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10:月下の吸血鬼と泉の精霊王

「もう夕方になってしまうよ。」

 ユメールが辺りを見回して心配そうにつぶやく。その不安気な様子とは裏腹に薄暗い森の中でも彼の瞳は光をたたえていて、闇が深まれば深まるだけガーネットのように輝く。

「良いのよ。今日はきっと宿には帰らないのだから。」

 私の返事が初耳だったからだろう、ユメールは怪訝な顔をした。宿には知人の家を尋ねるからもしかしたら夜は戻らないかもしれないと伝えてある。明日には戻るから荷物をそのままにしておいてくれとも。


 宿を取った街から30分、馬車に揺られてたどり着いたのは森の中のリゾートホテル前の馬車駅だ。そのままホテルの門をくぐって、エントランスを通り抜け、ホテルの裏手に回る。裏手には森への出入口があって森の泉へ続く散歩道が敷かれている。今はその道を泉に向かっている。途中優美な東屋や水飲み場が設置されていてそのデザインを眺めているだけで飽きないで歩いていられる。なるほど、泉までそれなりに距離があるのに上手く観光スポットにしたものだと感心する。

「扉を乗り越えた時にそんな気はしたけどね。」

 ユメールが呆れたように肩をすくめた。私が森にたどり着いたのはもう夕方で、出入口は扉に鍵が閉められていた。けれど扉は腰高しかないし、咎めるような人は誰もいなかったから乗り越えてきたのだ。

「もうすぐ泉に着くでしょう。そうしたら少し休憩できるから。」

 私がそういうとユメールはため息をついたのかほほ笑んだのか軽くフッと息を吐いた。


 この森の泉に用があった。ゲームのイベントの一つである精霊の困りごとがちゃんと解決されているか確認するというのがこの旅の目的の一つだ。この立地にホテルが建っているのだから大丈夫だろうと予想しているのだが。もし万が一解決されないまま放っておくと、精霊が生まれなくなりどんどん数を減らして、いつかいなくなってしまうのだ。ゲームの中の精霊たちはとても愛らしく、彼らがいなくなってしまうのは惜しい。

 私がこの森に行きたいといったらオスヴェルトは連れてきてくれただろう。けれどきっと、一人旅は許されなかった。私がこれからすることを家族の前では出来ない。前世の記憶について説明して、必要性を訴えても納得してもらえるかどうかは半々だろう。それに、フィリーアローゼをこの森と関わらせたくなかった。そのため今まではきっと大丈夫と自分に言い聞かせていたが、ずっと心に引っかかってはいた。もし私が立場も家庭も家族もなく自由の身ならすぐに確かめに行くのにと思っていた。

 泉にたどり着くとそこは美しい広場のようになっていた。泉の周りにはぐるりと花畑が広がり、その周りには遊歩道。その周りには休憩のためのベンチが置いてある。ベンチの周りはぐるりと森が取り囲んでいて、上から見ると同心円が幾重にも重なっているように見えるだろう。

「泉だな。懐かしい。」

 ユメールが目を細めている。

「懐かしいの?」

「昔住んでいたからな。」

 心の中でそうよねとつぶやく。ゲームの通りなら彼はここ50年あまり古城を拠点にしていたはずだった。取り壊されてしまって、今はどこに住んでいるのだろうか。

 辺りは薄暗くなってきた。けれど泉はぼんやりと光っている。昼間の明るい陽の光の中では気付かないくらいだが。ここの水は精霊が遊んだ名残でうっすらと光る。私は大して大きくない泉をぐるりと一周回ってから気に入った場所で腰を落ち着ける。ユメールは不思議そうな顔をしながらも私のやることを見守っている。私が歩けば後をついてくるし、私が座れば隣に座った。ずいぶん大きな子ガモだなぁと少しニヤニヤしてしまう。

「次はどうするんだ?」

 そう先を促されて鞄から今日買ったお菓子を出してユメールと私の間に置いた。チョコレートもマドレーヌもクッキーもかなりの数で二人で食べるには多い。それに手を付ける前に靴と靴下を脱いで、お尻の後ろに置く。そおっと泉に足をつけるとほんのりと温かい。温泉というよりは温水プールの温度だろうか。熱くも冷たくもなくずっと入っていられそうな温度だ。うっすらと光る水の中で私の足もぼんやりと光っている。膝ぐらいまでしかめくりあげていないがこうも光るとなんだか照れる。泉の水で手を洗ってハンカチで拭いて、さあお菓子を食べようとユメールの方に顔を向けたら、彼は目を見開いて足を見ていた。

