責任能力と無罪—諭吉とソフィアの終わらない会話
諭吉: テレビを見て思ったんだけどさ、責任能力がないからって無罪になるのはおかしいだろ? 悪いことをしたなら罰を受けるべきだ。
ソフィア: その考え方は直感的で分かりやすいわね。でも、責任能力の欠如が認められる場合、その人は「行為の結果を理解できなかった」と考えられるのよ。例えば、ある国では重度の精神疾患を持つ人の犯罪について「行為の意図がなかったために無罪」とされることがあるわ。
諭吉: いや、それでも犯罪は犯罪じゃないか? もし誰かが人を傷つけても、責任能力がないってだけで無罪になったら、被害者はどうなるんだよ。
ソフィア: もちろん被害者の視点も重要よ。でも、法の基本原則では「刑罰は行為の意図と責任を伴うもの」とされているわ。例えば、日本の刑法では心神喪失状態の人の犯罪は処罰の対象外とされるわね。なぜなら、その人は自らの行為の意味を認識できないからよ。
諭吉: そんなこと言ったって、犯人がどんな状態でも犯罪行為は起きているわけで、それを裁けないのは問題じゃないか?
ソフィア: では、法的に責任能力がないと認定された人を有罪にする場合、その人はどのように刑罰を受けるべきかしら? たとえば、認識能力を持たないまま刑務所に入れられることが果たして「更生」につながるのか、という問題があるわ。
諭吉: それは…でもそれならどうするんだ? 結局、犯罪者を裁かないなら、社会が混乱するだけじゃないか?
ソフィア: (軽くため息をつきながら微笑む)…なるほどね。確かに、諭吉の言うように、社会の秩序を維持するためにはシンプルなルールが求められるわね。じゃあ「犯人に責任能力があれば有罪」とシンプルな決まりでこの話は終わりにしましょうか。
諭吉: そうそう!それでいいんだよ!ソフィアもやっと分かってきたな!
ソフィア: ええ、これであなたの考えに沿うなら、それでいいわね。(もう少し複雑な視点を持ってくれたらいいのに…)