七. 帰路、詰問
村の入り口に差しかかった一郎太の目に飛び込んできたのは、夕闇に沈みかけた広場に屯する、十数人の人影だった。
この集落では、夕刻になれば各々が家に帰り、囲炉裏の火を囲むのが常だ。
だが、今日は違った。
お巷が朝から「うちの弥平が一郎太さんと山を鎮めに行った」と触れ回っていたせいで、多くの人間が、山に向かった三人が「山の正体」を突き止め、この不安を拭い去ってくれることを期待して、その帰還を今か今かと待ち構え、そして待ちわびていた。
農具を片付ける手を止め、あるいは夕餉の支度を放り出して、人々は山の入り口を凝視している。
その中心には、誰よりも落ち着かない様子で何度も山道の方へ首を伸ばしているお巷の姿があった。
一郎太と豊一郎の姿が見えた瞬間、わっと歓声が上がった。
「帰ってきたぞ!」
「一郎太さんたちだ!」
――歓声は、近づいてくる"二人"のあまりに無残な姿、そして"決定的な欠落"に気づいた瞬間、急速に、冷え切った沈黙へと変わっていった。
「……二人……?」
誰かの呟きが、静寂の中に鋭く響いた。
人々は、二人の背後、暗い山道の奥を必死に覗き込む。
だが、そこには木々のざわめきがあるだけだ。
期待は、一瞬にして刺すような疑念と恐怖に変わった。
「一郎太さんと豊一郎君だけだ。あいつは、弥平はどうした……? 弥平はどこだ?」
村人たちが二人を囲む。
その視線はもはや心配ではなく、"なぜお前たちだけが帰ってきたのか"という、鋭い追及の礫となって突き刺さった。
「滑落したんだ……。足場が崩れて、俺も落ちそうになって……!」
豊一郎が叫ぶように言ったが、村人たちの動揺は収まらない。この狭い集落において、一人の働き手が失われることは、共同体の一部がもぎ取られるに等しい。
その人だかりを割って、一人の女が飛び出してきた。弥平の母、お巷だった。
彼女は一郎太の肩を掴み、狂ったようにその体を揺さぶった。
「一郎太さん、弥平は!? 弥平はどこに置いてきたんだい! あんた、一緒にいたんだろう!?」
お巷の声は、悲鳴に近かった。
一郎太は何も言えず、ただ項垂れた。
お巷の指先が、一郎太の着物に泥の跡を刻んでいく。その泥は、弥平が最後に触れていた山の色そのものだった。
「あんた、朝にあんなに威勢よく、弥平を連れて行ったじゃないか!『太一のために力を貸してくれ』って、あんたが頭を下げたから、あの子は……!」
お巷の言葉に、周囲の村人たちが息を呑む。
「返しておくれよ……。たった一人の息子なんだよ! あの子は、太一ちゃんを心配して、あんたに付き添って山に行ったんじゃないか!」
お巷の叫びは、鋭い針となって周囲の村人の胸に刺さった。
豊一郎が必死に弁明しようとするが、お巷の耳には届かない。
「嘘だよ! あんた、弥平を見捨てたんだね! 自分の身が可愛くて、うちの息子を山に置いてきたんだ!……今すぐ、今すぐ助けに行かなきゃ!」
「馬鹿を言うな、お巷さん!もう陽も落ち始めてるんだぞ!」
「それに、あの山には化け物がいるんだろう? 一郎太さん、あんたがそう言ったんじゃないか」
「そんな場所へ素手で行けるわけがない!」
助けに行こうとする者と、それを止める者。
混乱する広場の隅で、一郎太はお巷の泣き声を聞きながら、ただ立っていることしかできなかった。
お巷の絶叫が夕暮れの村に響き渡る。 村人たちの視線が変わる。
「太一が山で変なものを見たせいで」
「一郎太が弥平を連れ出したせいで」
「一郎太が、弥平を見捨てたせいで」
親しかったはずの隣人の目が、恐怖によって冷たく歪んでいく。
それはもう「仲間」を見る目ではなかった。
