桜の樹の下には屍体が埋まつていない
鈴谷さんが桜餅を食べている。僕はそんな彼女に見惚れていた。彼女には何と言うか和的なものがとてもよく似合っていると思う。
分厚い眼鏡越しでも力を失わない美しい瞳、細身の身体は芸術的とも言える緩やかラインを描き、肩ほどにまで伸びた髪がささやかに彼女の身体を撫で、背景の桜の花がそんな彼女の存在を浮き立たせている。
「鈴谷さんには、桜がよく似合うなぁ」
思わず僕はそう呟いてしまった。
しかし、それを聞くと彼女は「はぁ?」と疑問符を伴った声を上げたのだった。
「何を言っているの? 佐野君? 桜なんか何処にもないじゃない。まさか、この桜餅のこと?」
「いや、ごめん。それ、僕の中でのエフェクトの話」
「本当に何を言っているの?」と、それに不可解そうな顔で彼女は返した。
因みにここは大学のサークル棟にある民俗文化研究会という名のサークルの部屋の中で、はっきり言って汚いし、桜の木が窓の外に見えていたりもしていなくて、そもそも今は9月だから桜の花が咲いてすらいない。
……さっきの“背景の桜の花”は、完全に僕の想像だったりする。
僕は大学の新聞サークルに所属していて、新聞記事の内容を相談するという名目で彼女、鈴谷凛子さんに会いに来ているのだった。何故なら彼女が好きだから。
普段からしょっちゅう彼女を訪ねている所為で、多少煙たがられているような気がしないでもないけれど、今日は安心だ。何故なら、手土産に桜餅を用意したから。彼女は甘いものが好きなのだ。
民俗文化研究会なんてサークルに所属してはいるけれど、そういうところはちゃんと女の子らしい。
可愛い。
素敵だ。
それなら、いつも甘いものを土産にしろよって話だけど、彼女の魅力的なスレンダーな体型が崩れてしまうかと思うと、そう頻繁には使う気になれない。
「……なんか、失礼な事を考えていない?」
と、そんな事を思ったタイミングで鈴谷さんが尋ねて来た。
流石、鋭い。
「しかし、桜っていかにも日本って感じだよね…… って、まぁ、確か桜は韓国起源だって説があったはずだけども」
「その説あるけど、桜…… と言うか、ソメイヨシノね」
「そう、それ」
ソメイヨシノが韓国起源だという説が以前囁かれていて、聞いた話だと韓国では多くの人が未だに信じているのだとか(本当かどうかは知らない)
もっとも、勘違いだって線が今では濃厚だって話だ。
「鈴谷さんは、どう思っているの? ソメイヨシノ韓国起源説。
韓国だとその説を信じて、ワシントンにある日本が贈った桜をアメリカ人が綺麗だと言っているのを悔しがっている人もいるって話だけれど」
桜餅を食べて、お茶を飲むとそれに彼女は「はっきり言って、ナンセンスね」ときっぱりと返した。
「あ~、やっぱり間違っているって思っているんだ?」
「いいえ、それ以前の問題よ。日本人が生み出したのは“桜を愛でる文化”であって、桜そのものじゃない。当たり前だけどね。植物の起源はあまり重要じゃないわ」
「なるほどね」とそれに僕。
社会科学が好きな彼女らしい意見だ。
「もっとも、日本人が生み出したのは、“桜を愛でる文化”だけじゃないけどね。桜を恐怖の対象としても捉えていた。
直ぐに思い付くのは、坂口安吾の“桜の森の満開の下”。それと、梶井基次郎の“桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる”って有名な一節とかね」
僕はそれを聞くと、ポンッと手を叩いて、「そう。当にそれなんだよ」と言った。
「何がそれなのよ?」と訝しげな顔で彼女は返す。
――僕の家の近所には、庭に桜の木が生えている家がある。その家には、お婆ちゃんが住んでいて、近所の中学生の中目君はそのお婆ちゃんと仲が良い。そして、その中目君はある日、その桜の木に異変を発見してしまったのだった。
何故か、桜の木の下に掘り返された跡があるのだとか。
“死体が埋まっているのかな?”
と、それで彼は不安を覚えた。
それほど詳しくはないけれど、『桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる』という言葉は知っていたから連想してしまったのだ。
もっとも、“まさかね……”とは思っていたようだけど。
ただ、そのお婆ちゃんの旦那さんは既に他界していて、随分前から一人暮らしをしているらしいから、いずれにしろ物騒な話だ。それで彼はお婆ちゃんに「あれ、何かあったの?」と訊いてみた。するとお婆ちゃんは、「話は聞いていますから」とだけ答えたのだそうだ。
話を聞いている?
