新しい部屋
この感覚はまた転移したのだろう。ゆっくりと瞳を開ける。
(…あれ?)
ここは一体どこだ。自室でも、あの男の部屋ではない。シーツの乱れたベッド、机の上にはノートや教科書が開かれたままのように見える。飲みかけのペットボトルを放置しているところを見ると、几帳面とは言い難い性格のようだ。壁這いを使って、部屋を探索する。ベッドに机、本棚にはたくさんの本が収納されている。漫画だらけかと思いきや、難しそうな題名の本や参考書、私には無縁の使い込まれてボロボロになった赤本が何冊もある。努力家なのだろう。きっと頭のいい人であるに違いない。棚を眺めていると、一枚のメッセージカードが飾られていることに気づいた。
『ちかげくんへ 自分を信じろ!君ならできる!』
勇気づけるような言葉が綴られている。どうやらこの部屋の住人は"ちかげ"という名前のようだ。日はすっかり落ち、明かりが恋しくなってきた。
あれから何時間経ったんだろうか。この部屋に時計はなく、正確な時間がわからない。扉の外からは物音や喋り声が微かに聞こえるが、密室から抜け出すスキルはまだ獲得していないためここから抜け出す手段がない。部屋の探索にも飽き始めた頃、階段を登るような音が聞こえた。
ータッタッタッタッ…カチャー
明るくなった部屋に若い男が入って来た。手慣れた手つきで机の上を整理し、カバンからパソコンを出し何かを打ち込み始めた。この男がきっと"ちかげくん"なのだろう。細身で黒髪、前髪が重めのため表情がうかがいにくい。
(落ち着いた雰囲気だし社会人…か、大学生かな。)
区切りがついたのかタイピング音が止まった。
「よし。」
着ていたパーカーを脱ぎ捨てると、上半身があらわになった。これが着痩せというやつなのだろうか、意外と筋肉質な体をしている。腹筋、腕立て、スクワットと黙々とこなしていく。
ーブーッブーッー
汗を軽く拭いながら、スマホを手に取る。
「はい、もしもし。」
会話を続けながら、パーカーを拾い身にまとう。
「今ですか?家にいますよ。…会いに行きましょうか?」
ふふっとちかげくんの口元が緩む。そんなセリフ言われてみたい。電話口の相手は彼女さんかな。壁になってまで、他人の幸せを見せつけられるだなんて。これ以上会話を盗み聞きする気になれなくて、ちかげくんから離れた位置に移動する。笑うたびに髪の毛が小さく揺れ動く。ちかげくんは彼女のことをとても大切に思っているんだろう。愛おしいと思う気持ちが溢れ出ているように見える。
(…いいなぁ。)
本心から出た言葉だ。人との触れ合いを拒絶しておきながら、愛を求めてしまう。私も誰かに愛されてみたいし、愛してみたい。
ーギギィー
深く腰をかけたのか、椅子が軋む音が鳴る。ため息混じりにちかげくんの背中を見つめる。右手がリズミカルに上下に動いている気がする。
ーブチ!!ー
ー…ガシャンっ!ー
「…え?」
スマホの落下音と共に目を開く。ここは…よく見慣れた部屋、自室に戻って来たようだ。スマホを拾い上げると時刻は22時を過ぎていた。
(今回は衝撃なしで戻った…のかな?)
なんとも言えない違和感に襲われるが、とにかく汗で湿った体がベタベタして気持ちが悪い。疑問を抱えながら脱衣所に向かう。一刻も早くお風呂に入りたい。