「自分たちの平穏を乱し、隣人を犠牲にした余所者」を見るような、冷たく、排他的な光だ。
一郎太は周囲を見渡すが、目を合わせた者は、皆一様に視線を逸らし、一歩後ろに下がった。
泣き崩れるお巷の背後で村人たちは互いに囁き合い、蜘蛛の子を散らすように自分の家へと逃げ込んでいく。
"太一に関わると、凶事に見舞われる"
そんな形のない「責任」の所在が、人々の心の中でゆっくりと、確実に一郎太へ向けられ始めた。
――
足が鉛のように重い。 草鞋の底から伝わってくる足元を洗う泥の感触が、まるで弥平を飲み込んだあの粘膜のように感じられて、吐き気がした。
隣を歩く豊一郎は、もうずっと一言も発していない。
ただ、弥平が持っていたはずの折れた鎌が、自分を傷つけるかのように強く握りしめられている。
一郎太は前を向いたままたが、その視線は定まらない。
脳裏には、斜面を転がり落ちていく弥平の叫びが焼き付いて離れなかった。
裏山の入り口、広場に、人だかりが見えた。 松明の火がいくつか揺れている。
俺たちを待っているのだ。いつもなら安堵を覚えるはずの焚き木の煙の匂いが、今は自分たちを裁くための煙のように感じられた。
近づくにつれ、やはりというべきか、俺の僅かな期待さえも冷え切った。
そこにいたのは、歓迎の群れではなかった。 無数の、濁った「眼」だった。
「……二人か?」
誰かの声が、冷たい風に乗って突き刺さった。 俺は一歩、足を止めた。広場の中央、お巷さんが狂ったように駆け寄ってくるのが見える。
「一郎太さん! 弥平は!? 弥平はどうしたの!」
お巷さんの手が、俺の泥まみれの着物を掴む。その指先が食い込み、痛い。俺は口を開こうとしたが、喉がからからに乾涸びて、声が出なかった。
「ぁ、か、滑落、したんだ……あ、足場、が、崩れて……」
豊一郎が震える声で代弁した。広場の空気が "パチン" と弾ける音がした気がした。 お巷さんの顔が、見たこともない形に歪む。
「……嘘。嘘よ。あんた、弥平を置いてきたのかい? 自分の息子が、太一ちゃんが原因で作った騒ぎなのに、うちの子を身代わりに置いてきたのかい!」
俺は必死に首を振った。だが、周囲の村人たちの目が、俺を「人殺し」だと断じている。彼らの手にある鍬や鎌が、松明の火を反射してぎらりと光る。
網膜に痛いほど突き刺さる、容赦のない光だった。
誰かが俺の胸ぐらを掴んで揺さぶっている。
お巷さんの絶叫が鼓膜を打つが、それは意味を成さない雑音の塊でしかなかった。
「人殺し! 弥平を返しておくれよ!」
「そうだ一郎太さん! 言えよ! 弥平はどこに……!」
違う。 違う。
俺は言いたい。
弥平が、あの岩陰で、在り得ないほど長い、黒い腕のようなものに絡みつかれたことを。それが、生き物の腸のように脈打っていたことを。
口を開いても、漏れ出るのはヒューヒューという掠れた呼吸だけだ。
横では、豊一郎が地面を掻きむしりながら叫んでいた。
お巷さんの叫びが、夜の集落に響き渡る。誰も助けの手を差し伸べない。
周囲の「眼」の色が変わったのが分かった。心配の眼ではない。それは、腐ったものを眺めるような、あるいは穢れを恐れるような、冷たい拒絶の眼だった。
誰も俺に触れようとしない。 さっきまで俺を揺さぶっていた男さえも、俺の服に付いた「黒い泥」を見て、悲鳴を上げて手を引いた。
さっきまで親しく挨拶を交わしていた隣人たちが、一歩、また一歩と俺から距離を置く。
暗闇の中に、俺と豊一郎だけが取り残された。 背後の山から、"声"が聞こえた気がした。
村も、裏山も、もう俺たちの味方ではない。