不気味に思った彼は、「話を聞いているって何?」と尋ねてみた。お婆ちゃんはそれに何でもない事のように、
「親切な方が来てね。桜の木を綺麗にしてくれるって言うもんだから、お任せしたのですよ」
なんて答えて来たのだそうだ。
はっきり言ってかなり怪しい。
彼には“桜を綺麗にする”って言うのが、どういう意味なのかがまず分からない。桜の木の下の地面が掘り返されていることを考えるのなら、何かしら肥料を埋めたという事なのだろうか?
――だけど、何の為に?
「その人は、なんでお婆ちゃんの家の桜を綺麗にしようとしたの?」
不思議に思って、彼はそう尋ねた。お婆ちゃんはやっぱり何でもない事のように、
「うちの桜が汚れているからだって言っていたね。公園とか桜並木の桜じゃ駄目とも言っていたよ」
なんて返して来る。
さっぱり意味が分からない。
『桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる』って言葉が出て来る小説は、確か桜が綺麗な理由が屍体が肥料になっているからとかそんな話であったはずだ。
ならば、あの掘り返された跡には、本当に死体が埋まっているのだろうか?
そう思った彼は、お婆ちゃんに許可を取って、掘り返された跡の地面を掘って確かめてみたのだそうだ。
人間の死体は埋まっていなくても、犬とか猫とかの死体くらいは出て来るかもしれないと思って。
ところがいくら地面を掘っても何も出て来なかったらしい。
取り敢えず、“死体を埋めた”という線はなさそう。肥料や他の何かを埋めたような形跡もない。
ならば、どうして地面を掘ったのだろう?
中目君はお婆ちゃんが騙されているのではないかと考えた。何かは分からないけど、何か悪事に利用されているのではないか?
それでお婆ちゃんの近所に住んでいる人達に聞き込みをしてみたのだとか。
すると、
「夜中の6時とか7時頃に、何かやっている人達がいたよ。なんで、こんな夜中に?って不審に思っていたのだけどさ」
なんて証言が得られた。
夜中。
ますます怪しい。
ただ、やっぱり、何を目的にしているのかが分からない。いや、そもそも何をしたのかも分からない。
彼の目が確かならば、その何者かはただ単にお婆ちゃんの桜の木の下の地面を掘って埋めただけなのだ。その行為に何か意味があるとは思えない。
彼は首を傾げるばかりだった。
「……って訳なんだよ、鈴谷さん。
その中目君と僕は知り合いでさ、彼は僕が新聞サークルに入っているって知っているもんだから“ネタに使えないか?”ってこの話を持って来てくれたんだ」
そう僕は話し終えた。
「ふーん」と、それに鈴谷さん。
なにかちょっと嫌そうな顔をしている。
「この話から何かお婆ちゃんが騙されているってケースを僕は想像できないのだけど、一応、少し心配だよね。その桜の木の下の土を掘り返している人が何をしているのかも分からないし」
ちょっと考えると、鈴谷さんは「その桜の木って……」と言いかけて、「いいえ、やっぱりいいわ」と言うのを止めた。
気になった僕は「どうしたの?」と尋ねてみる。
「少し思い付いたのだけど、憶測で物を言うものじゃないと思って自重したのよ」
やっぱり嫌そうな顔をしている。
「とにかく、そのお婆ちゃんが心配だから、訪ねてもう少し詳しく事情を訊いてみようと思うんだ。
ただ、僕一人じゃちょっと自信なくてさ」
僕は媚びるような気持ちで彼女に訴えかけた。そんな僕に彼女は呆れた視線を送る。
「そんな気持ちの悪い目で見ないでよ、佐野君。心配しなくても私も行くつもりよ。ちょっと個人的にも興味が沸いて来たから」
何に鈴谷さんが興味を惹かれたのかは分からないけど、僕は彼女が来てくれると聞いて大いに喜んだ。
中目君に頼んで、件のお婆ちゃんに僕らを紹介してもらった。話を聞いている限りでは、そんな事をしなくてもおおらかに受け入れくてそうなお婆ちゃんだと思ったけれど、まぁ、一応。
中目君が僕らを「友達を連れて来たよ」と紹介すると、お婆ちゃんはにこにこと笑いながら「そうですか、そうですか」と何度も頷いて、僕らが庭の桜を観察する事を許してくれた。
警戒心がまるでない。
中学生の彼が大学生の僕らを“友達”と言って連れて来たのだから、少しくらいは不審に思っても良さそうなものなのに。
それで僕は、“なるほど、これでは中目君が不安になるのも理解できる”と思ったりした。
お婆ちゃんの家はやや小さめの平屋で、庭は家とは不釣り合いに思える程に広かった。雑草なんかが生えていて、それほど手入れをしているようには見えないけど、何故か“荒れている”という感じはしない。
