02:未来を描く公爵様と過去を思う公爵夫人
「もう、婚約が成立しているのですね。」
昨日の夕方、娘のフィリーアローゼと王弟であるギルベルトの婚約が成立したと知った途端、妻は気を失った。朝、ようやく目を覚ましたロゼリンダが真っ先に口にしたのはフィリーアローゼの婚約についてだった。
「あぁ。これ以上ない縁談だよ。」
私は彼女のベッドの脇に座って、頭を包むように髪を撫でた。ロゼリンダは一瞬だけ目を細める。日向に転がる猫のようなその仕草はとても気持ちよさそうなのに、彼女はうつろな目で何もない場所を見つめたままだ。
赤みの強い金色の髪がサラサラと指の間を通り抜けていく。いつもは隙なく結い上げられている髪はこの部屋にいる時だけは自然のままに下されている。髪を下ろしているだけであどけなく見えるのはなぜだろう。その無防備な様を見るのは夫である私だけの特権だ。
突然現れた王弟のギルベルトがフィリーアローゼとの婚約を求めた時は正直やっと来たかと思った。彼がフィリーアローゼを特別視しているのは今に始まったことでは無い。幼い頃初めて引き合わせた時から甘ったるい視線で娘を見ていたのには気づいていた。その頃8歳だった娘の初恋もギルベルトに捧げられたと理解している。時期は見極める必要があるにせよ、ギルベルトとフィリーアローゼが婚姻関係を結ぶことに否やは無かった。家柄、能力、将来性ともに、彼らの世代のトップクラスであることは周知の事実だ。
彼の性格に多少の難があるのは知っている。国の上層部にいる限り一癖も二癖もないと生きていけないのだから、ちょっとひねくれているくらいは仕方ない。そんなことよりも娘を生涯大切にしてくれるかどうかが大切だった。そういう意味では彼は信用できる。
だから、国王陛下の走り書きみたいな婚約許可書を差し出して「今婚約契約します?それとも今夜攫われます?」と冗談交じりに言われた時も「あぁ、本気なんだな」としか思えなかった。ギルベルトが攫うと言ったら攫うだろうし、婚約を成すといったら成すのだろう。家を潰すとか国を亡ぼすと言わなかっただけ彼も丸くなったのだと思う事にした。
かと言って、何でもかんでも思い通りになると思ったら大間違いだ。娘が成人してからたしなみ程度に揃えておいた婚約契約書を引っ張り出して、なんとか必要な条件を盛り込んだ。彼の襲来に最低限のラインを守って対応できた私を褒めて欲しい。
そんな事情により、娘の婚約は一般常識からすると成立するのが少々急だった。ロゼリンダが驚くのも無理はない。けれど倒れてしまうほどショックを受けるとは思わなかった。私からすると「王太子妃」だって「王弟妃」だって大して変わらない。娘を「王太子妃」にと望んでいたのは知っているが、本気でその一席を狙っていたのだろうか?正直、あのぼんぼん王子よりも腹黒の王弟の方が男としては信頼できるような気がするのだが。長年夫婦をしているが、いまだにロゼリンダの思考は読めない。
「勝手に決めてしまって、すまない。」
髪を撫でながらそう謝罪を口にすると、ロゼリンダは私の顔を真っすぐ見た。夏の夕焼けの色をしたシリトンの瞳がぼんやりと私を映している。
「あなたは、いつもそうですから。それに、私の許可など必要ないでしょう。」
静かに告げられた言葉がグサリと心をえぐっていく。けれど反論などできない。もとより自分勝手な性質だし。この国の筆頭公爵家の当主として、家族よりも国や家を優先してきた自覚はある。
「少し、一人になりたいの。今日の予定を変更しても構いませんか?」
そういう彼女は小さな子どもが迷子になった時のような顔をしていて、とてもじゃないがいつものように仕事をしろと言える状態ではなかった。
「わかったよ。ゆっくり休むといい。セドに伝えて調整させるから。」
「ありがとうございます。」
