07:旅の恥はかき捨て
すぐそこが玄関だが、さすがにそこから外に出れば門番に気付かれる。邸内の隠し通路から敷地外に逃げるための地下通路を通って直接街中に出るつもりだ。サロンの方に回ると、邸内から敷地外への連絡通路があるはずだ。
サロンに近づくとピアノの音が聞こえてくる。噂をすればフェルナンドだろう。私は隠し通路の出入口からひょっこり顔を出した。ピアノを弾くフェルナンドの背中と側に置かれた花瓶が見える。ピアノの近くには常時花が飾られる。公爵家に飾られるにしてはシンプルな真っ白で円柱型の花瓶だがどんな花とでも相性が良い。嫁いだ時からサロンにはコレと決まっている。今日はカーネーションと霞草が活けられている。
「フェル。」
背中に向かってそう声をかけるとフェルナンドはビックリして振り向いた。同時に廊下の方から微かに足音が聞こえる。
「誰か来るわ。」
そういって手招きすると、フェルナンドは慣れた様子で隠し通路に体を滑り込ませる。音もたてずに扉を閉め、少し奥まったところまで通路を歩くと、椅子が置いてあった。フェルナンドが勧めてくれるので私は一旦座ることにした。フェルは私の隣の床にしゃがみこんでいる。
「珍しいですね。母様。」
今年16歳になるフェルナンドは数年前からこの通路をよく使っている。貴族らしく振舞うのが苦手で使用人に世話されるのも嫌いな彼は、家の中にあまり姿を見せない。さすがに家族で食事をするときはちゃんと出席しているが、その時は事情を知っている執事や侍女などが最小限の人数で給仕をしてくれる。なので若い使用人たちは彼の姿をほとんど見ない。姿が見えないと噂されているのはそのせいだ。邸の隠し通路は彼が良く使うおかげで安全で清潔に整えられている。
「少し事情があるのよ。旅行してくるわ。」
「……旅行ですか?」
「3日ほど、一人になりたいの。」
「お一人でっ!?父様の許可は?」
「あるわけないじゃない。」
あわあわしているフェルナンドにニッコリとほほ笑みを送る。それだけで末っ子の彼は空気を読んで深呼吸をした。
「そう、ですよね。……姉様の婚約のせいですか?」
フェルナンドがしょんぼりと眉を下げるから私は慌てて頭をなでる。
「フェルが落ち込まないのよ~。フィリーの婚約はもうあれでいいのだけど、ちょっと頭を冷やしたいのよ。」
そう言って取りなすようにほほ笑みかけるとフェルはおずおずと顔を上げた。
「ちゃんと帰ってきます?」
「もちろんよ。ほんと、ちょっと一人になりたいだけだから。」
「分かりました。気を付けていってらっしゃい。」
フェルナンドはニコリと笑うと小さく手を振った。一番下の子はいつまでも可愛いってのは良く言ったものだ。久しぶりにギュッと抱きしめると恥ずかしそうにクスクスと笑っている。
「煩悩を制したら、すぐに帰ってくるわ。」
手を振りかえした私に彼は小首をかしげた。
はじめての隠し通路だったけれど、フェルナンドが途中まで案内をしてくれたおかげで、上手く邸を抜け出せた。地下通路は王都の街につながっている。通路は出口がいくつかあって、私は庶民街の民家に出る道を選んだ。梯子のような急な階段を上ると、民家の居間に出た。もちろん誰もいないし、カーテンの引かれていて窓から覗く人もいない。何でもない空き家の暖炉から夫人がニョキッと出てくるのだから、だれか見ていたら大騒ぎだ。
出口の民家で着ていたワンピースから、もっと簡素なものに着替える。これは修道院のバザーで買った古着をもとに自分で作ったものだ。お忍びで街に出たくて作ったはいいものの、使う機会が今まで無かった。元々着ている服は鮮やかな赤、この服はくすんだ緑だから、不在に気付かれて捜索されたとしたら、多少の目くらましになるだろう。髪も庶民の夫人のように結い直した。シニョンと呼ばれる後頭部でまとめるやつだ。
身なりを整えると街に出て馬車駅を目指す。ちょうど西の街へ向かう馬車があった。きっぷを買って残ったお金で瓶入りの飲み水とおやつを買う。近くにあった庶民向けの店で歩きやすい靴とついでに目についたベージュのストールも買って、頭から足まで邸を出てきた時とは違うものを纏う。
西の街で休憩を含めて2時間半、馬車の旅は快適とは言い難い。利用客は多くは無く、私の他は子連れの女性と老夫婦、二人連れの若い女性だった。出発して間もなく子どもが母親にもたれて眠り始めたので、皆がおしゃべりをすることも無く、静かに天使の寝顔を見守ってすごした。3人の子どもたちにもこんな頃があったなぁと懐かしさで頬が緩む。
目的地に着くと私はすぐに宿をとることにした。まだ夕方と言うには早いが、じきに日が陰りはじめるはずだ。夕暮れ過ぎてからの女の独り歩きは目立ってしまう。宿は直観で選んだ。大通りに面しているけれど庶民向けの宿を探し、何件か見つけた中で外観が一番気に入った所に入った。店先を彩る花壇が素敵だと思ってそこにした。明るくて愛想の良い女将が受付をしていて、運のいい事に空き部屋にすぐに案内してもらえた。1階は食堂になっていて、夕食はそこで食べる事もできるらしい。外を歩かなくて済むのは助かる。