問題の桜の木は、その庭の奥にあった。
その桜の木は立派過ぎて、やはりお婆ちゃんの家には不釣り合いに思えた。一体、どういう経緯で庭に桜の木が生えているのか不思議になるくらいだ。
中目君に案内されて(案内されるまでもないけど)、僕らはその桜の木に向かった。彼の言う通り、地面に掘り返された跡がある。鈴谷さんはその掘り返された跡を見ると、中目君に「君はどの辺まで掘ったの?」と尋ねた。
「直ぐ下の所だけだけど?」と彼は答える。
すると彼女は、「なるほど。じゃ、ここら辺はもとから掘ってあったんだ?」と言って木の根元から少し離れた地面を指差した。根本からは離れているけど、枝が伸びた範囲からは出ていない。一応、桜の木の下と言えるだろう。時間が経っていそうだけど、その地面も掘り返されているように見える。
「うん」とそれに中目君。
僕は不思議に思って、「それが何か関係あるの?」と尋ねる。
「もしかしたら…… って感じかしら」
そう返すと、彼女は今度は掘り返された形跡がない周囲の地面を観察し始めた。黒い小さな塊がたくさん転がっている。
「ふむ」と一言。そして、今度は視線を桜の葉っぱに向けた。しばらく観察していたようだけど、やがて「やっぱり素人には分からないわね」と言って桜の木の下から離れ、中目君を呼び寄せた。
なんだろう? と思っていると僕に向けて
「ねぇ、佐野君。上に気を付けながら、ちょっと桜の木を揺らしてもらって良い?」
なんて頼んで来た。
「良いけど。なんか意味があるの?」
「あるわ」
そう彼女が言うのなら従わない僕じゃない。僕はがんばって桜の木を揺らし始めた。「お婆さんから怒られない程度にね」と鈴谷さんが注意する。そのタイミングだった。背中に何かがポトリと落ちる。しかも、もぞもぞっとした気配。
「ん?」と思って気が付く。
これ、毛虫だ!
僕は慌てて毛虫を叩き落した。
ヒー!
「だから、“上に気を付けながら”って言ったじゃない」と、それを見て鈴谷さんは言う。
“……いや、もっと具体的に言ってよ”
と、僕は思ったけれど口には出さない。
「で、これが何なの?」
毛虫を全部落とせたか確かめながらそう僕は尋ねた。鈴谷さんは淡々と返した。
「そうね。もし、私の予想が正しかったら、またそこの地面を掘り返した人達がここにやって来る可能性があるって事が分かったわ」
僕はそれに驚く。
「どうして?」
少し悩んだようだけど、彼女は、
「うーん…… ごめんなさい。漠然とした推理だから、それは本当にその人達がやって来た時にしたいわ」
なんて言って来た。
「気にし過ぎかもしれないけどね。もし間違っていたら、その人達を誹謗するような事になってしまうかもしれないから。
いえ、そう考える事自体が問題なのかもしれないけど、今の世の中ではまだやっぱり気を付けた方が良いと思う」
僕は彼女が何を気にしているのか分からなくて首を傾げた。
それから僕らは「もし、“桜を綺麗にする”って言っていた人達がまた連絡をして来たら教えてください」とお婆ちゃんに頼んでから帰った。お婆ちゃんはどうしてなのかよく分かっていなかったみたいだけど、それでも中目君に連絡をしてくれる事になった。
僕らがお婆ちゃんを心配しているのは伝わったらしい。
それから一週間も経たずに、中目君から連絡が来た。再び桜の木の下の地面を掘り返した人達がやって来るのだ。何でも今度は日曜の昼に来る事になったらしい。前回、夜中に作業していた事に特に深い理由はなかったのかもしれない。何にせよ、夜中は避けられて良かった。いや、家でゆっくりしたいからってだけの理由なんだけど。鈴谷さんにも悪いしねー。
約束の日に僕と鈴谷さんが行くと、その人達は既に集まっていた。全員で三人。おじさんと20歳代くらいのお兄さんと後は若いお姉さん。正直、統一感がなくて、どんな類の集まりなのかまるで想像ができない。
お婆ちゃんはその人達に向けて、「どうぞ、よろしくお願いします」と深々と頭を下げた。その人達は「いえいえ、こちらこそ」とお返しをする。丁寧だ。三人とも見た目も純朴そうで、悪い人達には思えない。いや、人間は見た目じゃないけれど。
その人達はスコップを持っていた。やはり地面を掘るつもりでいるようだ。その他にもブルーシートと何故かブラジャー洗濯用ネット、三脚とピンセットを持っている。洗濯用ネットはかなり汚れていた。一体、何をするつもりでいるのだろう?