ロゼリンダは口の端にだけほほ笑みのようなものを乗せると、私に背を向けてベッドに転がった。その肩にそっと布団をかけてから私は部屋を出る。
優秀な執事は廊下で静かに佇んでいた。私の執務室や限られた者しか入れない書庫、公爵邸の隠し通路までも把握し管理を任されているこの男が、この邸の中で唯一入室を禁止されているのが夫人の寝室だ。彼以外にも数多くいる男性使用人には、有事の際以外は入るなと厳命してある。
「ロゼリンダは休養する。」
「承知いたしました。」
一言伝えるだけで細かい指示を出す必要は無い。有能な執事に満足して、私は仕事に向かう準備をする。といっても、ジャケットを着るくらいで済むのだが。
今日は何かロゼリンダの好きなものを持ち帰ろうと考える。いつも硬い表情をしていることが多い彼女だが、甘いものを食べた時だけはとろけるようなほほ笑みを浮かべるのだ。夜、寝室で摘まめるような、チョコレートか一口サイズのシュークリームにしよう。くちどけのいいメレンゲの焼き菓子でもいいかもしれない。
セドに頼めば希望通りの物を用意してくれるだろうが、こういうのは自分で考えて自分で用意するから意味がある。私はロゼリンダの喜ぶ顔を思い浮かべて少しだけ明るい気分で仕事に向かった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
オスヴェルトが部屋を出たのを確認してから、私は大きなため息をついた。大きな窓から明るい朝日が降り注いでいるが何もする気にならない。燃え尽き症候群ってやつかなと思う。
この十数年が無駄になったと思うと虚しい。でも、心のどこかでこんな日が来るんじゃないかと思っていたような気がする。はぁ~と長いため息をつくと、私は布団を引っ張りあげて頭からすっぽりと被った。
あれはフィリーアローゼが5歳の時のこと。王妃殿下がリシュルト公爵家の領地を視察されるという機会があった。新しい橋の建設や灌漑工事などいくつかの事業に興味を持たれてのことだ。王妃殿下がお越しになるということで、家内を取り仕切る立場の私はおもてなしの準備にてんてこまいだった。
視察は3泊4日で行われた。王妃様が動かれるとあって、担当の文官だけでなく侍女やら護衛やらと相当な数のお客様を領主の館で受け入れなければならなかった。猫の手も借りたいような忙しさの中で、不覚にも子ども達から大人全員が目を離してしまう時間帯が出来てしまった。子ども部屋で遊んでいるはずの子どもたちが部屋を抜け出しているなんて、家人はひとりも気づいていなかった。
最終日の王妃様がお帰りになる直前のことだった。子ども部屋が空っぽな事に気づいて、数人の使用人と慌ててさがして、裏の花畑にそれらしい人影を見つけて、駆けつけたら出発の準備をされているはずの王妃様までいらっしゃって、私は途方に暮れてしまった。誘拐の心配もしていたから、そうでなくて良かったと笑ったらいいのか泣いたらいいのか。いつまでもバクバクと鳴り止まない心臓を宥めるので精いっぱいだった。
そんな私とは対照的に「王妃様とお花摘みをしていたの」と嬉しそうに笑みを浮かべるフィリーアローゼは、さながらイタズラ好きの妖精のようで。私は叱ることも抱きしめることも出来ず、かろうじて王妃様に非礼を詫びた。王妃様は楽しそうに笑って下さって、「可愛いおもてなしに疲れも取れたわ」とあっけらかんとお許し下さった。
「フィリーアローゼは可愛いわね。フリューゲルのお嫁さんになってくれたら良いのに。」
という王妃様と目が合った瞬間、頭の中に前世の記憶が流れこんできた。
私はその膨大な記憶の渦に悲鳴もあげられず、パタリと倒れてしまった。その後、3日ほど熱にうなされて、情けない事に王妃様のお見送りも出来なかった。
本日2話目です。お付き合いありがとうございます。