り返す。心臓は狂ったように脈打ち、指先は凍える。
服はすでに雨に濡れきっていた。
どうすればいい。誰を呼べばいい。
――誰も、聞いていない。
雨はさらに激しさを増す。
深く呼吸しようとするが、うまくいかない。
周囲を必死に見渡し、追っ手の姿を探す。
角を覗いた時、男の姿は見えなかった。
――逃げ切れた?
一瞬だけ、安堵が胸をよぎる。
だが。
次の瞬間、濡れた足音が背後で弾けた。
首を掴まれ、壁に叩きつけられる。
「チッ……逃げるの、ずいぶん遅かったな?」
喉元に冷たい感触。
ナイフだった。
「動くなよ? 分かってるよな?」
汚い舌足らずな声が耳元で囁く。
彼女は男の顔を見る。
脂ぎった、中年の男。汚れた黒いパーカー。
恐怖がこめかみを打つ。息ができない。
腹部に強烈な一撃。
肺から空気が吐き出され、咳き込みながらその場に崩れる。
「やめて……お願い……!」
答えは、ナイフの柄で殴られる鈍い音だった。
視界が歪み、地面に倒れ込む。
吐き気。
立てない。
男の影が覆いかぶさる。
「やめろ!」
地面に倒れたまま、必死に脚で抵抗する。
だが、力が入らない。
足を掴まれ、引き戻される。
最後の一撃が、男の股間に入った。
男は呻き、身を縮める――が、次の瞬間、獣のような怒りを露わにした。
「……調子に乗りやがって!」
地面を這って逃げようとする少女。
視界は霞み、力は抜けていく。
男は落ちたナイフを見つけ、拾い上げた。
次の瞬間、冷たい衝撃。
刃が、腹部に突き刺さった。
血を吐く。
刃は下から上へ。肺を傷つけた。
息ができない。
叫びは、濁った音に変わる。
涙が滲む。
呼吸音だけが、重く残る。
最後の抵抗として、彼女は男の肩に噛みついた。
「くそっ、痛え!」
突き飛ばされる。
残った力を振り絞り、彼女は走った。
男は追ってこなかった。
「……ちっ、どうせ死ぬ」
彼女は走り続け、やがて膝から崩れ落ちる。
腹部の痛みが全身を引き裂く。
路地の奥、道路の先に光。
車のヘッドライト。
古いピックアップトラックが、雨の中を走ってくる。
運転席には二十五歳ほどの男。
彼女は叫ぼうとした。
「助け――」
血が口から溢れ、声にならない。
車は止まった。
男はスマホのライトを点け、周囲を照らす。
――見えない。
ゴミ箱が、彼女の体を隠していた。
声を出したくても、出ない。
喉から漏れるのは、かすかな喘鳴だけ。
男は首を傾げ、ライトを消し、車へ戻る。
「……気のせいか」
絶望が、彼女を満たした。
――ここにいる。お願い、行かないで。
思考が薄れていく。
体は動かない。
冷たい雨が、ただ降り続ける。
彼女は――
死んだ。
だが。
何かが、おかしかった。
目を開けると、レッディは突然、かつていたはずの場所から跳ね上がった。周囲を慎重に見渡すが、見えるのはただ果てしない白い空間だけだった。音も感覚もなく、ただ自分と無限の白だけがあった。
数瞬後、頭が激しく痛み始めた。まるで誰かが内側から頭蓋骨を押しつぶすような圧迫感。まるで憎しみに満ちた人形の頭を押さえつけられているかのようだった。
しかし、その痛みも一瞬で消え、手を頭から離すと、レッディは何かを考え始めた。
「ここ……一体どこなの……?」
そのとき、どこからともなく声がした。長く、低く、ささやくような声。
「面白いね。君がここにいる」
レッディは周囲を見渡すが、誰もいない。ただ眩しい白。
「ここ……って、どこなの?」恐怖をこめて声を出す。
「ここは、新しい道が始まる場所ではない。ここでは……キシリアンだけが存在できる」
レッディはまだ、話している相手の姿を見ていない。しかし全身で、何か異質なものが近づいてくる感覚を覚えた。
その直後、足の力が抜け、彼女は膝をつき、やがて尻を床につけるように座り込む。
やがて、暗く人型の存在が現れた。周囲の光を包み込みながら、その体は光を吸い込むかのようだった。暗い顔の中で唯一見えるのは口だけ。声に合わせて口を動かすが、表情の動きは声と完全には一致せず、まるで口の動きを真似ているようだった。
「君はキシリアンではない。興味深いね。では、君は一体……?」
その姿は、まるで科学者が予期せぬ発見をしたかのように、じっとレッディを観察する。
「私は……ナルィネツだ。信じないかもしれないが、これは凡人の理解でも意味がある。私は神だ。そして君がまだ生きていることが、非常に興味深い」
かすかに笑った。
「……あ、ごめん、もう『いいえ』なのか。まぁいい、面白いケースだ」
そして、声を落ち着けて、再び問いかけた。
「君の名前は?」
レッディは震えながらも答える。
「わ、私は……レッディ……」
