06:一人になりたい公爵夫人と綺麗になりたいメイド
「よし、家を出よう。」
そう声に出して布団から跳ね起きる。
王城で受けた気を失うほどのショックを何とかやり過ごし、自宅に戻ったら元凶がいた。フラッシュバックでもう一度倒れて朝まで寝込んでしまった。娘の婚約者の顔を見る度にアダルトシーンが思い浮かぶ生活なんてまっぴらごめんだ。とにかく一度、頭の中を整理する時間が必要だ。一人になりたい。
思い立ったが吉日。私はそっと衣裳部屋に移動し、鞄に荷物を詰め込むと、何事もなかったかのようにベッドに戻ってから呼び鈴を鳴らした。
「奥様、お加減はいかかですか?」
「えぇ、大丈夫よ。少し食事をして、楽な服に着替えたいわ。」
「承知いたしました。」
一度廊下に出た侍女のテレジアはすぐさま必要なものを用意してくれる。思った通り、私が呼ばなくても食事や着替えが必要だと準備して様子を伺っていたのだろう。家を抜け出すタイミングを間違えば、すぐに不在に気付かれて行きたい所に行けなくなる。かといって、部屋に閉じこもるためにあまり具合が悪いふりをすると医者を呼ばれかねない。
遅い朝食をしっかりとって、食欲がある様子を見せておく。そうして、たくさん食べたから昼食は必要ないと伝えた。食事が済めば、寝間着から普段着に着替える。「今日は一日部屋から出ないから」と楽な部屋着を指定した。鮮やかな赤に染められているワンピースは、綿で出来ていて着心地が柔らかい。今日は髪は結い上げず、三つ編みにして左肩から前に垂らす。
身支度の後にお茶を入れてもらって、ソファーでくつろぎながらテレジアに話しかける。
「このあと、部屋の細かい所の掃除を頼みたいわ。メイドをひとり寄越してくれる?あと、あなたには午後のお茶のお菓子を買ってきてもらいたいの。」
「厨房にもご用意がございますが……?」
「いいえ、今日は大通りのパティスリーナナのアップルパイの気分なの。できれば焼きたてを、お願いできる?」
私のワガママにテレジアは笑顔で頷いた。パティスリーナナのアップルパイは彼女の好物でもある。
「あと、申し訳ないのだけれど、刺繍用の絹を……今あるものだと小さくて、久しぶりに壁に飾れる大きなものを作ろうかと思っているの。それにハンカチサイズも数枚ほしいわ。少し回り道になってしまうけれど頼めるかしら?他の方に頼むと手触りが好みじゃないものだったりするし、あなたに確かめてもらって買ってきてほしいのよ。」
パティスリーナナと馴染みの手芸店はほどほどに離れた距離にある。歩くとなるとそれなりの距離だし、馬車で移動するにも人通りが多く時間がかかる。もちろん、あえてそんなお遣いをたのんでいるのだ。彼女にはできるだけ長くこの邸を離れていてほしい。
「承知しました。」
彼女が部屋を出ていくのを見計らってベッドサイドから薬を一つ取り出す。これは眠れない夜の為にお医者様から頂いた眠り薬だ。それをそっとシュガーポットの端に忍ばせる。
「ねぇ、大丈夫?」
小さな声をかけ揺すってもメイドのカンナは目を開けない。何度か起きないことを確認してから彼女をそっとソファーに寝かす。風邪をひいてはかわいそうだからそっと上掛けをかける。
掃除に来たハウスメイドのカンナに無理を言ってお茶の相手をさせた。可哀そうなくらい遠慮していたが、強引にソファに座らせてしまえばそれ以上の抵抗は無かった。白砂糖を勧めると遠慮しながらも、目を輝かせて喜んでいるのが分かる。私たちが使うシュガーポットに入っているサラサラの白砂糖は高級品だから、若いメイドは興味津々らしい。思わず可愛いなぁって思う。同時に申し訳なさも募る。睡眠薬入りの砂糖はするりと紅茶に溶けて消えた。
飲みっぷりの良いカンナと、とりとめのない話をしながらほんのひと時おしゃべりをしていると、彼女はいつの間にか瞼を閉じて寝息を立て始めた。若いと薬も良く効くのだろうか。それともメイドの仕事で疲れが溜まっているのだろうか。