「……そんなに見られると恥ずかしいんだけど?」

 前世ではミニスカートで街を歩いたり、プールで水着を着たり、もっと足を出すこともあったけれど、今の私は足は隠すものという常識の中にいる。まぁ、常識はずれは自覚しつつ出したのだけれど。ユメールは次の瞬間、凄い勢いで私から視線を逸らした。バッっと音がしそうな勢いだ。

「女性は足をだすものではないっ。」

 彼は大慌てでそう口にするが、責めるようなニュアンスはそこにはない。その文化を知っているから配慮してくれているだけで、彼自身はその文化の中にはいない。私はそれが心地よくてクスクス笑う。

「そう、目をそらされるのも、恥ずかしいんだけど。」

 ユメールは困ったような表情で私の方を振り返った。

「ではどうすればいいんだ?」

「普通にしてて。足なんかより、こっちの方がおいしいでしょう。」

 私はユメールの口にコロンとチョコレートを投げ入れた。


 いくつかお菓子を摘まんでいると辺りは本格的に暗くなってきた。まだ低い位置にある大きな満月の明かりと、泉の柔らかい発光で泉の周りだけが浮かび上がって見える。その奥の木々の間には闇が広がり、真っ黒な壁がそびえたっているかのようだ。

「あぁ、そうだ。」

 私はそう言うと鞄の中からナイフと小皿を取り出した。どちらも街で買い求めたものだ。泉でチャチャっと濯ぐと小皿を膝の上に置く。

「それは、どうするんだ?」

「あなたに約束のものをあげなきゃね。」

そう言って指先をエイっとナイフで傷つける。たらたらと血が流れるようにするのは結構痛かった。

「おいっ!」

「大丈夫よ。傷薬も持っているから。」

 慌てるユメールを諫めて、小皿に血を流していく。

「私のことを知っているんだな。」

 ため息と共に吐かれセリフにコテンと首をかしげる。

「あなたの事なんて知らないわよ。あなたに似た人の記憶があるだけ。」

「……そうか。似た人か。それは、君のもつ不思議な形の魂にも関係しているのかな?」

 前世の事を言われているのだろうけれど、誰にも言わないと決めたのだから彼にも言わない。私の事をこの世で一番良く知っているのはあの人でないと困ってしまう。

「知らないわ。私、魂の形なんて見えないもの。」

 嘘はつかない。旅を始める時そう決めた。そうでなければこの旅の意味がない。話す気の無い事を問い詰めるのは無駄だと思ったのか、ルメールが私の血がゆっくりと溜まっていく小皿を見ている。眉根をうんと寄せて彼の方が痛いみたいに。

「私が直接飲めば、痛い思いなんてせずに済んだんだ。」

「嫌よ。」

 唇で直接肌に触れるだなんて恐ろしい事を言わないで欲しい。挨拶としての指先へのキスだって手袋越しにしか許したことは無いのに。私は十分に血の溜まった小皿をユメールに差し出す。彼は慎重にそれを受けとった。傷つけた指は自分の口に入れて舐める。傷が空気に触れないと痛みはいくらかマシだった。

「どうぞ。放っておくと固まっちゃうわ。」

「すまない。」

 私がどうぞと掌を差し出して勧めると、かれはクイっと小皿を煽った。美味しい日本酒を飲んだ時みたいにゴクリと白い首が上下に動く。彼が血を飲んだ皿は啜ったわけでも舐めたわけでもないのに血の一滴ものこっていなかった。吸血鬼はフードロスを嫌うのね。そのお行儀の良さを褒めてあげたくなる。彼が泉で皿を洗うから受け取ろうと手を差し出す。その手首をはしっと捕まれる。

「今からでも遅くない。私がひと舐めすればすぐに治るよ。」

 彼の赤い目はランランと輝いていて、唇は先ほど飲んだ血より赤い。

「嫌。離して。」

 私がそう答えると、かれは渋々手を離した。

「君はどうしてそう強情なんだ。」

「強情?貞淑といってよ。」

「そうか。」

 ユメールははぁっと大きなため息をつくと困ったように笑った。

「これはくれる?」

 小皿を見せてそう尋ねるから「いいわよ」とほほ笑み返す。


「ねぇ、人の寝床でいちゃついてるの?それとも片思いなの?」

 目の前から声をかけられて、はっと前を向く。泉の水面に頬杖をついた長い銀髪の人がこちらを見ている。真っ白いドレープをたっぷりととった袖の無い服を着ているが、泉に浸かっているにも関わらず服が水に浮いたり体に張り付いたりしていない。

