第1話 契約結婚
その日の朝、俺、之々良海郎三十三歳童貞は途方に暮れてしまった。
「それじゃ、之々良さん、私出張に行ってくるから」
と、大きい荷物を持ち上げて妻の菊菜が俺に言ったのだ。
今日から約三ヶ月の長期海外出張に行くらしい。そのことを俺が聞いたのは二日前だが。
しかもその後は転勤もあるかもなんてことを匂わせたりもしたのだ。
「あ、あのさ……」
聞きたいことが色々あるからと俺は彼女を呼び止めようとした。
そんな俺のことなどお構い無しで、
「摩衣李をお願いね」
そう言って菊菜は忙しなく出ていった。
「いや、お願いって……」
つい俺がボヤキがでそうになった時、
「ふぇええーーーーん……」
と、ベビーベッドの赤ん坊が泣いた。
娘の摩衣李だ。
「おお、よしよし……」
こうして、童貞の俺の本格的な子育てが始まった。
妻と子がいて童貞とはこれいかに、と思われるだろう。
これには深い理由があるのだ。
事の起こりは約一年前に遡る――――
その日の夜、俺はのんびりと動画配信サイトのニュースを観ていた。
『AGI搭載の有機アンドロイド実用化へ』
「おおーーついにそこまで来たかーー」
AGI、つまり汎用型AIを搭載している自律的に行動ができるアンドロイドということだ。
しかも、ほぼ全ての部位が有機物で作られている身体は、見た目は人間と区別がつかないという触れ込みだ。
そう聞くと、陰キャ非モテの俺としては当然のことながら「カノジョアンドロイド」や「ヨメアンドロイド」を期待してしまう。
情けないことこの上ないのは重々承知だ。
だが、三十三歳にもなって恋愛経験ゼロだとさすがに諦めが出始めてしまい、ついそんな発想になってしまうのだ。
これでも若い頃は職場の先輩が女性を紹介してくれたこともあった。
だが、会った瞬間、俺を見た相手の女性の顔色が曇るのがはっきりと分かるのだ。
きっと俺は、第一印象からして女性に忌避される負のオーラのようなものを発しているのだろう。
そして全く自慢じゃないが俺はコミュ障でもある。
特に女子相手だとそれが顕著に現れる。
陰キャ非モテの常として女子と話すのが苦手で、恐怖すら覚えることさえある。
そのくせ「女性とお付き合いしたことありますか?」と聞かれると「す、少しなら……」などと見栄を張った大嘘をつくという、始末に負えない大馬鹿者なのである。
当然のことながら先輩の善意は無に帰すこととなる。
婚活らしきこともしたが、二年近くやって会ってもらえたのは一人。結果は言うまでもないだろう。
そういえば合コンに出たこともあった。
合コンなんていうものは恋愛上級者のためのマッチングイベントで、恋愛最下級民の俺なんかが出るものではないと思っていた。
だが時に人数合わせが必要になることもあるらしく、俺なんかにも声がかかったのだ。
あの合コンというもの、少人数だと陰キャ非モテは困る。というより場そのものが何とも言えない雰囲気になる。
俺というババを誰が引かなければならないのかという、女子参加者の困惑の空気がその場を支配してしまうのだ。
だが合コンでも人数が多いと普通の飲み会のようになって多少気が楽になる。
愛想笑いしながら幹事役みたいなことをしてれば、女子から虫けらのような目で見られることも少ない。
そもそもなんで女子は俺を虫けらを見るような目で見るのだろうと、思い悩んだこと数しれず。
まあ、仕方ない、きっと俺に原因があるのだろう。
こんな俺みたいな男は少数派だろうと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。
いや、俺ほどモテない男は極少数だろうとは思う。
だが、そこそこお付き合いはできるのに結婚にまで至らない、という人が増えているのだそうだ。
それではいけない、と世論に押されたからなのか政府も対策を打ち出してきた。
『政府が契約結婚制度の積極運用の推進を閣議決定』
そんなニュースが流れてきた。
これには、アンドロイドのニュース以上に俺は反応した。
「もしかしたら俺なんかでも……!」
なんてあらぬ期待を抱いてしまったのだ。
それが俺の運命を大きく変えることになった……
「ふぇええーー……ん」
娘の摩衣李の切なそうな泣き声が俺の物思いを破った。
「ええっと、なんだろ……ミルクかな」
俺はさっき作っておいたミルクを持ってきた。
「熱くはないかな……」
哺乳びんを頬に当てて確かめる。
(うん、大丈夫、多分……)
ベビーベッドの摩衣李の口に飲み口を当ててみる。
一口、二口……
「おお……飲んでる、飲んでる……」
しかし、すぐに口を離してしまい、
「ふぇええーー……ん」
と泣き出してしまった。
「えっと、そうしたら……」