部屋に入って荷物を置くと、急に疲れがドッと出てきた。少し休もうとベッドに転がって、そのまま瞼を閉じた。
にぎやかな笑い声で目が覚める。辺りを見回すと夜だった。いつの間にか眠ってしまっていたみたいだ。あぁ、家を出てきたんだと思う。今頃オスヴェルトは怖い顔をしていることだろう。カンナに不利益が無いといいけれど……眠り薬を使ったことは書き置いてきたから、きっと大丈夫だろうと思いなおす。フェルナンドも私が出ていくのを止めなかったと詰られてないといいけれど、まぁ、彼は案外強かだから、うまく言いつくろうだろう。
惰眠の後の気だるさより、移動の疲れより、今は空腹が耐え難い。結局馬車に乗る前かったナッツのクッキーは食べなかったから、今日は邸で食べた朝食以外何も食べてない。しっかりご飯が食べたい。
私は簡単に身なりを整えて階下に降りることにした。食堂の喧騒は耳障りではない程度に聞こえている。服の皺を伸ばして髪に触れるとまとめていた髪はぐちゃぐちゃだった。一度解いて手櫛で梳かす。荷物の中に櫛はあるけれど、暗い部屋でそれを探すのは億劫だ。私は髪を二つに分けて緩く三つ編みにすると、そのままお下げにしておくことにした。公爵夫人がこんな髪型で人前に出たとあっては正気をうたがわれる。スキャンダルにもなりえるが、ここには私が公爵夫人だと分かる人はいないだろう。庶民の間でもいい年の夫人がする髪型ではないだろうが……楽なので許してほしい。旅の恥はかき捨てというし。
もう一度スカートの皺をはらってから階下に降りる。だんだんと近づいてくる食堂のにぎやかな喧騒に耳を傾ける。皆が楽しそうに笑っている。男の人が多いみたいだ。女将や給仕の娘の声の良く通る声が聞こえる度に、客のお礼が聞こえる。常連客との軽快なやり取りも聞こえる。楽しそうな店だと思う。宿のロビーから食堂へは直接出入りできるようになっている。出入口に立つとすぐに女将らしき女性が気づいてくれた。
「お客さん。良かった。夕飯どうするのかって思ってたんだ。」
「遅くなってごめんなさい。少し休むつもりが眠ってしまったみたいで。」
「いいんだよ。まだまだ営業時間中だしね。どうぞ。カウンターでいいかい?」
「ありがとう。もちろんよ。」
入口からは遠く、店の奥の方の席を勧めてくれる。落ち着いて食事ができるようにという配慮だろうか。メニューは店の壁に取り付けられた黒板に書いてある。さて、肉か魚か……どちらもおいしそうだ。少し悩んでからブラウンシチューと蒸し芋、酢漬けの野菜を頼んだ。「お酒は飲まないのかい?」と商売上手な女将に勧められて白ワインをグラスでもらうことにする。お会計は前払いだ。注文と同時に支払いをすませる。
白ワインはすぐに出てきた。グラスの半分以上まで並々と注いである。晩餐会や貴族向けのレストランではグラスの3分の1も注がないからいつもの2杯分は入っている。私は小さくお礼をいうと早速ワインに口を付けた。香りは薄いが甘くて飲みやすい。酒精が喉を通り抜けると、首から胸の中までがじんわりと熱くなった。
ほうっと小さくため息が出る。これは注意してゆっくり飲まないとグイグイいけちゃうやつだ。チビチビと舐めるように白ワインを楽しんでいるうちに料理も届いた。女将にお礼を言ってからまずはキュウリとトマトの酢漬けに手を付ける。キュウリをポリンと齧り取ると酸味が口いっぱいに広がる。ポリポリと齧るごとに野菜の甘味と酢の酸味がまじりあって口の中が一気にさっぱりした。もう一かけらも放り込んで、ポリポリと咀嚼してから白ワインで流し込む。もともとお腹は空いていたが食欲が一段階増したような気がする。ブラウンシチューは熱々で、スプーンで控えめに掬い上げるとふーっと息を吹きかけてから慎重に流し込む。舌をやけどしそうになりながらもこっくりと優しい味に次から次から食べたくなる。もう少し待てば熱さが落ち着いて食べやすくなるのは分かっているけれど、柔らかく煮崩れたニンジンを我慢できずにパクリと食べる。ハフハフと熱を逃がしながら舌の上でニンジンを転がす。口の中で何の抵抗もなく崩れていくニンジンの甘さに感動すら覚える。ホロホロと解けるお肉は鶏肉だろうか。ぷりんとした舌ざわりと柔らかな歯ごたえにいくらでもたべられそうだ。蒸し芋も芯まで柔らかくねっとりとしていて食べ応え抜群。わずかな塩味が芋の甘さを引き立てている。そのままでもシチューに浸してもおいしい。注意しなければと思いつつもワインが進む。
「いい食べっぷりだね。もう一杯どう?」
といいタイミングで現れる女将に一も二もなく頷いた。コインをコトンとテーブルに置く。