「いちゃついてはいないと思うわ。」

「片思いと言われるのは忍びないね。」

「そう?ごめんね。じゃあ何しているの?」

「あなたを待っていたのよ。」

 私がそう言うと精霊王は目を二度瞬かせてからふにゃりと笑った。


「僕はメルクリウス。メルって呼んで。」

 メルクリウスは水の上をゴロゴロと転がりながら自己紹介をしている。その周りには青白い光がほわッと揺れて飛んでいる。ホタル見たいな光り方だ。あれが精霊。光の中をよく見ると背中に羽の生えた小人が見える。前世でいうところの妖精だ。

「ねぇ、メル。あなたちゃんと食べられているの?」

 私は単刀直入に聞いた。ユメールはとりあえず黙って成り行きを見守ることにしたみたいだ。

「えぇ?僕やつれちゃっているの?」

 メルクリウスは頬をもみもみと揉んで確かめているが、ユメールほどやつれてはいない。むしろ精霊王などという肩書に似合いの美貌を保っている。くっきりとした二重のぱっちりとした目。長いまつ毛に大きめのラピスラズリみたいな瞳。ツンととがってスッキリと高い鼻、小さいサクランボみたいな唇、きめの細かい肌、そんなものが相まっていつまでも眺めていられそうな中性的で芸術的な美貌だと思う。

「ちょっと気になったのよ。この辺り、少し前まで人っ子一人いなかったでしょう?」

「そうだね~。人がいなくてずっとお腹空いてた時もあったねぇ~。」

「最近は大丈夫?」

「うん!大丈夫だよ。だって見てよ。子どもたちがこんなに居るんだ。」

 メルクリウスがパッと腕を広げると、泉の周りが急に明るくなった。精霊たちが一斉に光ったらしい。気合を入れすぎたイルミネーションみたいな光量に私は目を細める。メルクリウスが手を下げると精霊たちはもとの光り方に戻った。ホタルみたいにやわやわと明滅してただよっている。

「君は僕たちのこと知ってたんだね。だからおやつ持ってきてくれたの?」

 そう尋ねられてお菓子の入っていた箱を見るともうほとんど残っていなかった。

「お口に合ったかしら?でもこんなに居るんじゃ、みんなに行き渡らなかったわね。」

「大丈夫。子どもたちには大きいもの。分け合ってみんなが食べたよ。」

 メルクリウスはすいーっと水面を滑ると私の隣にストンと座った。私と同じように足だけ泉に付けた格好だ。髪も体も服もどこも全く濡れていない。当然、隣に座られても私が濡れることもない。

「僕にも一つ頂戴。」

 そういうから残っていたマドレーヌを一つ手渡すと、一口でパクリと食べる。精霊は甘いものが好きなのだ。精霊王だって変わらない。でも甘いものはあくまでおやつ。精霊の主食は人の感情だ。喜怒哀楽どんな感情でも精霊は好き嫌いせず食べてくれる。その人が持て余したりあふれさせたりする感情をひょいっと摘まんで食べてくれるのだ。そうして精霊が消化した感情はまた別の感情になって人の心に生まれる。だから精霊の多いこの泉に訪れた人たちはトントンと感情を宥められ穏やかな気持ちになって帰っていく。

「ねぇねぇ、君はどれを食べて欲しいの?今辛いのは後悔?無力感?それとも愛情?」

「えぇ~わからないわ。どれかしらね。」

「う~ん。不思議だね。僕には食べた方がいいものが分かるはずなのに。」

「私のは分からない?」

「……うん。隠れてる。さては欲張りでしょう?どれもこれも自分の気持ちだって手放さない。」

「ピンポン。きっと当たっているわ。」

 私はメルクリウスの方を見て居られずに泉の方に視線を向ける。ふわふわゆらゆらと漂う精霊たちの光の向こうに真っ黒の壁みたいな闇がある。

「手放した方がいいものもあるよ。そうすれば新しいものが手に入る。」

「もう、新しいものを手に入れたいと思わないのよ。大事なものが多すぎて。」

「執着だねぇ。」

「執着よねぇ。」

 おしゃべりだったメルクリウスがピタッと話すのをやめたから、泉の周りに静寂が訪れた。私もユメールも身じろぎ一つしなかった。いつの間にか高く登った月が煌々と光っている。


