ルテティアの追想1
ゴッ
鈍い嫌な音が響く。雷の光が一瞬ピカっと光って、停電していた部屋の中を照らした。
(ぼくはなんでこんなものを握っているんだ?)
クリストファー・サウンド。愛称クリス。彼の手には重いガラス製の灰皿がある。その角には血がこびりついていた。目の前には妻のナタリーが倒れている。
雨が急に強くなり、夜の闇の中に雑音を響かせる。クリスは廊下の影から逃げ出していく存在には気づかなかった。
クリスには娘が一人いる。名をルテティア。彼女はもう十歳になる。
笑顔の少ない子、と言えばそうだ。ルテティアは母親が六年前に行方不明になってから、あまり笑わない子になってしまった。
丸っこい顔にグリーンの猫目、小さなピンク色の唇。そして色素の薄い髪を後ろで三つ編みにした髪型が特徴だ。いつもワンピースを着ている。ちょっと大人しい子だけれど、クリスと一緒に一生懸命、庭の花壇の世話をする姿は愛らしい。
愛らしい……確かに四歳くらいまでの子供の頃はそう思っていた。だがクリスは妻のナタリーが行方不明になる直前に聞いてしまった。ルテティアは自分の子ではないと。
ナタリーは不貞を働いていて、ルテティアはその相手の子供だと言っていたのだ。
気持ち悪い。
ルテティアのグリーンの目と口元は自分に似ていると思っていたのに。
相手の男が行方不明になったナタリーを探して、家に乗り込んできた事があった。どういう神経だとクリスは憤りを感じたが、極めて冷静に対処した。
「おまえの所に逃げていったんだろう」
そう言うと男は色々喚きながらも出ていった。ルテティアを引き取る気はないらしかった。戸籍上はクリスの子という事になっている。クリスが育てない訳にはいかなかった。
六年、辛抱していいパパを演じながらルテティアを育てた。
そんなルテティアがある日、学校から泣いて帰ってきた。大人しい性格のルテティアはどうやらいじめにあったらしい。その時、クリスの心に形容しがたい愉悦の心が湧いた。
不義を働いた男と女の子供が、苦しんでいる。ざまあない。
ただそんな心は隠して、ルテティアの涙をそっと拭ってやる。
「君にはパパがついているよ」
そう言うと、ルテティアはぎゅっとクリスに抱きついてきた。
「あたしの味方はパパだけよ」
途端にクリスの心に深い愛情が湧いてくる。
ああ、この子にはぼくが必要なのだ。
クリスはルテティアを抱きしめ返す。しかしその顔に現れた笑みを見ていたら、ルテティアはそれを純粋な愛情とは思わなかったかもしれない。
そんな事があってから、クリスは再婚を考えだしていた。以前からクリスにアプローチしてきている女がいる。妻のナタリーが勤めていた会社に所属しているイザベラという女だ。
イザベラはナタリーの浮気を知っていたと言い、よく表情の動く顔で、ずっと憐れに思っていたのよという顔を作る。いささか押しつけがましい同情心の中に、下心が見え隠れする女だ。
クリスの父はそれなりの大会社を経営している男だ。だからまあ富豪と言える部類の人間だ。クリスはその子会社に勤めている。生活に余裕がない訳ではないが、父ほどの財は持っていない。それでも勘違いした女が言い寄ってくる事はままある。
クリスはイザベラと結婚した。そして思った。嬌声のうるさい女だと。
イザベラはさほど子供に関心はなさそうで、ルテティアに何の遠慮もない。ルテティアは戸惑いながら、おずおずとクリスに尋ねてくる。
「パパ、新しいママが嫌いなの?」
「どうしてそう思うんだい?」
「だっていつも夜、ママの悲鳴が聞こえるの。パパ、ママとケンカしているの……?」
クリスの胸にまた深い愛情が湧いた。あの女のうるさい喘ぎ声の意味を、この無垢な少女は理解していない。ああ、なんてきれいな生き物なんだ。
もっとどろどろに聞かせてやりたい。
ルテティアはそっとクリスの手を握ってきてくれる。
「パパ、パパが嫌なら、あたしはママなんかいない方がいい。あんなママ……嫌い」
クリスは吹き出しそうになるのを必死で抑えた。この少女はパパとママのケンカの意味を薄々はわかっているのかもしれない。きれいなものがきれいなまま汚れていくのはなんて楽しいんだ。
クリスはその夜から激しく、激しくした。イザベラの嬌声が悲鳴のように響くたびに、ルテティアがそれを震えながら聞いているのを思って心が昂った。
しかしそれからほどなくしてイザベラは消えた。
「あの男、へったくそ! サルの一つ覚えもいい所だわ。感じてる振りするのがいつも大変よ!」
イザベラが友人にそう漏らしていたのを、クリスは陰から聞いていた。いなくなった事に寂しさなど感じなかった。ただあの女の表情豊かな顔が自分を嘲笑っているのが見える。クリスはルテティアを強く強く抱きしめた。
「あたし、パパと二人で平気だよ。だから泣かないで、パパ……」
ルテティアは優しくクリスを抱きしめ返してくれた。
それからまた数年後、ルテティアが十五の時になると、クリスはオラマという女と結婚した。オラマは少し太っていて、美人でもない上にあまり笑わない女だった。オラマには既に家族が一匹いた。ゴールデンレトリバーのロッキーだ。オラマはそのロッキーに接している時だけ、優しい声色になる。
一方のルテティアは子供の頃から変わらない格好だった。色素の薄い髪を後ろで三つ編みにした髪型に、ワンピース。
ルテティアが髪型を変えたり、他の格好をしようとしたりすると、クリスは露骨に嫌な顔をした。
ルテティアはぼくのお姫様なんだ。その辺にいる俗な子達のような振る舞いはさせたくない。
それがクリスの考えだった。
ルテティアはそれを敏感に感じ取っていたのだろう。クリスが好まない格好をしようとはしなかった。
クリスはルテティアがまたいじめられているのを知っていたが、何もしなかった。ルテティアも何も言わない。
「パパにはあたしがいるよ」
ただそれだけを言い、クリスを抱きしめる。クリスもルテティアを抱きしめる。
「君にはぼくがいるよ」
その言葉が愛情から出ているものなのかどうか、クリス自身にもわからなかった。