②ユーグスト・アルゼイン
「アリセア、身体の調子はどう?」
私の目の前にいる優しい面差しの金髪の青年は、あの時、私を助けてくれた人だ。
彼の優しい表情に、私は安心感を覚える。
「ありがとうございます、あの時よりもすっかり元気になりました」
彼はほっとしたように微笑み、ゆっくりと言った。
「うん、良かった。見た感じは顔色も凄くいいけれど、無理はしなくて良いからね」
「はい」
私は今、アストリア帝国の王宮の一角で、静養の場を与えられている。
目覚めた時は本当にびっくりした。
「アリセア、もし元気なら庭園でも歩かない?」
「はい、ぜひ」
真っ青な空の下、赤や黄色、紫の花々が風に揺れて咲き誇る庭園を、私たちはゆっくり歩く。
アストリア帝国――この国には、白と青の大理石でできた美しい宮殿があり、近くには魔法学園もある。
私はそこで倒れていた。
今日の私の服は、静養先でも動きやすい淡いラベンダー色のドレスだ。
「アリセアにとっては久しぶりの外かな?」
「はい!わぁ、綺麗……」
乳白色の石畳をのんびり歩きながら、私はふと、ユーグストを見つめた。
彼は白シャツにブルーグレーのベスト、青い色のネクタイ風スカーフ、気品と清潔感を兼ね備えた姿はとてもよく似合っている。
(私から……話しかけてもいいのかしら)
少し迷ったけれど、勇気を出して声をかけた。
「あの、ユーグスト殿下。そのスカーフ、お似合いですね」
私がそう言って微笑むと、彼は驚いたように目を丸くし、けれど、照れたように笑った。
「ありがとう、……実は以前君から贈られたもので、気に入って使わせてもらっているよ」
そう言う彼は――
このアストリア帝国の第2王子、ユーグスト・アルゼイン殿下ーー18歳。
私より二つ年上で、そして……恐れ多いことに、
私、アリセア・ヴァレティアの婚約者だった。
けれど。
(私は、殿下のことを、全然覚えてない…)
貴族名鑑の中にはもちろん彼がいて、名前は覚えていたものの、自分と関係してるなんて思いもよらなかった。
「ご、ごめんなさい。でも、凄くお似合いで……気に入って頂けて嬉しいです。あ、そういえば、今まで何度も面会して下さってくれていたようで、ありがとうございます。でも、その時のことをあまり覚えてなくて」
「気にしないで。何度でも言うよ、君が無事でよかった。……記憶がない状態を“無事”って言っていいのか、少し迷うけど」
「そんな……皆さんのおかげで元気になったので、感謝しきれません」
どうやら、彼が、通っていた学園や、私の家族に事情を説明したり、関係各所に対して様々な配慮をしてくださったらしく。
私たちは奥のベンチで、腰を落ち着けた。
彼は安心させるように優しく微笑む。
「そうそう、君は、私のことをユーグと呼んでいたよ」
「ユーグ、様?……愛称で呼ばれていたんですね」
アリセアはそれに驚いた。
「気軽に、ユーグ、と呼んでいいからね」
「ありがとうございます。……ユーグ」
愛称呼びは、どこか気恥ずかしさがあったけれど、
彼の優しさに背中を押され、思い切って。
ユーグスト殿下は、そんな私を見て、ふっと優しく笑ってくれた。
「素直だね。やっぱり君らしくない。けど、今の君も新鮮で可愛らしいね」
「え!?」
(か、可愛い!?)
胸が高鳴り、頬が一気に熱を帯びていく。
とっさに彼の視線から逃れるように、私は目を逸らしてしまった。
どうやら――
殿下は、想像以上に、甘い言葉をさらりと使う人らしい。
「ところで……アリセア、少し、話をしてもいい?」
隣に座っていた彼が、ゆっくりと私の方に体を向きなおした。
「は、はい!」
何を聞かれるのだろうか。
先程とは違って、少しだけ張り詰めた空気を感じる。
まっすぐで、真剣な彼の眼差し。
思わず、背筋を伸ばした。
「君の髪の、毛先の色味が、変わってきてるね」
彼の指が、そっとアリセアの髪の一房をすくい上げる。
優しくて、どこか切実な響きを含んだ声に、胸の奥がきゅっとなる。
太陽の光を浴びた毛先が、きらりと光る。
ブラウンから、プラチナへ。
自然なグラデーションのように、色が変わっていた。
元々はブラウン1色だったようなのだけれど。
「そうですね。……髪の色に変化が起きてるようです……」
顔をじっと見られている訳では無いのに、なんとなく気恥ずかしくなったアリセアは困り顔になる。
こうして髪に触れられるのは、嫌ではないのだけど。
(なんだか、恥ずかしい……)
「あの……もしかして私の髪色の変化は、倒れていた事と、何か関係があるのでしょうか」
恥ずかしさをごまかしながら、ユーグストを見つめる。
目の前の彼は、絵画から抜け出したかのように、本当に美しい人だ。
「そうだね、そんな気がする。」
それまで髪を見つめていた彼の視線が、今度はこちらに向いた。
彼の瞳は、綺麗な碧色で。
深い煌めきに吸い込まれそうだ。
「アリセアのご両親には会えた?」
「はい、全く覚えてなくて申し訳なかったのですが……」
私は少し肩を縮こまらせて答えた。
記憶を失った私の姿を見て、父と母はひどく驚いていた。
髪色の変化もあって、余計に別人のように映ったのかもしれない。
記憶もなく、心配をかけてしまったが、温かく接してくれた。
そんなことを考えていた私は、いつの間にか彼にじっと見つめられていたようで、思わず戸惑いの視線を向けた。
「……ユーグ?あの、なにか?」
「ん?何?」
何って、じっと見てきたのは殿下の方なのですが。
彼のまっすぐな瞳に見つめられるたび、胸の奥がざわつく。
恥ずかしさと照れくささが入り混じって、思わず視線を逸らしたくなる。
記憶がなくても、身体が彼を覚えているのかな?