「ねぇ、一つ。お願いがあるんだ。」

 しばらくしてメルクリウスにしては低い声がそう言った。

「なぁに?」

 私は久しぶりにメルクリウスに顔を向ける。

「この泉の奥にね女神の落とし物が沈められているんだけど、その蓋が少し空いているんだ。あれを閉めてくれる?僕にはどうもできなくて。」

 メルクリウスのこの願いは生理的欲求に近い願いだ。まぶしい時に手をかざすように、臭い時に鼻を押えるように、女神の落とし物は蓋をしておきたいと願っている。ゲームの中では必ずされるお願いの一つだった。

「あぁ……そうね。そうだったわね。」

 私は頷くとずっと黙っていたユメールを見た。女神の落とし物に蓋をするかどうかはゲームの中では簡単な質問として出てくる。けれど蓋をするかしないかがルートの分かれ道の一つになっている。蓋をするとユルのルートは閉じる。今はゲームでは無いし私はユメールを攻略したりはしていないけれど、何か不都合があるかもしれない。

「ねぇ。女神の落とし物に蓋をしてもいいかしら?」

 ユメールは眉間に深い皺を刻んで、唇を引き結んでいる。

「危険なことでは無いのか?」

「あぁ、それは大丈夫。僕もいるし。ただあれは知っている人じゃないと蓋出来ないんだ。ローゼならできるよ。」

 メルクリウスが私をローゼと呼ぶ。昨晩のユメールと同じように。

「そうか。それなら私の答えは『君がそれを望むなら』だ。」

 ユメールはそう言って寂しそうに笑った。私は思わず彼の頭をナデナデと撫でる。子どもたちにするよりちょっと雑なその手つきは猫でも可愛がっているかのようだ。ユメールはビックリしたのかちょっとだけ肩を揺らしたけれど、されるがままに頭を差し出している。

「あぁ、ずる~い。僕も僕も。」

 メルクリウスは泉に入ると私の膝に頭を乗せた。泉に浸かる私の足はその腕に捕まれている。

「よしよし。」

 私は銀色の髪に指を差し込みスーッと梳くように頭を撫でた。メルクリウスは気持ちよさそうに膝に頬をこすりつけている。

「……そいつが触れるのはいいのか?」

 憮然とした顔でユメールが尋ねるから、クスクスと笑う声を押さえられなかった。

「メルは男性ではないもの。」

「うん?女性だったか?僕というからてっきり……。」

 人の世に慣れ親しんでいる人外に苦笑する。

「女性でもないのよ。」

 メルクリウスはメルクリウスだ。精霊に性別は無い。

「……そうか。」

 ユメールは納得いかない顔で頷いた。


 私はメルクリウスに手を引かれて泉の中に入る。私の服は空気を含んで膨れて、水にぬれて重みを増す。泉の中では少し邪魔だ。

「ねぇ、服を脱ぐから見ないで。」

 ユメールにそういうと彼は慌てて泉に背中を向けた。大きな背中を丸めて掌で顔を覆っている。素直な吸血鬼の慌てようにクスリと笑みが漏れる。私はメルクリウスにも手伝ってもらってワンピースを脱いだ。濡れた服は泉のふちに置いておく。下着姿になれば水の中でも多少動けた。メルクリウスは私の手を引くと泉の中央に連れていく。

「彼も大概人という枠から外れているでしょう?」

 揶揄うようにメルクリウスがユメールを指さす。

「そうね。でも男性だから。」

 私は当たり前の事みたいに言う。

「ふ~ん。なんだか妬けちゃうね。僕も男になってみようかな?」

「そう?そうしたらこんなに気楽に触れ合わないわよ?」

 私の言葉を吟味するみたいに口の中で転がしてから、メルクリウスは「やっぱや~めたっ」と私の手を握る。

「僕から手を離さないで。」

 そう言われて頷くと、つないだ手を引き寄せられ腰を抱かれた。そのまま重石でもつけられたかのように、2人で足から沈んでいく。

 キラキラ光る精霊たちの名残で泉の中は明るい。青緑色に輝く小さな星が散らばっているようで、水中は幻想的で美しかった。頭まですっぱり水に浸かるととたんに上も下もわからなくなる。最初は息を詰めていたけれど、苦しくなって吐き出せばその後は泉の中でも呼吸ができた。私の背の3、4倍は水深がある。メルクリウスの助けが無ければ底まで潜るのは手間だっただろう。水泳に慣れていない今世の体じゃたどり着けなかったに違いない。ぐんぐん沈んでいくと、底に足がついてた。息は出来るのに水圧は感じる。やったことは無いがダイビングに近い感覚なのかもしれない。メルクリウスの導くままに移動すると、海底に祠のようなものがあった。庭の東屋を小さくしたみたいなその建物は女神の落とし物が祀られている祭壇なのだろう。私は手を合わせて祈りのポーズをとると祠に向かって「失礼します」と挨拶をした。

