08:美味しそうなリュートと小望月
二杯目のワインをコクリと飲んで、私はふーっと息をついた。一度スプーンを置いて食中の小休憩だ。前世の記憶が戻ってからやってみたいことがいくつかあった。今日の食事もその一つ。熱いものをハフハフ言いながら食べたり、口の中に食べ物が残っているうちにワインに口をつけたり、ナイフで切り分けないで大きな野菜にかぶりついたり。公爵夫人には許されない食事のマナーだが、絶対おいしい食べ方だと知ってしまってからは一度やってみたくて仕方なかった。熱々の大根を熱燗でキュッと流し込むことは出来ないにしても。
一気に半分食べてしまったので、今度はゆっくり味わいながら食事を勧める。シチューは適温になって野菜の甘味がより感じられる。シチューと芋で重くなった口の中をワインと酢漬けで軽くする。いくらでも食べられそうな組み合わせだが、お腹は確実に満ちていく。幸せな食事の時間に浸っていると、
「こんばんは。お酒のあてに一曲いかが?」
と良く通る声がした。吟遊詩人の売り込みらしい。店の中に数人いる女性たちがキャッと嬉しそうにざわめく。
「お、いいね。景気がいいのを頼むよ!な、女将。」
「そうだね。みんないいかい?」
女将の声に客たちが口々に了承の声を出す。指笛が鳴るほどの歓迎ぶりから馴染みの吟遊詩人なのかもと思う。良く通る声の持ち主はお礼を言って店の中に入ってくる。私はチラリとそちらを振り返った。大きな枇杷の実みたいで美味しそうなリュートをもって、羽根つきの帽子をかぶった美形が軽い足音を立てながら店の中心に歩み出ている。赤い目に真っ白の肌、口紅を差したかのような鮮やかな赤色の唇は大きく左右に弧を引いている。吊り上がり気味の細い目も、大きな口も、細い鼻も、一つ一つのパーツは個性的なのに絶妙のバランスで配置されているせいで美しいと感じる……そういう種類の美形だった。
「では、リクエストにお答えして、牧場のジョージはどうだろう?」
吟遊詩人が曲の題名を口にするとお店の中は大盛り上がりだ。私は控えめに拍手を送って半分テーブルに戻る。完全に背を向けてしまっては妙に浮いて目立ってしまうが、正直あの吟遊詩人とはお近づきになりたくない。
軽快なリュートの響きも吟遊詩人の歌声も見事なものだった。お客さんたちは手拍子を叩いて盛り上がっている。「牧場のジョージ」は牧場でジョージという名の少しドジな青年が働く姿をコミカルに描いた歌だった。私は初めてだが、お客さんたちの様子から庶民の間ではよく知られた歌なのだろう。所々で合いの手が入る。
「ジョージは びっくり とびあがるっ!」
「ヘィ!!」
ジャカジャンっとリュートが鳴って、曲の最後では店中の男性が万歳のポーズをとる。よく見ると女の人たちは少し唇を尖らせて顔の前で掌を上に向けて差し出している。まるで投げキッスを送った後みたいだ。曲の最後は想い人のステラに頬にキスされて喜ぶジョージの描写で終わるから、それに合わせた振り付けなんだろう。
一人だけ取り残されている事に少し焦るが、誰も私に気付いた様子はなく吟遊詩人にむかって歓声と拍手が送られる。吟遊詩人は帽子をとって礼をするとそのひっくり返った帽子の中に次々チップが投げ入れられる。私もあわててチップを取り出すと席に近づいて来た帽子にひょいと投げ入れる。
「お嬢さん、楽しんでいただけましたか?」
色白の吟遊詩人は私にそう尋ねてきた。私ははじめて正面から彼の顔を見た。少々こけた頬と青白い肌、真っ黒で真っすぐの髪は長く艶やかで、首の後ろで一つに束ねられている。
「え?えぇ。もちろんよ。」
私はニコリとほほ笑みを浮かべて答える。
「それは良かった。次の機会にはぜひあなたにも投げキッスを頂きたいものです。」
「うふふ。そうね。」
私は曖昧に笑ってやり過ごす。吟遊詩人はニッと笑ってから次のテーブルに向かった。笑顔の時に見える犬歯がやけに目につく。私は小さくため息をついた。
間違いない彼はユルだ。吸血鬼の末裔……先祖返りで寿命が長く、すでに100年近く生きているはずだ。見た目は30代後半だけれども。若く長生きの彼だが、先祖返りの影響で人血が少々必要だったりする。満月の晩に小さなおちょこ一杯程度だが、血がほしいと言ってはいそうですかとくれる人はいない。ゲームの中では血の確保に苦労していたが、今はどうなんだろうか。
「おまえさん、ユメールみたいなのがタイプかい?」
