八. 沈着、追憶
広場での怒号も、隣人たちの形ばかりの慰めも、今は遠い。
お巷は、冷え切った土間に座り込んで、ぼんやりと暗い室内を眺める。
この小さな家は、いつもなら弥平が持ち帰る「音」で満たされていたはずだった。
薪を割る力強い音。泥のついた草鞋を叩く音。そして、お巷が作った質素な粥を「旨い」と啜る音。
ふと視線を上げると、柱の陰に弥平の鍬が立てかけられていた。刃先は丁寧に研がれ、使い込まれた柄は弥平の手の形に馴染んでいる。彼は、村で一番の働き者だった。自分の仕事が終われば、「ばあさんのところの力仕事を手伝ってくる」と、見返りも求めず出かけていくような息子だった。
お巷の脳裏に、今朝の眩しい光景が蘇る。一郎太が、この見窄らしい家で、頭を下げた時の光景だ。
『弥平君の知恵と力が必要なんだ。どうか、太一のために力を貸してくれ』
あの一郎太がこの見窄らしい家で頭を下げた時、お巷は身震いするような快感を覚えた。
あの時彼女の胸を占めていたのは、息子への不安よりも先にきた強烈な優越感だった。
(……あの「蔵持ち」の一郎太さんが、私に頭を下げている!)
一郎太が自分の不肖の息子を助けるために、どうしても弥平の力が必要だと言った時、お巷は自分が村の主役になったような錯覚に陥った。
村の有力者である一郎太に頭を下げさせた。自分の息子が、あの立派な地主の家の跡取りを助けるために選ばれた。その誇らしさを、彼女は抑えきれなかった。
『うちの弥平がいないと、一郎太さんも困るみたいでねぇ」
『うちの子が一郎太さんに泣きつかれちゃって』
井戸端で隣人たちにと触れ回った時の、あのゾクゾクするような優越感。
その「自慢」が、今は自分を切り刻む刃となっている。
「あの子を……あんな風に、自慢の種にして送り出した、私のせいで……」
お巷の嗚咽には、自分自身の「浅ましさ」への後悔も混じっていた。だからこそ、その矛先を一郎太に向けずにはいられないのだ。
もし自分が、あの時「危ないから」と止めていれば。もし、一郎太の頼みを冷たく突き放していれば。
誇らしかった記憶は、今や、自分と息子を地獄へ叩き落とす呪いの言葉に変わっていた。
弥平のいないこの家は、驚くほど広い。そして、あまりにも冷たい。
お巷は、弥平が研いだばかりの鍬の刃を震える指でなぞる。
「返して……」
暗闇に向かって、掠れた声が漏れる。
「返しておくれよ、一郎太さん。あんた、あの子を『必要だ』って言ったじゃないか。あの子は、あんたの身代わりになるために行ったんじゃないんだよ……!」
お巷は、形見とでも言わんばかりに鍬を抱きしめた。
元々、一郎太の家とは「格」が違うのだ。
一郎太のような「持てる者」にとって、弥平のような「持たざる者」は、自分の大切なものを守るための、代えの利く「道具」に過ぎなかったのではないか。
「……結局、あんたは自分の家の『代』を守るために、うちの弥平を山に捨てたんだねぇ……!」
静寂が、お巷の声を飲み込んでいく。 その沈黙の中で、彼女の悲しみは、一郎太という「強者」への、逃げ場のないどす黒い憎悪へと形を変え始めた。
――
妻のおトヨが、何か声を掛けてくれている。ぼんやりとしてよく聞こえない。何を言っているんだ?
目の前には息子の豊一郎が見える。泣き腫らしているのか。顔が赤い。
記憶はないが、俺はどうにも帰宅したらしい。
『一郎太さんは、自分の息子のために、村の大事な宝を使い潰したんだ』
誰かが言ったその言葉は、またたく間に広場に浸透した。
それは悲しみというより、「自分たちの利益を奪われた」という、人々の根源的な怒りだった。
弥平は、村で一番腕の立つ若手だっただけではない。この村の「善意の象徴」だったのだ。
対して、一郎太はどうだ。 彼は土地を貸し、人を動かす側だ。弥平のような「汗を流す隣人」ではない。
一郎太は、太一の部屋の前に置かれた手付かずの膳を見つめた。麦の混じらない白い飯。この村でこれを日常的に食えるのは、広い畑を持つ我が家と、他に数件くらいのものだろう。
次男坊の太一には、長男のような「家を継ぐ重圧」をかけぬよう育ててきた。
山へ遊びに行くのも、「ある程度余裕があるからこその、道楽のようなものだ」と一郎太自身が容認していたのだ。
その甘さが、この災厄を招いたのではないか。
廊下を歩く一郎太の足元で、板張りの床がギシリと鳴る。
その音が、今の彼には「身の程知らずの贅沢」だと咎める村人の声のように聞こえた。