その人達が僕らを不思議そうに見て来るので、「あ、近所の者です。お婆ちゃんの知り合いで」と言っておいた。鈴谷さんは違うけど、まぁ、別にそれくらい構わないだろう。
「ごめんなさい。実は近所で皆さんの事を少し不審に思っている人達がいるんです。ほら、皆さんは前回、夜中に作業をなさっていたでしょう? それで心配して誰かが付き添おうって話になって」
鈴谷さんがそれから頭を下げてそう言った。口から出まかせ…… と思ったけれど、確かにそんな感じでここにいる気がしないでもない。嘘ではないだろう。
その鈴谷さんの説明を聞くと、「ほら、だから夜中は止めておけって」などと彼らは言い合っていた。
頭をポリポリと掻きながらおじさんが僕らを見て言った。
「いやぁ、すいません。三人とも時間を合わせるのが難しくて。それに、我々はちょっと誤解を招き易いもので」
お姉さんが続ける。
「変な目で見られがちなんですよ、私達」
それを聞くと鈴谷さんは、
「差し出がましいし分をわきまえない忠告かもしれませんが、変な目で見られがちだからこそ、堂々とするべきだと思います」
と淡々と言った。
「はあ、本当にそうですね」と若い男性が応える。
それから彼らは桜の木に向かった。そしておもむろに地面を掘り始める。何をするつもりなのかと思って見ていると、少し掘ったところで、その穴に肥料を入れたりはせず、何故かブルーシートをただ被せた。それがどうして“桜を綺麗にする”事に結びつくのか僕には分からなかった。
そして、それからその人達は何故か桜の木を揺らし始めたのだった。当然、毛虫がたくさん落ちて来る。穴に敷いたブルーシートの上に落ちた毛虫達は転がって底の方まで落ちていった。その人達はそれをピンセットでつまみ、ブラジャー洗濯用ネットの中へ次々と入れていく。洗濯用ネットはどうやら虫かご代わりだったようだ。
毛虫が減って来ると、彼らはブルーシートを持ち上げて、毛虫を洗濯用ネットの中へ一気に落とし、スコップでその穴を埋めると、今度は三脚で木の上にまだいる毛虫を取り始めた。大体、採り終えると、「いやぁ、こんなに採れるとは思わなかった」と朗らかな笑顔で言い合っていた。
まるで豊作を喜んでいる農家のよう。
……と言うか、
「これ、何? 皆さんは何をやっているのですか?」
僕は思わずそう言っていた。
僕に視線が集まる。それに答えたのは、その人達じゃなくて鈴谷さんだった。
「見ての通り、毛虫の採取よ、佐野君」
「なんで毛虫を採取? あ、もしかして、害虫駆除?」
「お婆ちゃんの立場からすればそうかもしれないけど、この人達にとっては違うわね。毛虫を取る事自体が目的」
それから彼女は毛虫を採取していた人達に視線を向けると、
「皆さんは、恐らく、食べる為に毛虫を取っているのですよね?」
そんな衝撃的な事を言った。
僕は大いに驚いた。
「食べるって、本気で? 毛虫を?」
鈴谷さんは大きく頷く。
「私もそんなに詳しくないけど、モンクロシャチホコって種類の桜の木につく毛虫は食べられるらしいわ。桜の香りがして、美味しいとも」
僕はそれを聞いてもまだ信じられなかった。三人は顔を見合わせると、
「お婆さんから聞いて、二人とも知っているのかと思っていました」
「お婆さんは、皆さんが“桜を綺麗にしれくれる”としか言っていませんでしたよ。多分、誰も説明していないのじゃないですか?」
それを聞いて再び三人は顔を見合わせた。“そう言えば説明していない”って顔をしている。
ちょっとだけ溜息をつくと鈴谷さんはこう言った。
「変な目で見られる事が多い所為で、正体を隠す癖がついてしまっているのかもしれませんね……
まぁ、それについては私も反省しなくてはいけないかもしれません。正直、昆虫食に拒否反応をしてしまう一人ですから。ただ、だからこそ皆さんに興味を持ったのです。もしかしたら、これから先、昆虫食が必要な時代が本当に来るかもしれませんから」
