55 譲る気は無い*
※途中、キス挿絵にご注意ください
苦手な人は飛ばしてくださいね
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「また、出直そうかな……」
アリセアはユーグストから視線を外し、小さく息を吐いた。
無意識にきゅっ、と、唇を噛みしめ、一旦引き返そうとしたのだが、廊下にいる人の流れがすごい。
そんな時だった。
「うわっ!!」
「きゃっ……!?」
背後から突然、男子生徒が勢いよく衝突してきた。
アリセアの身体は思わずよろめき、バランスを崩して膝から崩れ落ちる。
手をついた床は冷たくて、思わず息を呑んだ。
「ごめんなさいっ! えっ、ユーグスト殿下の……アリセア様!? 大丈夫ですか!?」
どうやら、私がユーグスト殿下の“婚約者”だという噂は、思ったより広まっているらしい。
周囲がざわめき、いくつもの視線が私に向けられる。
(うそ……見られて……)
露わになっていた太ももに気づき、顔から火が出るようだった。
慌ててスカートの裾を直す。
(恥ずかしい………どうしよう)
そんな混乱の中、不意にざわめいていた声が、魔法をかけられたかのように静まった。
足音ひとつすら、やけに鮮明に響いた気がする。
アリセアがその空気を感じて顔を上げた時、
そこには――いつの間にか女子生徒の輪を抜けたユーグストが、黙って立っていた。
「あ、……ユー……」
ユーグ、と続けようとするも。
彼のその瞳には、いつもの柔らかな微笑みが、ないことに気がついた。
(え?……なに?)
どこか悲しみとも怒りにも似た感情が潜んでいる気がして。
アリセアの心がきゅっと掴まれたように震えた。
(どうしよう、私が転んじゃったから呆れられたのかな)
黙ったまま、彼がそっと手を差し伸べてきた。
その大きな手に戸惑いながらも、おずおずと、アリセアは自分の手を重ね、立ち上がる。
「あ、ユーグ……ありが」
アリセアが一言お礼を伝えようとした時。
――彼が静かにアリセアの耳元に顔を近づけた。
そうして彼女に囁く。
「その姿……無防備すぎる」
その低く落ち着いた声に、アリセアの全身がびくりと反応した。
え?
「ご……ごめんなさい、…ユーグに会いたかったから」
そんなユーグは、先程までの女子たちに視線を戻すことはなかった。
少し罪悪感を感じつつも、それにどこか安堵している自分もいて。
そのアリセアの、覇気のない、一瞬の間に気がついたユーグストは、眉を上げる。
「……アリセア、一旦こちらへおいで」
「え?……ユーグ!?」
ぐいっといつもより力強く手を引かれ、アリセアは彼に促されて、近くの実習室に入った。
扉が静かに閉まると、外のざわめきがまるで嘘のように遠のいた。
そこは陽の光が差し込む静かな空間で、使われていない模擬戦用の道具や机が整然と並んでいる。
「……まさかアリセアの方から来てくれるなんて、驚いたよ」
ユーグストがゆっくりと振り返りながら言う。
その声が思ったより近くて、アリセアの鼓動がまた早くなる。
「……授業、私の方が早く終わったから。……それで」
まだ震える手の中には、紙袋があった。
これを渡したくて来たのだと、ちゃんと伝えたいのに、うまく言葉にならない。
それに、緊張で目を合わせられない。
そんな自分に動揺していた。
いつも、一緒に過ごしているのに……。
「アリセア……?どうした、こっち向いてごらん」
そっと、彼の手が頬に触れられ、促されるように彼を見つめた。
「今、何考えてる?」
アリセアは、泣き出す1歩手前のような、切ない顔をしてしまっている事に、自身では気が付かなかった。
蒼い、瞳。
その輝きに、私の心まで吸い込まれそうで。
私、やっぱり彼のことーー。
「あの、私………」
気持ちがまとまっていなくて、なんて答えたらいいか分からず。
本来の目的をやっと思い出したころに、「贈り物を……」と、言おうとした瞬間。
ユーグストの瞳が、ふっと揺れた。
「……もしかして、アリセア……君、さっきのことで……」
その瞳はどこまでも優しく、でもどこか切なげで。
「いや……確信なんてないけれど。けど……今の顔、まるで――」
彼が言葉を飲み込むように、少し笑って、それから低く囁いた。
「……泣きそうな顔してる。そんな表情……俺にしか、見せてくれないよね?」
「そ、そんな顔、してます?」
その言葉に、アリセアの胸がきゅう、と締めつけられた。
「アリセア、……ずるいくらいに可愛い」
優しく抱き寄せられて、彼の言葉がそっと耳元をくすぐる。
「……ごめん。嫉妬、してたんだ、俺も」
彼の低い声が、やさしく耳朶を、刺激してくる。
「嫉妬……?」
どういう事?