先ほどから、心臓の鼓動が速くなっているのが自分でもわかる。
「お医者様はなんて?」
「えっと、記憶喪失は倒れたときの一時的なもの、学業には問題がなさそうですね、と言ってくださいましたが……」
言葉をどうにか選びながら話す。
「アリセア、記憶が戻るまで、ゆっくりしてもいいんだよ?」
思案顔のユーグスト。
今回の件の原因がわかるまでは、学園に復帰させるべきか、それとも静養を続けるか――。
そんな風に、彼はまだ決めかねているようだった。
ただ、私は…。
「ユーグや、周りの皆様さえ良ければ、
私、……学園で今まで通り………にいくかは、正直わかりませんが、勉強を再開したいです!」
記憶がなくなったままでも、身の回りの事や勉強の内容、一般的知識はどうやら身についている。
ただ、自分と関わりがある、身近な人との思い出だけが、モヤがかかったかのように思い出せない。
すごくもどかしい。
「アリセア……もしかして、私の立場を気にしてくれている?」
「も、勿論です」
「アリセア、ありがとう。でもね、原因が分かるまでは、私としては外に出したくないくらいなんだけど」
憂い顔のユーグストに、私は慌てて立ち上がる。
「大丈夫です!……今度は気をつけますから」
気をつけるも何も、確かに現場に魔法陣はあったものの、事件なのか、ただの体調不良で倒れていたのか判断がつかない。
だけど、案外なんてことのない、ただの不運なことが重なった事故の可能性もあるのではないだろうか。
いずれにせよ、私一人の問題に、ユーグスト殿下をこれ以上巻き込むわけにはいかない。
倒れていたことを知るのは、ごく限られた人々だけ。
学園長、両親、ユーグストの護衛たち、そして皇帝・皇后、皇太子殿下。
皇后陛下さまが「王子の婚約者が倒れたなどと広まれば、大騒ぎになります。そして最悪の場合、婚約破棄も検討せざるを得なくなる。……だからこそ、早期に解決を。」
と仰られていたらしい。
それでも、皇后さま直属の配下が、色々原因を調べてくれ、最大限配慮していただいたようで、感謝しきれない。
だけれども、今のところ手がかりを掴めていない。
そして、私の体にも、倒れた時にぶつけた頭や肩の痛み以外、特別異変はない様子で。
それらの外傷すらも、今は王宮の治癒士が完璧に治療してくれて治っていた。
異変といえば、少し魔力に乱れが出ているくらいだけど、
貧血や体調を崩している時は一般的にそうなりやすいので、特別視される事では無い。
つまるところ、分かっているのは何らかの意味を持つ魔法陣が発動していたこと。
私が倒れて一部記憶をなくしていることくらいだ。
ユーグスト殿下はしばらく思案しーー頷いた。
「分かった……でも、今以上に気をつけること。いいね?」
「はい!……ありがとうございます」
そうして私は、ユーグスト殿下の配慮のもと、明後日から学園に復帰することになった。
****
アリセアを、部屋まで送ったあと、ユーグストは自室へと向かいながら、小さく息をついた。
アリセアの毛先の色味が変わったのは、魔法陣が何か関係あるとすると……。
原因は何か。
何の目的で仕掛けたものなのか。
考えれば考えるほど、曖昧な点ばかりが浮かび上がってくる。
(……でも)
今の彼女に、これ以上の重荷を背負わせるわけにはいかない。
「それにしても、すっかり変わってしまっていたな」
ほんの少し視線を向けるだけで、その感情の揺れが伝わってくる。
ころころ変わる表情。
頬を染めて、視線を逸らすしぐさ。
ーー内面をそのまま映し出したかのように。
柔らかに微笑むあの破壊力と言ったら……。
「いや、変わってないところもあるか」
まっすぐで、心を揺さぶるーー。
明後日、彼女は学園に戻る。
その決意の裏に、どれほどの不安や葛藤があったか。
気丈な笑顔の奥にある、それを、彼は見逃さなかった。
(……守らなくては)
ユーグストは静かに決意した。
次はいよいよ魔法学園です