ナルィネツはすぐに遮った。
「論理から遠いね。名前はもう知っている。すべての存在の名前を知っている。ハンター・レッディ」
レッディは鼻で笑った。
「また修辞的な質問ですか?」
ナルィネツは微笑み、静かに言った。
「忘れたのか? 私は誰か」
「……神? すばらしい。でもそれが私に何の意味が? 私の存在を侮辱したの? それとも何か失うものがあるとでも? 私、殺されたんだよ! 分かる?」
レッディは息を切らし、取り乱していた。
ナルィネツは頭を少し傾ける。
「何をしたか? 何もだ。君はただ死に、ここに来た。ただそれだけ。これは生命のサイクルだ、いつでもどこでもそうだ」
レッディは言葉を失った。目の前の存在は静かに笑みを浮かべたまま、手の中に何かを出現させた。
紙のような、しかし普通の紙ではないものが、光を吸い込みながら現れた。
「ここにアルの十字がある。君が理解するべき道徳的な問題を踏まえて、自分で向き合うといい。君は愚かではないから、私の言葉を理解できるはずだ」
そう言うと、ナルィネツはその紙を軽く宙に投げた。瞬間、黒い炎に包まれ、すぐに焼き尽くされた。
レッディは白い床のようなものに座ったまま、その光景を見つめる。ナルィネツは静かに前かがみになり、そっと彼女の額に触れた。すると、耐え難い痛みが一瞬で走り抜け、頭が壊れそうなほどだった。
しかし、その痛みも一瞬で消えた。
「これで終わりだ。この十字とどう向き合うかは自分次第だ。君の道徳的葛藤を試すのも面白い。心配するな、また会うだろう。いつか」
そう言って、ナルィネツはレッディから少し離れ、前後に歩き始めた。
「……待って! 私……もっと知りたい! 『また会う』ってどういう意味? 私を置き去りにするつもり? 説明もなしに!?」
レッディは声を荒げ、必死に問いかけた。
ナルィネツは微笑み、しかし言葉で答えることはなかった。
「置き去り……面白い表現だね。確かに、私は君を再び生かしたのだから、感謝してもいい。さて、君の言葉に正しいかどうかは重要ではない。質問は多いだろうが、答えはほとんどない。そして、興味もない」
そう言うと、彼はゆっくりと背を向け、白い空間の中に歩みを進めていった。足跡は残らず、やがて塵のように消え去った。
レッディはまだ意識が朦朧としながらも、最後の力を振り絞り、目を開いた。だが、すぐに黒い虚無が彼女を包み、体の感覚も、意識も徐々に薄れていった。
彼女の視界に映るのは、ただ白い光とその奥に潜む闇だけだった。
レッディは闇の中に沈みながら、ふと意識が戻った。そこは以前の世界とは違う感覚――無限に広がる白い空間だった。体の痛みは消え、深く息を吸うと、新たな力が内側から満ちてくるのを感じた。
「これは……何?」
思わず口に出すと、声が響かないことに気づいた。しかし心の中で、確かに誰かが応えている。
「君は生き返ったのだ。そして、これから歩む道は君自身の選択に委ねられる」
低く、しかし確かな声。ナルィネツだ。
レッディは目を閉じ、手のひらを自分の胸に当てた。そこに触れるもの――それが「アルの十字」、つまり「赤い十字」の力だった。温かく、しかし重く、強烈な存在感を放っている。
「この力……私に何をさせるの?」
疑問が頭をよぎる。心の中で、理性と感情が激しくぶつかる。力を使えば、人を守れるかもしれない。しかしその代償は? 自分自身の命? それとも心の安寧か?
ナルィネツは答えず、ただ微笑む。
「道徳的葛藤は君自身の学びだ。善と悪、正義と不正、君はそれを決める権利を持たない。少なくとも、今の君には」
レッディは拳を握りしめた。胸の奥で、十字の力が反応する。痛みと快感、恐怖と希望が交錯し、全身が震える。
「……私は……私はどうすればいいの?」
誰にも届かない声を、必死に内心で叫ぶ。だが答えはない。ただ白い空間だけが、静かに彼女を包み込む。
それでも、レッディは理解した。力は与えられた。使い方は自分次第。恐怖に屈すれば、命は再び消えるだろう。だからこそ、彼女は立ち上がる決意を固めた。
「……私は、私の道を行く」
心の奥で誓い、手のひらの十字に触れる。光が指先から広がり、全身を包む。重く、温かく、そして確かな力。これが、私の選択――私の自由だ。
ナルィネツの声が、遠くから響く。
「面白い。君は生き延びるだろう。しかし覚えておけ、力は試練をもたらす。自由とは……本当に存在するか?」
レッディはうなずき、目を開けた。新たな世界、未知の可能性、そして自分の意思――全てを胸に抱え、彼女は歩き始める。
雨の音も、過去の恐怖も、今はただ力の鼓動の中に消えた。これから始まる物語は、彼女自身の手で紡がれる。