顔を見上げるとユーグと目が合って……。
額にキス、された。
驚く間もなく、唇にも。
「んっ……!」
柔らかなキスに、私の全身が熱くなる。
(こんな、教室の中で……)
何度も、角度を変えて。
「っ、………ユーグ」
「アリセアのあんな姿や、今みたいな顔……俺だけにしか見せないで…」
「……!?……んっ……」
頬が真っ赤になっているかもしれない。
吐息が重なる。
深いキスに変わる頃には、紙袋を持つ手も、それごとユーグの手に包まれて。
最後に、目尻にキスをされて、彼は、ふっと微笑んだ。
「アリセアも、先程の俺の事見て、もしかして、嫉妬……してくれた?」
静かな声なのに、不思議と真っ直ぐ心に届く。
思い出すのは、ざわざわした胸の内。
女子生徒が彼に触れた瞬間の、あの、きゅっと縮こまったような気持ち。
(あれって……そういう……?)
何かを認めてしまうようで、思考が止まる。
頬が熱くて、視線を合わせられない。
アリセアの顔がみるみる真っ赤に染まったのを見て、ユーグは逆に驚いたようだった。
「え……アリセア……本当に?」
確信は無いとは言ったが、どこかで期待していた。
それでも、呆然としたユーグスト。
アリセアは顔を見れずに咄嗟に紙袋を渡す。
「こ、これ!ユーグの為に作ったの。……良かったら貰ってくれると、嬉しいです……」
「俺に?」
ユーグは掠れた声で、アリセアの方に顔を向ける。
ユーグが紙袋から取り出したのは、小さな箱。
そっと開けると、そこには柔らかく上品な生地のハンカチが丁寧に畳まれて入っていた。
縁には、落ち着いたブラウンの小さな石が、心を込めて縫い付けられ。
石の周りには、白い鳥が翼を広げるような刺繍。
王家の意匠を思わせるその姿に、ユーグは静かに息を呑む。
「……なにか、感じるね」
「えっと……精神を落ち着ける効果があるって言われてる石で。
洗っても取れにくいように縫ってあるから、使いにくくは……ない、と思う。刺繍も、まだ下手だけど……」
言葉を紡ぐアリセアの声は小さく、どこか不安げだった。
「……縁にその石を入れたのは……“私が、あなたを守ります”って意味を込めたくて……」
恥ずかしそうに伏せた瞳。
でも、そのひと針ひと針に、どれだけユーグストを想っていたのかが、痛いほど伝わってくる。
「……アリセアが作ってくれたと言うこと?」
「は……はい」
アリセアの心が跳ねる。
(どうしよう、……すごく恥ずかしい)
ユーグは、一瞬呼吸を止めたようだった。
ハンカチの刺繍を、ふるえる指でなぞるように見つめる。
「……これ、本当に……君が?」
彼の声がかすかに震えていた。
まるで大切な夢に触れてしまったような、恐る恐る確かめるような声音。
ゆっくりと、ユーグの唇に笑みが浮かんでいく。
それは、今までアリセアにしか見せたことのない、心からの微笑みだった。
「……ありがとう、アリセア」
「あっ」
そのハンカチごと抱きしめられて、アリセアの鼓動が最高潮に達した。
けれども、彼の温もりや、いつもの甘い香りを感じるうちに、徐々に落ち着きを、取り戻してきて……。
(ユーグといると、ほっとする……。)
アリセアはそっと瞳を閉じた。
ユーグストの存在を確かめるように。
ふっと、あの日のことが鮮明によみがえり、アリセアは今も頬が熱くなるのを感じていた。
「でも、ユーグも、フォートも、素敵な試合だったな」
彼らと出会えた喜びに、感謝したい。
そしてーー