 祠の扉をそっと開くと、中から私の両手に丁度乗るくらい黒い箱が入っていて、蓋が少し空いている。コレが女神の落とし物かと、そっと手に取った。水の中でも朽ちない漆塗りみたいな真っ黒な箱は優美な装飾が施された立派なものだった。さっさと閉めてしまおうと蓋に手をかけると中からキラリと光がこぼれる。あわててギュッと蓋を抑えつけても、何かがつっかえているみたいで上手く閉まらない。

「一度開く必要があるみたい。」

 水中でも明瞭な会話ができるのは不思議だが今はそんなことに構っている場合じゃない。メルクリウスに向かってそう言うと、精霊王は一瞬で絶望したみたいな、魂が抜け落ちてしまったかのような、ひどく傷ついたみたいな顔をした。女神の落とし物の中身を直視するのは彼にはとても難しいことらしい。だからこそ、蓋が空いているのを知っていて、そのまま閉めることも出来ずに放置していたのだろう。

「大丈夫。やってみるから。ちょっとそっぽむいていられる?」

「分かった。僕待ってるからね。」

 メルクリウスと肯きあって、彼が私の背中にギュッとしがみついたのを確認して、私はそっと女神の落とし物の蓋を開ける。

 前世の記憶がブワリと溢れ出す。十数年前に私が見たものなんて、限定されたほんの一部でしかなかったんだとわかる。この記憶の本人ですら忘れてしまっているだろう日常のやりとりや、物心つく前の出来事や、亡くなる寸前の苦しみまで。一度経験しているから免疫ができたのか、あまりに膨大な情報が流れ込んできてかえって体が自分の(前世の)記憶として処理することをあきらめたのか、私はそれを倒れる事無くやりすごす。メルクリウスが守ってくれているのかもしれない。この泉は彼の分身みたいなものだ。泉の中にいることで、ロゼリンダとしての自分がはっきりと認識できる。

 気を取り直して箱の中を覗き込む。中にあるのは色とりどりの宝石のような、夜空に浮かぶ星をそのまま箱の中に閉じ込めたかのような、キラキラと虹色に輝く光だった。箱の様子を確かめると、蝶番のようになっている本体と蓋の合わせ目に小さな光のかけらが挟まっている。それを蓋の邪魔にならない場所に移動するためにちょいちょいと手で払うと、私は公爵領にある邸裏の花畑で花摘みをするフィリーアローゼと王妃様を見ていた。


 二人は手をつないで駆け寄ってきて、私を連れて花畑へ戻る。フィリーアローゼを王太子妃に望まれることもないし、前世の記憶が戻ることもないし、私が倒れることもない。綺麗な花を持って邸に戻って、時間になったら王妃様をお見送りして、夜にはゆっくり家族で食事をとり、ベッドに入った子どもたちに絵本を読み聞かせる。そうそう、そんな風に過ごそうと思っていた。私が望んだあの日はこれだった。フィリーアローゼがのびのびと育った先に、その彼女を慈しんでくれる人がいればそれで良いという考えのまま子育て出来たらどんなに素晴らしかっただろう。


 けれど、あの日はこうじゃ無かった。私はフィリーアローゼの笑顔を曇らせる碌でもない母親になってしまったし、フィリーアローゼは王弟を選んだ。


 そう思った瞬間、花畑や幼いフィリーアローゼは泡になって消えた。メルクリウスが私を抱きしめる力が強くなっている。内臓が飛び出しそうだ。お腹に回っている手をトントンと叩くとメルクリウスは腕を緩め相変わらず背中にしがみついたままホゥっとため息をつく。

 私はもう一度女神の落とし物を閉めようとして、今度は真ん中の大きない光の塊が蓋につっかえているのに気づいた。先ほどの事を思うと触れるのに躊躇してしまう。しばらく箱を揺すったり傾けたりしてみたがどうにもならない。触ってくれなきゃ言う事聞かないぞとばかりに箱から飛び出ている。

「もう。仕方ない子ね。」

 私は一つため息をつくと、その光を箱の中に押し込むためにそっと指先で触れた。

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