人に薬を盛るなんて、褒められたことでは無いのは分かっている。でもこうでもしないと一人になる時間など無いのだ。公爵夫人にプライベートは無い。それは当たり前のことなのだが、前世の記憶が戻ってからはそ少し窮屈に感じてもいた。睡眠時間と人払いをした時以外は、いつでもどんな時でも最低一人は侍女が部屋に控える。人払いをしても防犯上の決まりとかで1時間ほどで様子を見に来られてしまう。今日は私が休息を望んだから、3人の侍女のうち通いの2人は休みになっただろう。住み込みのテレジアも先ほどお遣いに出したから、夕方まで帰らない。そうするとメイドが入れ替わり立ち代わり御用を聞きにやってくることになる。だから、あえて一人引き入れた。誰かが部屋にいれば、こちらが呼ばない限りは他の者は来ない。侍女が帰る時間まで猶予ができたはずだ。それでもグズグズしている時間はない。
寝室のベッドの脇にある小さな突起を引っ張ると、どこか壁の奥ででカチリと音がした。石造りに見える壁をそっと横にずらすとススっと木の扉が開く音がして壁がずれる。その奥には人一人分が通れる細い道が見える。古い、戦争時代に建てられた邸にはよくある隠し通路。私は明かりと用意しておいた鞄をもって中に入り、中からススっと壁をもとに戻した。中からしっかり鍵をかけ、そのまま通路を歩き出す。通路は真っ暗だが、定期的に掃除がされているらしく、埃や虫に戸惑うこともない。時々椅子やランプが置いてあって、日常的に出入りしている人の存在を示している。
あまり足音を立てないように廊下を進み、階段を降りると途中で壁の向こう側が見える場所がある。これは玄関脇の大鏡だろう。向こう側からは鏡にしか見えないがこちらからは廊下を通る人がはっきり見えるような仕掛けがある。
長男のファビアンは子どもの頃よくここで、何も知らない使用人に声をかけては脅かす遊びをしていた。使用人達の間で魔法の鏡だと噂になっていたが、邸の仕掛けを教える訳にはいかないのでうまく訂正もできなかった。そのうちファビアンが悪戯をやめて噂は下火になっていたが、最近また再燃している。良い大人になったファビアンが悪戯を再開したとは考えにくいから、末っ子のフェルナンドだろうか?
若いハウスメイドがひとり、鏡を覗き込んでいるようだ。前髪を整えてからそっと自分の小鼻のあたりを撫でている。そばかすを気にしているようだ。確かモネといっただろうか。なるほどと思う。こちらから見てみると悪戯したくなる気持ちが良くわかる。鏡の向こう側の人物は周りの目が無い時の無防備な顔をしているのだ。急に声をかけるだけですごく驚くだろうと想像できて、悪戯心がムクムクと湧いてくる。
「大丈夫。十分に愛らしい。」
少し声を低くして、しゃべり方も尊大な感じにして、突然そう声をかければメイドは小さくキャッと叫んで辺りを見回した。しかし誰もいないことを確かめると、恐る恐る鏡に近づいて、小声で話しかけてくる。
「鏡……様?……本当ですか?可愛く見えますか?」
そう尋ねる姿に当たり前じゃないと言ってやりたくなる。でも、魔法の鏡が気安すぎても様にならない。
「気のせいかしら……?あの……鏡様。フェルナンド坊ちゃまはそばかすのメイドなんて見苦しくてお嫌いでしょう?好かれたいなんて贅沢いいませんが、せめて嫌われたくないんです。私を綺麗にしてください。」
思わぬところで息子の名前を聞いて、私はズッコケそうになるのを寸でのところで耐えた。モネは祈りのポーズをとってギュッと目を瞑っている。魔法の鏡は美容の神か何かだと思われているのだろうか?祈ってもらったところでそばかすは消してあげられない。
この子は子爵家の娘だったかしら?フィリーアローゼは専属の侍女を持ちたがらないから、ハウスメイドという名目で半分フィリーアローゼの侍女のような仕事をしてもらっている子だ。年の割に落ち着いていて、控えめながら芯のある佇まいから良い教育を受けて育ったのだろうと伺える。
「ハト麦を煎じて飲みなさい。毎日花を愛でなさい。皆に微笑みかけなさい。」
思いついたことをさも厳かに口に出した自分に吹き出しそうになって私は鏡の前を通り過ぎる。後ろではモネが満面の笑みでお礼を述べ、祈りを捧げている。
綺麗というのは顔かたちの事ばかりではない。綺麗なものを愛する心や、誰にでも分け隔てなくほほ笑みかける穏やかさは、ソバカスなんかに負けない魅力になるはずだ。フェルナンドの目に留まるかは分からないが、そうやって美しくあろうと心掛けた日々は決して無駄にはならない。