女将さんが揶揄いを含んだ声で話しかけてくる。気づいたら次の曲が始まっていた。ずいぶん長い間ぼんやりと見つめてしまっていたらしい。私はテーブルに向かって座りなおした。
「ユメール?」
「あの子だよ。」
女将さんは吟遊詩人を指さした。そうか、ユメールと名乗っているのか。
「いいえ、素敵な歌声だけれども……もう少し健康的な人が良いわ。」
「あっはっは。そりゃ違いないね。女の一人旅だろう?隙を見せると危ないよ。」
「ありがとう。気を付けるわ。」
私はワイングラスを手に取ると、女将さんにウインクを送った。女将さんもウインクを返してくれる。そのチャーミングな仕草に自然と口角が上がる。目の前の料理はもうすっかり冷めている。それはそれで味がしっかりわかっておいしい。私は最後まで食事を楽しんだ。
私がワインの最後の一口を飲み終わるのと吟遊詩人のユメールが謳い終わるのはほぼ同時だった。彼は女性たちに呼ばれて、入口近くのテーブルについている。吟遊詩人は夢を売る仕事。歌の後に誘われれば食事やお酒の相手をするのも仕事のうちだ。その代わり食事の代金は誘った方が持つ。お互い気に入れば一夜の夢を売ることもあるらしい。そうやって二人きりになることでユメールは生きるのに必要な血を手に入れているはずだ。私は皿の隣にチップを置くと、お礼を言って食堂をでた。
「ごちそうさま。」
「はい、ありがとうございました。中庭の水場はいつでも使えるからね。ゆっくり休んで。良い夢を。」
女将さんの滑らかな挨拶に見送られつつ、自室に向かって階段を上る。にぎやかな声が遠ざかるけれど寂しさはない。お腹はしっかり満たされて身体の中心が温かい。白ワインの余韻か足取りだけはフワフワと軽やかだ。
ちゃぽんと桶の中で水がはねる。中庭の水場は夜の静寂に包まれているが、月明かりがまぶしいくらいだ。私は洗面を終えて使ったタオルを絞っている。宿にはお風呂はないから。今日は軽く絞ったタオルで拭くつもりだ。顔を洗って口を漱いで、タオルを洗ったら水を替えて部屋に運ぶ。軽く体を拭いたら、もう寝ようと決めていた。
「こんばんわ。」
落ち着いた男性の声が聞こえる。
「こんばんわ。」
私は顔も上げずに手元を見たまま挨拶を返す。
「どこかで会ったかな?」
陳腐なナンパの常套句みたいなセリフに思わずフフフと声が出る。
「いいえ。先ほどの食堂がはじめてよ。」
「ほんとうかな?」
ユメールはスッと私の隣に立つ。私はゆっくりと彼を振り返る。月明かりの中で彼の青白い顔はびっくりするほどはっきりと見える。赤い目の中の金色の虹彩がキラキラと光っていることさえ気づける距離。男性に許すには少し近い。
「一緒に食事をしていた子たちはどうしたの?」
「香水がね、好きじゃ無かったんだ。」
「だから、わたしなの?」
「僕ではお相手にならないかな?」
美しい顔が妖しく笑う。私はその顔をじっと見つめてからフルフルと首を横に振った。
「好みじゃないわ。」
「……案外ハッキリ言うね。」
「言うわよ。私夫がいるのよ。子どももね。」
「ほんとうかい?でも君の魂は乙女の……。」
ユメールがそこまで言ってハッと口を押さえた。
「私の魂がどうかした?」
「……。」
彼の目が泳いでいる。さっきまでの妖しい緊迫感はどこへやらだ。
「あなた誰なの?」
「僕はユメール。」
「質問を間違えたわ。あなた何なの?」
「……君は何だと思っているんだ。」
ユメールの真顔は怖い。でも私は知っている。満月の晩にまとめて血を吸えば、年単位で血を求めなくて済むはずなのに、彼がそうしない事を。人を殺してしまわないように、人を痛めつけてしまわないように、手間も労力も惜しまず苦労する方法をわざと選んでいる事を。
「質問に質問で返すのは失礼だって習わなかったのかしら。」
「……。」
ユメールは唇を噛んでいる。真っ赤な唇が赤さを増す。私はふっとため息をついた。
「満月は明日でしょう。明日の夜に会えたら質問に答えるわ。そのかわり、私の寝室には近づかないでね。私の寝室に男性が入ると、夫が怒り狂って大変だわ。」
「……わかった。」
ユメールは固い顔のままコクンと肯くと踵を返した。速足の背中に声をかける。
「おやすみなさい。良い夢を。」
彼は足を止め振り返ってニタリと笑った。
「おやすみローゼ。良い夢を。」
そう返事をすると、瞬きの間に闇に溶ける。
「ローゼ……ねぇ。」
彼が口に出したのは私の愛称ではあったけれど、はたして呼びかけたのは私だったのだろうか?私は水をためた桶をもつと、静かに部屋に戻った。