アリセアが、片付けも終わり、校庭から、教室へ戻ろうとしていた時。
ふっと視線を横にすると、遠くに、校舎に戻るフォートの背中が見えた。
(あ……試合凄かったよって、言いたい)
けれど。
(本気で勝つって言ってたから、きっとショックだよね)
声をかけたくて、でも届かない気がして――
気づけば、視線が彼の背に吸い寄せられていた。
その横顔に滲む悔しさ。
滲む孤独。
胸がちくりとする。
(少し時間が経てば……また、話せるかな)
そう考えていると。
「……アリセア」
その声に、はっとして振り返ると、そこには――
ユーグが、少し不安げに、でもどこか気を張るようにして立っていた。
「あ!ユーグ」
少し呼吸が乱れているように感じたのは、走ってきたからか。
「おめでとうございます!私、あんなにドキドキした試合が見られるとは思わなくて……」
アリセアは、思わず満面の笑みでユーグに笑いかけた。
「……アリセアのハンカチが効いたのかな、落ち着いて試合が出来たよ」
「そんなことは、全部、ユーグの実力だから」
その言葉が嬉しくて、アリセアはふふっと照れた。
「それに、とっても素敵でした。まるで剣と一体化したように軽々と動いて、技の精度も高くて」
「ありがとう、アリセアに1番、見てもらいたかったから」
「え……?」
「......」
二人の間に、一瞬の沈黙。
ユーグストは、ただ黙ってアリセアを見ていた。
その目は、どこか揺れながらも決意を秘めていて。
戸惑いながらも、彼の中で何かが静かに燃えているようだった。
「ユーグ?」
アリセアがそっと名を呼ぶと、彼はほんの一瞬だけ、視線を伏せ――
次の瞬間には、また彼女の瞳をまっすぐに見返していた。
そして、柔らかく微笑む。
「アリセア......決勝は、俺にとって大事な……覚悟を示すようなものだったんだ」
「覚悟?」
「あぁ。けれど、......それよりなにより、...俺はーー」
言葉を選ぶように一拍おいてから、彼はそっとアリセアの左手を取った。
そして、彼女の瞳を見つめる。
彼の指先が震えていることに、アリセアは気づいた。
そしてーー
彼はアリセアの左手薬指に、静かに唇を落とした。
触れるか触れないかの柔らかさで――
けれど確かに、そこにキスを。
「え!?」
頬が一瞬で熱を帯び、アリセアは息を呑んだ。
心臓がドクンと大きな音を立てる。
「ど、どうして……?」
目を逸らそうと思っても、逸らせない。
彼の澄んだ瞳が、まっすぐにこちらを見つめていたから。
「……顔、真っ赤だね、アリセア?」
その言葉に、彼はふっと柔らかく笑って、そっと手を離す。
立ち上がった彼の影が、陽光に、照らされる。
アリセアの表情を、ユーグストはあますことなく全てをみていた。
「あ......」
(今、顔見られたら、私……)
鼓動が高鳴る。
アリセアは、ぎゅっと、無意識に自身のスカートを掴んでいた。
「この続きは、……またいつか」
その言葉を口にする時、彼の表情はほんの少し緩んで。
照れるように目を細め、やさしく微笑む。
その笑みには、どこか安心したような、胸をなでおろしたような気配もあった。
「アリセア、またね」
そう言ってユーグストは背を向けて静かに歩いていった。
「いつかって……」
まるで“答え”を、アリセアの手に託したように。
私の覚悟が決まったら、ということ??
まだ、頬が熱い。
足元がふわふわする。
アリセアは、その背中を、ただ黙って見送るしかなかった。
ー恋も戦いも譲る気はないー