俺は哺乳びんを置いて摩衣李の体を両手で抱き上げた。
そして腕に抱えるようにして、ゆっくりと揺すってみた。
「ふぇふぇ……」
しばらくは泣いていたが、やがて摩衣李は泣き止んでくれた。
「ほ……」
とりあえずは一安心だ。
だが、いつまでもこのままではいけない。
仕事の方は育児休暇をもらえているがそれも有期限だ。
そもそも休暇をもらえて育児に専念できるからといって、俺一人でなんとかなる状況ではない。
(ちゃんと細かいところまで詰めておけばよかったなぁ……)
摩衣李を腕の中でゆすりながら俺は思い返した。
この契約結婚、政府が推奨するということで、政府公認の契約結婚相談所が全国に設けられた。
俺はニュースを見て早速そこに行き手続きをした。
色々と説明を受けたが、基本的には結婚に伴う様々な事柄を事前に書面で契約を交わすというものだ。
結婚生活における経済的取り決めと家事育児の役割分担が主である。
別姓にするか同姓にするかも契約書に明記する。
共働きにするかどちらかが専業主婦(主夫)になるか。
住居を賃貸にするか持ち家にするか。
どちらかが遠方に転勤、転職した場合の住生活はどうするか。
など、結婚生活において想定される事柄を細かく規定できる。
雛形があるので、それを使えば比較的容易に手続きができそうである。
だが、この制度の特徴は契約本文の他に特記事項を加えることができるということらしい。
「特記事項の例、と……て、えぇ……!」
受付テーブルで説明書を読みながら、思わず俺は声を出してしまった。
俺は顔を上げて受付の女性職員を見ると、落ち着いたすまし顔で俺を見ている。
(あ、これは余計なことは聞くなってことだな……)
特記事項の例の一番上に書かれていたのはこうだ。
『性行為は夫婦双方の合意のもとになされなければならない。性行為を望む場合は【性行為同意申請書】を相手に提示し、同意を得なければならない』
(えっと……)
そもそも童貞の俺にすれば、行為に至るまでの手順などよく分からない。
(てことは、却って分かりやすいか……いや、待て待て!)
同意を得なければできないということは、相手次第では一生できないという可能性もあるということではないか?
確かに昨今は、夫婦間でも不同意性行為が問題になることもあるという記事を読んだことがある。
そういう社会事情を勘案すれば、このようなことを特記事項に加えることができるというのも当然のことなのかもしれない。
かもしれないが……
(せっかく結婚できても童貞のまま死ぬとか悲しすぎるよなぁ……)
その他にも財産分与がどうのこうのと書いてあった。
たが最初の事項に受けたショックのせいで、ろくに頭に入ってこなかった。
とはいえ、動かなければなにも始まらない。
俺は神に祈りながら契約結婚申込書を提出した。
そして待つこと一週間、契約結婚の候補者が決まったと契約結婚相談所から連絡があった。
登録に際して受付の女性職員に、
「お相手と会われる時は特に身だしなみに気をつけてください」
と、念を押すように言われた。
(俺ってそんなにだらしないのか?)
と、俺はその時の身なりが気になってオロオロしてしまったが、どうやら男全員に言っているらしい。
「服装や髪型に頓着しない男性が多いのです」
と女性職員は困り顔で言った。
この暗い性格と暗い顔を直せと言われてしまったらもうどうしようもないが、服装と髪型ならなんとかなる。
早速俺は、生まれて初めて美容院に行った。
陰キャの俺が美容院に行くなど、今までなら天地がひっくり返ってもあり得ないことだった。
とにかく必死だったのだ。
「どのようになさいますか?」
と美容師さんに聞かれたが、具体的にどこをどうすればいいのか俺にはさっぱりなので、
「お、お見合い用にしてください!」
と言ってしまった。
美容師さんが「クスッ」と笑ったような気がしたが、四の五の言っている場合ではなかった。
次は服だ。若い頃は服装も多少は気にしたが、今では似たようなものを着回しているだけだ。
俺はモールに行って店先にディスプレイされているものを見て回った。
正直、どれがいいか分からなかったが、年齢的に合いそうな店に入り、
「お、お見合い用でお願いします!」
と決め台詞を言って店員さんに選んでもらった。
そして結婚契約の打合せの日がやってきた。基本的に契約なのでお見合いとは言わないらしい。
なので場所もホテルのカフェテラスなどではなく、契約結婚相談所の建物内の個室で行われた。
(うう……やっぱ緊張する)
先に着いた俺は席についてガチガチになって待っていた。
そこに、職員さんに案内されて候補者の女性が入ってきた。
その女性こそ現在の俺の妻、緋之原菊菜だった。