それを聞くとおじさんが返した。
「いかにも、私達は昆虫食を広めようと活動している集まりです」
若い男性が続ける。
「人口が増えて行けば自ずから食糧不足に陥るかもしれません。また、温室効果ガスによる気候変動によって食糧生産が大打撃を受けるリスクもあるし、効率が悪くメタンガスを大量に放出する牛などの畜産業は減らしていくべきだとする議論もあります。
ならば、貴重なタンパク源として、自ずから昆虫食は重要になって来ます」
今度は若い女性が言った。
「ですが、未だに世の中では昆虫食を色物扱いするケースがほとんどです。私達はそれを少しでも払拭する為に活動しているんです。ここで採れたモンクロシャチホコも美味しく調理する動画をネットに上げるつもりでいます」
どうやら三人とも本気のようだ。
「でも、なんでわざわざお婆さんの家に毛虫を採りに来たの?」
そう尋ねると、鈴谷さんが言った。
「公園とか桜並木の桜には、殺虫剤がまかれているのじゃないの? だから、殺虫剤をまいていないこの家の桜からモンクロシャチホコを採ろうとやって来た……
そうですよね?」
おじさんが頷く。
「それもありますが、どうしてなのかは分かりませんが、ここの桜にはたくさんモンクロシャチホコがいましてね」
僕はそれを聞いて思い出した。
鈴谷さんが地面を観察していた事を。あれはきっと毛虫の糞があるのを確認していたんだ。木の葉っぱを見ていたのもきっと同じ理由だろう。
一応、理解はした。けど、僕はまだ信じられないでいた。
「しかし、毛虫を食べるってのは流石に驚いたなぁ…… いくらなんでも……」
思わずそう呟いてしまう。
その言葉には、“昆虫を食べる文化なんか根付くの?”というニュアンスが自然と含まれてしまっていた。すると叱るように鈴谷さんが口を開いた。
「そう馬鹿にしたものでもないわよ、佐野君」
毛虫を少し見てから続ける。
「この日本でもかつては昆虫食は当り前に観られていた。昆虫に限らずカタツムリとかね。今でも、エビとかナマコとか納豆とか、グロテスクな食物は意外に多い。こういうのは習慣の問題なんだって思う。
それに、なにより、近年、世界の食文化が変わったって事例が実際にある」
僕はそれにちょっと驚いてしまった。
「そんなのあったっけ?」
「日本にいると案外気付かないかもしれないけど。その世界の食文化の変化は、日本の食文化に因るって言われているから」
「日本の食文化?」
「有名な料理よ。寿司とか刺身。その普及によって、様々な国で生魚を食べるのが当たり前になりつつある。
ほんの少し前までは、“日本は生魚を食べる変な民族だ”って揶揄されていたらしいわよ。それを考えると物凄い変化」
そう言い終えると、鈴谷さんは三人に視線を向けた。
「だから、皆さんの活動も充分に実を結ぶ可能性があると私は思っているのです。それと同時に皆さんがどんな信念をもって活動を続けていらっしゃるのかにも興味があります。
失礼、実は私は大学で民俗文化研究会というサークルに所属していまして、社会科学に興味があるのです。少し話を聞かせてもらって良いでしょうか?」
鈴谷さんが今回の件の何に興味を惹かれたのかが不思議だったけれど、ようやく謎が解けた。彼らと話がしてみたかったのだ。
「もちろん、構いません」
とおじさんが返す。毛虫を入れた洗濯用ネットを示しながら「取り敢えず、これを車に置いて来ますからその後で」と続けた。
「はい」とそれに鈴谷さん。
一緒に歩き出す。
彼女は嬉しそうだった。きっと本心から彼らの活動に興味があるのだろう。
ただ、それでも僕は見逃さなかった。
彼女が毛虫を入れている洗濯用ネットから、できる限り離れて歩いている事を。
それを見て僕は思う。
やっぱり、女の子だなぁ。
可愛い。
そして、それと同時に“だからこそ、昆虫食普及の道のりは険しいのかもだけど”とも思っていた。